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22話 古王墓地の月



 王都北西にある古王墓地は、王都の中でありながら、王都から切り離された場所だった。


 高い石壁に囲まれ、古びた鉄門にはヴァルタイン王家の紋章が刻まれている。昼でさえ訪れる者は少ない。眠っているのは歴代の王と、その血に連なる者たち。王家の儀式や追悼の日を除けば、そこは静寂と祈りのためだけに存在する場所である。


 だが今夜、その静寂は破られようとしていた。


 月は雲の切れ間から白く輝き、墓地に立ち並ぶ石碑を冷たく照らしている。古い王の墓碑は黒く沈み、苔むした石像は長い年月に削られながらも、なお王国の歴史を見下ろしていた。


 その墓地の奥に、建国王の霊廟がある。


 初代ヴァルタイン王が眠る場所。


 そして、表の歴史書には詳しく記されていない、もう一つの誓約が封じられた場所でもあった。


 アランは鉄門の前に立った。


 黒い外套が夜風に揺れている。王都各所で起きかけた火災は、影狼とミリアの事前準備によって大きな被害を出さずに収まりつつある。だが、それは黒蛇の本命ではなかった。


 敵は、王都を燃やそうとしたのではない。


 王都が燃えるという恐怖を使って、影狼を動かし、王城を揺らし、アランをここへ導いた。


 古王墓地へ。


 銀の守護者の名が眠る場所へ。


 レムがアランの隣に立った。


 彼女の黒髪は夜に溶け、赤い瞳だけが淡く光を拾っている。腰には細剣。表情はいつも通り冷静だが、その指先にはわずかな緊張があった。


「中に、複数の気配があります」


「黒蛇?」


「はい。ただし、数は多くありません。精鋭かと」


「ヴァルグは」


「確認できません」


 アランは門の奥を見た。


 静かすぎる。


 王都の別の場所では、今も影狼が黒蛇の火種を潰している。ガイルは旧水路、リィナは商業区、ゼイドは逃走経路の封鎖。全員をここへ集めることはできない。


 それも黒蛇の狙いだろう。


 アランに、限られた手勢で古王墓地へ来させる。


 そして、何かを選ばせる。


「ミリア嬢からの追加報告は」


 アランが問うと、レムは懐から小さな紙片を取り出した。


「先ほど届きました。慈善倉庫の火種は大半が移送済み。避難経路も確保。王都各所の火災は、発生しても限定的に留まる見込みです」


「本当に、仕事が早い」


 アランの口元に、わずかな笑みが浮かんだ。


 こんな時にまで、彼女のことを考えている。


 自分でも少し可笑しかった。


 だが、その情報があったからこそ、今ここに来られた。もし王都各地が本当に炎に包まれていたなら、アランはここへ来ることを選べなかったかもしれない。民を救うため、火の中へ走っただろう。


 黒蛇はそれを読んでいた。


 しかし、ミリアが選択肢を減らしてくれた。


 アランが選ばされる前に、選ばなくて済むように動いてくれた。


 それが、今この場で彼の背を押している。


「行こう」


 アランは門に手をかけた。


 古びた鉄門は、音もなく開いた。


 まるで、彼を待っていたかのように。


 古王墓地の中は、外よりも冷たかった。


 墓碑の間を抜ける石畳は、月光に濡れているように白い。左右には王族の石像が立ち、剣を抱いた者、冠を戴いた者、祈る者、それぞれが沈黙の中で訪問者を見つめている。


 アランは進みながら、幼い頃に読んだ記録を思い出していた。


 黄金は王冠を戴き、民を照らす。


 銀は王冠を戴かず、夜を守る。


 王国が滅びの縁に立つ時、古き軍は銀の髪に応える。


 この墓地のどこかに、その誓約の原型が眠っている。


 それを黒蛇が欲しがっている。


 なぜか。


 古の軍を呼び起こすためか。


 誓約を歪めるためか。


 あるいは、銀の守護者であるアランを、何かの鍵として使うためか。


 考えれば考えるほど、胸の奥が冷えていく。


 アランは自分の銀髪に触れた。


 この髪を理由に、自分は影を選んだわけではない。


 そう思ってきた。


 兄を守るため。王国を割らせないため。ルイを王にするため。自分自身の意思で選んだのだと。


 だが、黒蛇はその意思ではなく、血と髪の色を見ている。


 それが、ひどく不快だった。


「アラン様」


 レムの声が低く響く。


 前方。


 建国王の霊廟前に、人影があった。


 黒衣の者たちが六人。


 そして、その中央に一人。


 長い黒髪。


 灰色の瞳。


 ヴァルグだった。


 彼は霊廟の階段に立ち、まるで古い友を迎えるようにアランを見ていた。


「来たか」


 ヴァルグの声が、月夜の墓地に響く。


「王都が燃えているのに、ここへ来るとはな」


「残念だけど、王都は君たちの予定ほど燃えていないよ」


 アランは静かに答えた。


「火種は潰した。民の避難も済んでいる。君たちの計画は失敗だ」


 ヴァルグは薄く笑った。


「そうか。白薔薇か」


 アランの目がわずかに冷える。


 ヴァルグはその変化を見逃さなかった。


「やはり、あの令嬢は危険だな。ただ守られるだけの花ではない。情報を読み、火の道を断つ。お前が選ばされるはずだった盤面を変えた」


「彼女に手を出せば、後悔することになる」


「もう出している」


 ヴァルグの声は平坦だった。


「お前も分かっているはずだ。白薔薇はすでに、こちらの盤面に乗っている」


 アランは剣の柄に手をかけた。


 レムも細剣を抜く。


 黒蛇の構成員たちがそれぞれ武器を構えた。


 だが、ヴァルグはまだ剣を抜かなかった。


「今夜の目的は殺し合いではない」


「君たちはいつもそう言うね。その割に、よく刃を抜く」


「必要なら抜く」


「それは僕も同じだ」


 月光の下、二人の視線が交差した。


 ヴァルグはゆっくりと霊廟の扉へ手を向ける。


 扉には、二つの紋章が刻まれていた。


 一つは、王冠を戴く黄金の獅子。


 もう一つは、月を背負う蒼狼。


 アランは初めて、それをはっきりと見た。


 黄金の獅子は、王家の表の紋。


 蒼狼は、影の誓約の紋。


 兄ルイと自分。


 黄金と銀。


 まるで、ずっと昔からその役割が刻まれていたかのようだった。


「この扉は、王の命では開かない」


 ヴァルグが言う。


「建国王の墓でありながら、王冠を戴く者のためだけに作られてはいない。ここには、もう一人の王族の誓約が眠っている」


「ずいぶん詳しいね」


「黒蛇は長く王国を見てきた」


「覗き趣味のある蛇だ」


 ヴァルグは笑わない。


「開けろ、アラン・ヴァルタイン」


 静かな命令。


 アランは目を細める。


「断る」


「お前には開けられる」


「だから開けない」


「開けなければ、王都の別の火種が起動する」


 レムの表情が変わる。


 アランはヴァルグを見た。


「まだ残していたか」


「当然だ。白薔薇が潰した火種も多い。だが、すべてではない」


 ヴァルグは懐から小さな刻印板を取り出した。


「王都北区。古い礼拝堂の地下倉庫。そこには冬越し用の油と薬品がある。火が出れば、貧民街まで広がる」


「……」


「この扉を開けろ。そうすれば、起動は止める」


 アランの青い瞳が冷えた。


 選ばされる。


 まさに、その言葉通りだった。


 王都を守るか。


 古い誓約を守るか。


 扉を開けるか。


 火を放たせるか。


 ヴァルグは、アランが何を嫌うかを知っている。人の命を秤に乗せられること。守れるものを見捨てること。自分のせいで誰かが傷つくこと。


 アランは歯を噛みしめた。


 その時。


 夜空に、細い光が上がった。


 北区。


 赤ではない。


 青。


 影狼の合図。


 続いて、もう一つ。


 緑。


 制圧完了。


 レムが息を呑む。


 アランの表情がわずかに動いた。


 ヴァルグの眉が初めて動いた。


「何だと」


 その直後、レムの懐の伝令符が淡く光った。


 彼女は素早く確認し、アランへ告げる。


「北区礼拝堂地下倉庫、火種の起動役を拘束。倉庫内の油はすでに移送済み。指揮はランバール公爵家の防火確認隊。影狼補佐」


 アランは一瞬、言葉を失った。


 ミリア。


 彼女がそこまで読んでいた。


 火種の地図を作り、慈善倉庫だけでなく礼拝堂地下倉庫の可能性まで洗っていたのだろう。公爵家の名で確認隊を出し、影狼と連携させ、黒蛇が最後の脅しに使うはずだった火種すら潰していた。


 また、選択肢を消してくれた。


 アランが選ばされる前に。


 ヴァルグの灰色の瞳が細くなる。


「白薔薇……」


 その声には、初めて明確な警戒が混じっていた。


 アランは静かに笑った。


「残念だったね」


 その笑みは、駄王子のものではなかった。


「僕は今夜、選ばされない」


 ヴァルグは剣を抜いた。


 同時に、黒蛇の構成員たちが動く。


 戦闘が始まった。


 レムが左へ走る。


 細剣が月光を裂き、黒蛇の短剣を弾く。二撃目で相手の腕を打ち、三撃目で膝を崩す。無駄のない動きだった。


 アランはヴァルグへ踏み込んだ。


 銀の剣が、灰色の刃とぶつかる。


 鋼の音が、墓地に響いた。


 ヴァルグの剣は速い。


 礼拝堂の時よりも、資料保管棟の時よりも、さらに鋭い。狭い霊廟前の階段、左右に並ぶ石像、足元の段差。そのすべてを利用してくる。


 だが、アランも迷いがなかった。


 今夜、彼は選ばされない。


 それだけで、剣が軽くなる。


 守るべきものが多いことは変わらない。


 だが、その一部をミリアが支えてくれている。影狼が支えている。ルイが王城で表の指揮を取っている。


 一人ではない。


 その事実が、彼の踏み込みを変えていた。


「剣が違うな」


 ヴァルグが低く言う。


「白薔薇のおかげか」


「さあね」


 アランは剣を弾き、半歩入る。


「君に教える義理はない」


 二人の刃が交差する。


 火花が散る。


 ヴァルグは一瞬だけ笑った。


「厄介だな。お前は一人で背負っている方が崩しやすかった」


 アランの剣が鋭く走る。


 ヴァルグは受け流したが、外套の端が裂けた。


 その隙に、レムが黒蛇の構成員を制圧する。最後の一人が霊廟の横へ逃げようとしたが、墓碑の影から現れた影狼隊員に取り押さえられた。


 戦況はアラン側へ傾いていた。


 だが、ヴァルグは焦らなかった。


 彼は後退し、霊廟の扉へ背を向ける。


「今夜は失敗か」


「潔いね」


「盤面が変わっただけだ」


 ヴァルグは懐から黒い石を取り出した。


 レムが反応する。


「アラン様!」


 黒い煙が広がる。


 逃走用魔道具。


 アランは踏み込んだ。


 剣が煙を裂く。


 だが、ヴァルグの姿は半ば消えかけていた。


 その瞬間、ヴァルグが最後に言った。


「銀の守護者。白薔薇を大切に守ることだ」


 灰色の瞳が、煙の向こうで細く光る。


「あの花は、お前の鍵にも、弱点にもなる」


 煙が弾けた。


 ヴァルグの姿は消えた。


 残されたのは、冷たい月光と、霊廟の扉だけだった。


 アランはしばらく動かなかった。


 剣を下ろし、霊廟の扉を見つめる。


 黄金の獅子。


 蒼狼。


 開けることはできるのかもしれない。


 だが、今夜は開けない。


 黒蛇の脅しによってではなく、自分の意思で向き合う時が来るまでは。


 レムが近づく。


「お怪我は」


「ない」


 レムは少しだけ疑うように見たが、今回は本当だと判断したらしい。


「北区の件、ミリア様の手配が間に合っていました」


「うん」


 アランは静かに笑った。


「また助けられた」


「お伝えしますか」


「伝える」


 今度は迷わなかった。


 レムはわずかに目を細める。


「以前より素直になられましたね」


「皆がうるさいからね」


「良い傾向です」


「褒めてる?」


「はい」


「君の褒め言葉も分かりにくいな」


 アランは剣を鞘へ戻した。


 古王墓地に、再び静寂が戻る。


 だが、もう以前の静寂ではない。


 扉はまだ閉じている。


 しかし、その存在を黒蛇は知った。


 蒼狼の誓約は、眠りから揺り起こされようとしている。


 そしてアランもまた、自分がいつかこの扉と向き合わなければならないことを理解していた。


 ランバール公爵邸では、ミリアが北区からの報告を受け取っていた。


 礼拝堂地下倉庫の火種は無事に制圧。


 油と薬品は移送済み。


 被害なし。


 彼女は椅子に座り、長く息を吐いた。


 間に合った。


 その言葉だけが胸に残る。


 だが、すぐに次の報告が届いた。


 古王墓地にて黒蛇と接触。


 ヴァルグ出現。


 霊廟の扉への干渉を試みるも失敗。


 アラン殿下、無事。


 最後の一文を見て、ミリアはようやく肩の力を抜いた。


 無事。


 ただそれだけで、胸が熱くなる。


 だが、その安堵は長く続かなかった。


 報告書の最後に、アランの短い言葉が添えられていた。


『君が選択肢を減らしてくれた。だから、今夜は選ばされずに済んだ。ありがとう』


 ミリアは、その文を何度も読んだ。


 選ばされずに済んだ。


 それは、アランにとってどれほど大きなことだったのだろう。


 彼はずっと選び続けてきた。


 自分を隠すこと。


 駄王子になること。


 兄を王にすること。


 王国を守ること。


 そして、そのたびに自分を後回しにしてきた。


 今夜、少しだけでも彼に選ばせずに済んだのなら。


 自分の地図と書簡と、貴族社会での動きが、彼の重荷を一つでも減らせたのなら。


 ミリアは目を閉じた。


「よかった」


 小さく呟いた。


 窓の外では、夜明け前の空がわずかに白み始めている。


 金の髪に、薄い光が触れる。


 彼女は立ち上がり、机の上の地図を見た。


 火種は完全には消えていない。


 黒蛇はまだ動いている。


 古王墓地の扉も、蒼狼の誓約も、アランの銀髪も、すべてはこれからさらに深い意味を持つだろう。


 けれど、今夜。


 王都は燃えなかった。


 アランは選ばされなかった。


 それだけで、戦った意味はあった。


 白薔薇は羽ペンを置き、静かに朝を迎えた。


 王国の夜はまだ終わらない。


 だが、その闇の中で、銀の守護者はもう一人ではなかった。

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