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23話 夜明けの報告


 王都が夜明けを迎えた時、街はまだ完全には眠りから覚めていなかった。


 南区の救貧院では、黒く焦げた壁際に水桶が並び、夜警と影狼の者たちが後始末をしていた。商業区の倉庫街では、壊れた木箱と押収された魔道具が慎重に運び出されている。旧水路沿いでは、黒蛇の連絡員が拘束され、口封じの毒を噛まぬよう厳重に監視されていた。


 王都は燃えなかった。


 それは、ただ運が良かったからではない。


 火種は確かに置かれていた。黒蛇の計画は、決して杜撰なものではなかった。ローデン商会を通して少しずつ燃えやすい物資を運び込み、慈善や納入という疑われにくい名目で王都各所へ散らし、最後に魔道具で同時に火を放つ。もし事前に気づけていなければ、王都は混乱に包まれていた。


 民は逃げ惑い、騎士団は消火に追われ、王城は指揮のために揺れただろう。


 ルイは民の前へ立たざるを得ず、アランは影から飛び出さざるを得なかった。


 そしてその隙に、黒蛇は古王墓地で蒼狼の誓約へ手を伸ばすつもりだった。


 だが、そうはならなかった。


 火種の多くは、ミリア・ランバールの地図によって先に見つけられていた。避難経路は整えられ、燃えやすい物資は移され、影狼は先回りしていた。


 黒蛇は王都を盤面にした。


 だが、その盤面にはすでに白薔薇の線が引かれていた。


 王城地下の影狼会議室では、夜通し動いた隊長格たちが集まっていた。


 ガイルは椅子に座るなり、机に突っ伏すように腕を乗せた。


「壊すなって言われたからな。ちゃんと壊さずに済ませたぞ」


 リィナが横目で見る。


「倉庫の扉、半分なくなってたけど?」


「あれは敵が勝手に吹っ飛んだ」


「敵は扉じゃないよ」


「細けえなぁ」


 疲労は見えるが、二人の軽口はいつも通りだった。ゼイドは壁際に立ったまま無言で報告書を差し出し、レムはそれらを受け取って分類している。


 机の中央には、回収された蒼狼の軍旗の断片が置かれていた。


 古びた布片。


 蒼い糸と銀の縁取り。


 狼の爪を思わせる紋様。


 それは小さなものにすぎない。だが、その存在感は異様だった。まるで何百年もの眠りを経てもなお、自分がただの布ではないと主張しているかのようだった。


 アランはそれを見つめていた。


 昨夜、古王墓地で見た霊廟の扉が頭から離れない。


 黄金の獅子。


 月を背負う蒼狼。


 あの扉はまだ開いていない。


 だが、確かに反応していた。


 扉の前に立った時、アランの銀髪はわずかに光を帯びた。黒蛇の刻印に触れた時ほど露骨ではなかったが、霊廟そのものが彼を見ていたような感覚があった。


 呼ばれている。


 そう感じた。


 それが何より不快だった。


 自分の意思ではなく、血と髪の色によって何かが決まる。その感覚は、幼い頃に王家の古文書を読んだ時と同じだった。黄金は王冠を戴く。銀は夜を守る。あの言葉は美しい伝承の形をしているが、受け取る者にとっては鎖にもなる。


 アランは小さく息を吐いた。


「昨夜の被害は」


 レムが報告書を見ながら答える。


「南区救貧院、建物裏手の一部焼損。負傷者なし。商業区倉庫街、火災未遂。押収品多数。旧水路沿い、黒蛇連絡員三名拘束。北区礼拝堂地下倉庫、起動役二名拘束。油と薬品は事前移送済みのため被害なし」


「王都全域としては、火災未遂で抑えられたか」


「はい」


 リィナが地図を指で叩いた。


「白薔薇様がいなかったら、少なくとも三箇所は普通に燃えてたと思う。特に北区礼拝堂の地下倉庫、あれは危なかった。油と薬品がそのままだったら、貧民街まで延焼してたよ」


 ガイルが腕を組んだまま唸る。


「嬢ちゃん、戦場に出てねえのに戦ってたんだな」


「そういうこと」


 リィナは珍しく茶化さずに言った。


「地図で殿下を助けた」


 アランは何も言わなかった。


 だが、その言葉は胸の奥に落ちた。


 地図で助けた。


 その通りだった。


 剣ではない。魔法でもない。影狼のような隠密でもない。ミリアは貴族社会の書簡と、慈善活動の名簿と、地図と、羽ペンで王都を守った。


 そして、アランを選ばされる状況から救った。


 それがどれほど大きいことか、彼自身が一番よく分かっている。


 レムが静かに言う。


「ミリア様へ正式に報告を送りますか」


「送る」


 アランは即答した。


 以前なら、必要最低限の短い文で済ませただろう。あるいは、危険を避けるために詳細をぼかしたかもしれない。


 だが、もうそれでは駄目だ。


 彼女はすでにこの戦いの一部を担っている。


 ならば、彼女には知る権利がある。


「昨夜の各地の結果と、古王墓地での出来事をまとめて送る。ただし、霊廟の扉については慎重に。開かなかったこと、黒蛇が開かせようとしたこと、蒼狼の紋があったことは伝える」


「ヴァルグの言葉は?」


 レムが問う。


 アランは一瞬だけ黙った。


 白薔薇を大切に守ることだ。


 あの花は、お前の鍵にも、弱点にもなる。


 思い出すだけで、胸の奥に冷たいものが走る。


 黒蛇はミリアを見ている。


 ただの標的としてではない。


 アランを動かす存在として、彼女を見始めている。


「……それも伝える」


 アランは静かに言った。


 レムは少しだけ目を見開いた。


「よろしいのですか」


「隠しても、彼女は察する。それに、彼女自身が危険を知っていた方がいい。僕が怖いから隠す、というのはもうやめる」


 リィナが小さく笑う。


「殿下、成長したね」


「君に言われると複雑だな」


「褒めてるのに」


「褒め方を勉強してくれ」


 会議室に小さな笑いが生まれた。


 だが、すぐにアランは表情を戻す。


「これで黒蛇の狙いははっきりした。王都の混乱、蒼狼の誓約、銀髪の王族。彼らはこの三つを繋げようとしている」


 ゼイドが短く言った。


「次は」


「グレイストン伯爵だ」


 アランの青い瞳が冷える。


「昨夜の火種を作るには、商会、慈善、財務、貴族の協力が必要だった。グレイストン家がどこまで黒蛇に関わっているか、そろそろ確かめる」


「捕らえるのか?」


 ガイルが問う。


「まだ早い。伯爵本人が黒蛇の中心とは限らない。だが、昨夜で向こうも焦る。必ず動く」


「動いたところを叩く」


「そう」


 アランは地図の上に新しい駒を置いた。


 グレイストン伯爵邸。


「今度は、貴族街が舞台になる」


 ランバール公爵邸にアランからの報告が届いたのは、朝食後だった。


 ミリアは書斎でそれを受け取った。


 封書はいつもより厚い。


 開いた瞬間、彼女は無意識に背筋を伸ばした。


 南区救貧院、被害軽微。


 商業区倉庫街、火災未遂。


 旧水路、黒蛇連絡員拘束。


 北区礼拝堂地下倉庫、被害なし。


 古王墓地、黒蛇幹部ヴァルグ出現。


 霊廟の扉に黄金の獅子と蒼狼の紋。


 黒蛇はアランに扉を開けさせようとした。


 そして、最後の一文。


『ヴァルグは君を、僕の鍵にも弱点にもなると言った』


 ミリアの指が止まった。


 ゆっくりと、その文を読み返す。


 鍵。


 弱点。


 黒蛇がそう見ている。


 それは恐怖を呼ぶ言葉だった。


 だが、不思議と、ミリアの心は大きく乱れなかった。


 怖くないわけではない。


 怖い。


 自分が狙われることも、アランの弱点として扱われることも、黒蛇に利用される可能性も怖い。


 けれど、それ以上に悔しかった。


 自分を、アランを縛る鎖のように扱われることが。


 アランがまた、自分のせいで誰かが危険になると考えてしまうことが。


 彼を一人に戻すための言葉として、自分が使われることが。


 ミリアは深く息を吸った。


 怒りを握り潰さない。


 剣と同じ。


 足場を確認する。


 相手の狙いを見る。


 そして、必要な形で使う。


 彼女は机に向かい、返書を書き始めた。


『報告、確かに受け取りました。王都各所の被害が抑えられたこと、安堵しております。

 ヴァルグの言葉について、恐怖がないとは申しません。ですが、私があなたの弱点になるというのなら、そうならぬよう強くなります。

 鍵と言うのなら、黒蛇の望む扉ではなく、あなたが一人で閉じこもる扉を開ける鍵になりたいと思います。

 今後、グレイストン伯爵家の社交関係と慈善活動の残りを洗い直します。直接接触は避けます。約束します』


 書き終えた後、ミリアは少しだけ頬が熱くなるのを感じた。


 勢いで書きすぎただろうか。


 だが、消さなかった。


 今の自分の正直な言葉だった。


 それに、アランが隠さず伝えてくれたのだ。ならば、自分も誤魔化さず返したい。


 封をして侍女へ渡した後、ミリアはしばらく窓辺に立った。


 白薔薇の庭が朝日に照らされている。


 自分の金髪が窓ガラスに映っていた。


 王家の黄金とは違う色。


 だが、光を受ける色。


 アランの銀が夜を守るなら、自分は何になれるのだろう。


 彼の夜を照らす灯。


 彼が一人で選ばされないよう、道を示すもの。


 そうありたいと、ミリアは思った。


 同じ頃、王太子ルイは王城の執務室で、昨夜の報告を受けていた。


 机の上には王都各所の火災未遂に関する公式報告が並んでいる。表向きには、防火監査中に発見された不審物と、複数の放火未遂事件。黒蛇の名はまだ伏せられている。


 ルイは報告を読み終えると、静かに目を閉じた。


「王都は守られたか」


 アランは窓際に立っていた。


「今回は…」


「次があるな」


「あります」


 短い返答。


 ルイは目を開け、弟を見る。


 朝の光の中で、アランの銀髪は淡く輝いていた。かつて父アルバートから聞いた伝承が、ルイの脳裏にも浮かぶ。


 黄金は王冠を戴き、民を照らす。

 銀は王冠を戴かず、夜を守る。


 ルイはその言葉が嫌いだった。


 美しい伝承として語られるその裏に、弟へ影を背負わせる冷たさを感じるからだ。


 自分は黄金の髪を持って生まれた。


 父と同じ色。


 王になるべき者の色。


 それは誇りであると同時に、重荷でもある。


 だが、アランの銀はもっと孤独だ。


 王冠を戴かないことを前提とした色。


 夜を守ることを求められる色。


 ルイは静かに言った。


「アラン。蒼狼の誓約に、お前だけで向き合うな」


「またそれですか」


「何度でも言う」


 ルイの声は穏やかだが、強かった。


「王国の古い誓約だというなら、それは王家全体の問題だ。お前一人の髪の色に背負わせるものではない」


 アランは何か言い返そうとして、やめた。


 兄の言葉は正しい。


 正しいが、実際に扉へ呼ばれるのは自分だ。


 黒蛇が狙うのも自分だ。


 それでも、ルイはその重さを分けようとしてくれている。


「兄上。もし、いつか蒼狼軍を呼ぶことになったら」


 ルイの表情がわずかに変わる。


 アランは窓の外を見たまま続けた。


「それは、兄上の王国を守るためです。僕が軍を持つためではない」


「分かっている」


「兄上は、不安になりませんか。僕が、銀の髪で古の軍を率つことに」


 その問いは、ずっとアランの中にあったものだった。


 もし蒼狼軍が本当に存在し、銀髪の王族である自分に応じるなら。


 それは、第二王子アランが独自の軍勢を持つということにもなる。


 王位を望まないと言い続けてきた彼が、古の誓約軍を率いる。


 貴族たちはどう見るか。


 敵国はどう見るか。


 民はどう見るか。


 そして、兄はどう見るのか。


 ルイは静かに答えた。


「不安にはならない」


 アランは振り向いた。


「なぜですか」


「お前だからだ」


 即答だった。


 ルイは机から離れ、弟の前まで歩いてきた。


「私は、お前が何のために駄王子を演じてきたか知っている。何のために影狼を作ったか知っている。何のために自分を軽んじてきたかも知っている」


「……」


「だから、たとえお前が古の軍を率いたとしても、私は疑わない」


 ルイの金の髪が朝日に輝く。


「お前は私の敵にはならない」


 アランは言葉を失った。


 ルイは続けた。


「そして、私もお前を疑う者にはならない」


 それは、王太子としての宣言ではなく、兄としての言葉だった。


 アランは胸の奥が詰まるような感覚を覚えた。


 幼い頃、月明かりの庭で交わした約束が蘇る。


 お前は私の弟だ。


 どんな役目を選んでも、それは変わらない。


 長い時間が経っても、ルイはその約束を守っている。


「兄上は、本当にずるい」


 アランは小さく言った。


「そう言われると、逃げられない」


「逃げるな」


「厳しい」


「お前には必要だ」


 アランは苦笑した。


 その時、扉が叩かれた。


 レムが入室し、一礼する。


「アラン様。ミリア様より返書が届きました」


 ルイの目が少しだけ柔らかくなる。


「読め」


「兄上の前で?」


「差し支えがあるのか」


「……ありません」


 アランは封を開いた。


 文面を読む。


 最初は静かだった表情が、途中でわずかに変わった。


 黒蛇の望む扉ではなく、あなたが一人で閉じこもる扉を開ける鍵になりたい。


 その一文で、アランは完全に固まった。


 ルイが横から覗こうとする。


「何と書いてある」


「秘密です」


「今さらか」


「今さらでも秘密です」


 アランは封書をそっと畳んだ。


 耳のあたりが少し熱い。


 ルイはそれを見て、察したように笑った。


「よい返事だったようだな」


「……手強いです」


「ミリア嬢が?」


「はい」


 アランは窓の外を見た。


 王都は朝の光に包まれている。


 昨夜、燃えなかった街。


 ミリアが守るための線を引いた街。


 その街を見ながら、アランは胸の奥に生まれた感情を静かに受け止めた。


 鍵にも、弱点にもなる。


 ヴァルグはそう言った。


 確かに、そうかもしれない。


 ミリアは自分の心へ入り込んでくる。自分が一人で閉ざした場所へ、当然のように手を伸ばす。守ろうとすればするほど、彼女は近づいてくる。


 だが、それは弱さだけではない。


 彼女がいることで、アランは選ばされずに済んだ。


 彼女がいることで、王都は燃えなかった。


 彼女がいることで、自分を少しだけ軽く扱わずにいられる。


 それを弱点と呼ぶなら。


 きっと、人は誰かを大切にするほど弱くなる。


 けれど、その弱さがあるから、強くもなれる。


 アランは封書を胸元にしまった。


「兄上。グレイストン伯爵の件、次はこちらから動きます」


 ルイの表情が引き締まる。


「どうする」


「伯爵家主催の夜会に出ます」


 レムが目を上げた。


「アラン様が、ですか」


「うん」


「駄王子として?」


「もちろん」


 アランは静かに笑った。


「黒蛇が僕を銀の守護者として引きずり出そうとしているなら、こちらは駄王子の仮面で近づく」


 ルイは少しだけ眉を上げる。


「ミリア嬢も出るのか」


「出てもらう」


「危険だぞ」


「分かっています」


 アランは頷いた。


「でも、貴族街では彼女の目が必要です。それに、彼女を遠ざければ、黒蛇は逆に狙いやすくなる。なら、僕の見える場所にいてもらう」


「守る対象ではなく、協力者としてか」


 アランは少しだけ間を置いた。


 そして答えた。


「はい」


 その返答に、ルイは静かに微笑んだ。


「ようやく言えたな」


「兄上は時々意地悪です」


「弟の成長を確認しているだけだ」


 アランはため息をついた。


 だが、その表情には以前のような苦さだけではなく、少しの覚悟があった。


 次の舞台は貴族街。


 夜会。


 美しい灯りと笑顔の裏で、黒蛇の糸が動く場所。


 グレイストン伯爵家がどこまで関わっているのか。


 蒼狼の誓約に何を知っているのか。


 そして、黒蛇がアランとミリアをどう見ているのか。


 それを確かめるため、駄王子と白薔薇は再び表舞台へ出る。


 ただし今度は、以前とは違う。


 アランは一人で影へ消えるのではない。


 ミリアも、ただ守られるために隣へ立つのではない。


 王国の夜はまだ深い。


 だが、その夜に向かって、銀の守護者と白薔薇は同じ地図を見始めていた。

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