19話 蒼狼の断片
エドガー・ノルムの屋敷は、王都の中流官吏が住む区域にあった。
貴族街ほど華やかではない。だが、下町ほど雑然としてもいない。石造りの家々が整然と並び、通りには小さな街灯が点り、夜警が一定の間隔で巡回している。財務局の副書記官としては、目立ちすぎず、しかし貧しくも見えない。いかにもエドガーらしい場所だった。
その屋敷を、黒い影が囲んでいた。
影狼である。
ゼイドの隠密班が屋根と路地を押さえ、リィナの情報班が近隣住民や使用人の動きを探る。ガイルは少し離れた路地で待機していた。本人は不満げだったが、屋敷ごと壊しかねない突撃隊長を最初から投入するわけにはいかない。
そして、アランは屋敷の向かいにある空き家の二階から、静かにエドガー邸を見ていた。
月明かりが彼の銀髪を淡く照らす。
夜の中では、その色は奇妙に目立つ。闇に溶ける黒ではなく、月光を受けて浮かび上がる銀。かつてなら、その色を面倒だと思った。影にいるには目立ちすぎる。兄の金髪ほど王者の輝きを持つわけではないのに、別の意味で人の目を引く。
だが今、その色がただの髪ではないことを、アランは改めて突きつけられていた。
銀の髪。
夜を守る者。
古の軍に応じられる者。
黒蛇がそれを狙っているなら、今夜の敵はただの証拠隠滅では動いていない。
「動きました」
ゼイドの声が、背後の影から聞こえた。
相変わらず気配がない。
アランは窓の外を見たまま答える。
「何人」
「屋敷内に二人。外に見張りが三人。持ち出したものは、古い布片。蒼狼の紋の一部を確認」
「エドガーの言っていた覚書は?」
「床下に残っています。侵入者は触れませんでした」
アランの目が細くなる。
やはり、狙いは証拠の覚書ではなかった。
エドガーの保険など、黒蛇にとってはどうでもいいのか。あるいは、グレイストン伯爵の名をこちらに聞かせること自体が目的だったのか。
重要なのは、蒼狼の軍旗の断片。
なぜ、エドガーの屋敷にそんなものがあったのか。
なぜ、黒蛇はそれを回収しようとしたのか。
「追跡は」
「継続中です。侵入者の一人をリィナが尾行しています。もう一人は屋敷内に残っています」
「残っている?」
「はい。地下室に」
アランは一瞬だけ考えた。
持ち出す者と、残る者。
なら、残った者には別の役割がある。
「罠か」
「可能性が高いです」
「屋敷内に火種は?」
「確認中。魔力の揺れがあります」
アランは小さく息を吐いた。
「本当に、火が好きな連中だね」
「どうしますか」
「罠を潰す。証拠を守る。残った者は生け捕り」
「承知」
ゼイドの姿が消える。
アランは外套を翻し、階段へ向かった。
エドガー邸の裏口は、すでに影狼によって開かれていた。
中は静まり返っている。使用人たちは事前に別の場所へ避難させてある。表向きには、財務局の調査に伴う一時保護という名目だ。エドガー本人が影狼に拘束されていることは、まだ外には出していない。
アランは廊下を進んだ。
古い屋敷特有の木の匂い。机や棚には書類が整えられている。几帳面な男の家だった。だが、その整い方は、今となっては空虚に見える。書類を整えることで、自分の罪まで整えられると思っていたのだろうか。
書斎に入ると、床板が一部外されていた。
その下には、小さな鉄箱がある。
ゼイドが言った通り、中には覚書が残っていた。五年前、ローデン商会へ資金が流れた際の仲介記録。そこにはグレイストン伯爵家の印章が押されている。
だが、アランの視線はそこでは止まらなかった。
鉄箱の奥に、細い空白がある。
何かが収められていた跡。
布片。
蒼狼の軍旗の断片は、そこに隠されていたのだ。
「エドガーが持っていたのか。それとも、預けられていたのか」
アランは呟いた。
その時、床下から微かな音がした。
書斎のさらに下。
地下室。
アランは剣の柄に手を置く。
階段は書斎奥の本棚の裏に隠されていた。ゼイドが開いた跡がある。細い階段を下りると、湿った空気が流れてきた。
地下室には、古い箱と使われなくなった家具が並んでいる。
その奥に、一人の男がいた。
黒い外套。短い灰色の髪。手には小型の魔道具。床には、複雑な刻印が描かれている。発火用ではない。爆発でもない。刻印の中心には、小さな銀色の粉が撒かれていた。
男が振り向く。
その目は、驚いていなかった。
「来たか、銀の王子」
アランの目が冷える。
その呼び名。
駄王子でも、第二王子でもない。
銀の王子。
「ずいぶん古臭い呼び方だね」
「お前は、その名の意味を知っている」
「さあ。僕はただの怠け者の第二王子だよ」
男は笑った。
「まだその仮面を被るのか。黒蛇の前で」
「君たち相手だからこそ、仮面は大事だ」
アランはゆっくりと剣を抜いた。
「その刻印は何だ」
「試しだ」
「試し?」
「蒼狼の欠片と、銀の血が近づいた時、古い誓約がどの程度反応するのか」
アランの表情がわずかに動いた。
男はそれを見て、満足そうに目を細める。
「やはり、知らされていないことも多いようだな。銀の守護者」
アランは踏み込んだ。
言葉を続けさせるつもりはなかった。
男は魔道具を起動する。
床の刻印が青白く光った。
同時に、地下室全体に奇妙な振動が広がる。音ではない。空気でもない。もっと深い、血の奥を撫でられるような感覚。
アランの銀髪が、淡く光を帯びた。
彼自身が一瞬だけ息を呑む。
男は笑った。
「反応した」
次の瞬間、アランの剣が男の手元を斬った。
魔道具が弾き飛ばされ、壁にぶつかって砕ける。光が消えた。地下室の空気が戻る。
男は後退しようとしたが、ゼイドが背後に立っていた。
逃げ場はない。
男は唇を歪める。
「もう遅い。黒蛇は知った。銀はまだ生きている。蒼狼はまだ眠っている」
「誰に命じられた」
アランの声は低かった。
男は答えない。
ゼイドが一歩近づく。
それでも男は笑っていた。
「王都が燃える時、銀は選ばされる。王冠を戴かぬ者よ、お前がどこまで影に隠れられるか、楽しみにしている」
その言葉と同時に、男は奥歯を噛んだ。
毒。
ゼイドが即座に顎を押さえたが、遅かった。
男の身体が痙攣し、そのまま崩れ落ちる。
アランは男を見下ろした。
表情は冷たい。
だが、胸の奥では先ほどの振動がまだ残っていた。
銀の髪が反応した。
蒼狼の欠片。
古い誓約。
黒蛇は、ただ伝承を知っているだけではない。
誓約を試す術を持っている。
これは、思っていたより厄介だった。
「アラン様」
ゼイドが静かに呼ぶ。
「大丈夫だ」
アランはそう答えた。
だが、自分でも分かっていた。
今の答えは、半分ほど嘘だった。
その頃、リィナは蒼狼の軍旗の断片を持ち出した侵入者を追っていた。
王都南区を抜け、古い水路沿いの道へ。侵入者は足が速い。屋根へ上がり、細い橋を渡り、人混みに紛れようとする。だが、リィナの情報班は王都の路地を知り尽くしている。
逃走経路の先には、すでに影狼の目が置かれていた。
「そっち行ったよ!」
リィナが短く笛を鳴らす。
路地の先で、影狼の一人が行商人の荷車を倒した。偶然を装った足止め。侵入者は舌打ちし、横道へ入る。
そこに、ガイルが立っていた。
「おう」
大剣を肩に担いだ巨躯。
逃走者の足が止まる。
「急いでるみてえだな。道案内してやろうか?」
侵入者は短剣を抜いた。
ガイルは笑った。
「いいねえ。分かりやすい」
一瞬だった。
短剣が走るより早く、ガイルの拳が侵入者の腹に入った。刃ではない。拳である。だが、その一撃で男の身体はくの字に折れ、路地の壁へ叩きつけられた。
リィナが駆け寄り、男の懐を探る。
出てきたのは、古びた布片だった。
蒼い糸と銀の縁取り。
そこには、狼の爪のような紋様が残っている。
「これか」
ガイルが覗き込む。
リィナの表情は珍しく真剣だった。
「うん。蒼狼の軍旗の断片」
「そんなボロ布が大事なのか?」
「たぶん、ただの布じゃない」
リィナはそっと布片を持ち上げた。
布は古い。
だが、完全には朽ちていない。魔力がわずかに残っている。保存のためだけではない。何かの鍵として、あるいは誓約の証として。
「殿下に届けるよ」
「おう。こいつは?」
「連行。今度は毒を噛ませないようにね」
「任せろ。歯、全部確認するか?」
「怖いからやめて」
軽口を交わしながらも、リィナは布片から目を離せなかった。
蒼狼。
影狼の名の源。
アランの銀髪。
古の軍。
今まで伝承の中にあったはずのものが、現実の手触りを持って現れ始めている。
王城に戻ったアランは、すぐにルイへ報告した。
王太子執務室には、ルイとレム、ゼイド、リィナが集まっていた。机の中央には、回収された蒼狼の軍旗の断片が置かれている。
それは小さな布片にすぎない。
だが、部屋の空気を変えるには十分だった。
ルイはそれを見つめ、静かに言った。
「本物か」
アランは頷く。
「完全な鑑定はまだですが、少なくとも黒蛇は本物として扱っています」
「地下室の刻印は」
「蒼狼の欠片と銀髪の王族の反応を見るためのものだったようです」
レムの表情が険しくなる。
「アラン様の銀髪が反応したと」
「少しね」
「少しで済ませる内容ではありません」
「分かっている」
アランは珍しく素直に認めた。
ルイは弟の銀髪を見た。
金の髪を持つ王太子と、銀の髪を持つ第二王子。
同じ王家に生まれながら、背負わされた象徴は違う。
ルイは静かに言った。
「黒蛇は、お前を狙う」
「でしょうね」
「蒼狼軍を起こすためか。あるいは、その誓約を壊すためか」
「まだ分かりません。ただ、彼らは“王都が燃える時、銀は選ばされる”と言いました」
その言葉に、部屋が静まった。
王都が燃える時。
不吉な響きだった。
資料保管棟の火災。
王城内への魔道具搬入。
商会を使った物資流通。
黒蛇は火を使う。
そして今、王都が燃えるという言葉を残した。
ただの脅しではない可能性が高い。
「王都全域で火災、あるいは暴動を起こすつもりか」
ルイが言う。
リィナが資料を広げる。
「ローデン商会の最近の納入品に、灯油、香油、保存紙、乾燥薬草が増えてる。全部、単体では普通。でも配置次第では火の手を広げやすい」
「王都のどこに流れている」
「商業区、南区、使用人棟、あと貴族街の一部。全部を同時に燃やすには足りないけど、混乱を起こすには十分」
アランは考え込んだ。
王都が燃える。
混乱の中で、何を狙うのか。
ルイの失脚か。王城の破壊か。蒼狼の誓約を起こすための条件を作るのか。あるいは、戦争へ繋げるための前段階か。
黒蛇の狙いが、王都の内側だけに留まっていない気配がする。
「ミリア嬢には」
レムが問う。
アランは一瞬迷った。
だが、すぐに答える。
「伝える」
ルイがわずかに目を細める。
アランは続けた。
「蒼狼の軍旗の断片が回収されたこと。黒蛇が銀の髪と誓約に反応する術を持っていること。ただし、王都が燃えるという言葉については慎重に伝える」
「隠さないのだな」
ルイが言う。
「父上と兄上に言われましたから」
「私たちが言ったからか?」
「それもあります」
アランは机の上の布片を見た。
「彼女は、知らなければ自分で辿り着きます。その方が危ない。なら、必要な範囲は伝える」
ルイは静かに頷いた。
「よい判断だ」
「兄上に褒められると落ち着きませんね」
「なら、普段から褒められる行いをしろ」
「難しい」
短いやり取りのあと、アランは布片を見つめた。
蒼狼の欠片。
それは、古い誓約がまだ死んでいない証だった。
ランバール公爵邸に届いた報せを読んだミリアは、しばらく声を出せなかった。
蒼狼の軍旗の断片。
エドガー屋敷からの持ち出し。
黒蛇の刻印。
アランの銀髪への反応。
そして、王都が燃える時、銀は選ばされるという言葉。
手紙を持つ指に力が入る。
怖い。
その感情は素直にあった。
黒蛇がアランの銀髪を狙っている。彼の存在そのものが、古い誓約の鍵として扱われ始めている。それは、ただ命を狙われるのとは違う恐ろしさだった。
彼の意思とは関係なく、彼を何かに使おうとする力。
幼い頃、アランが恐れたものと同じだ。
誰かが彼を担ぎ、利用し、兄ルイと比べ、王国を割る。
黒蛇は今、それをもっと古く、もっと危険な形で行おうとしているのかもしれない。
ミリアは机に置いていた建国期逸話集を開いた。
黄金は王冠を戴き、民を照らす。
銀は王冠を戴かず、夜を守る。
この言葉を、美しい伝承として読むことはもうできなかった。
それは、アランの人生そのものを縛ってきた言葉だった。
そして今、黒蛇がその言葉を利用しようとしている。
「させません」
ミリアは静かに呟いた。
誰に向けた言葉かは、自分でも分からない。
黒蛇か。
古い誓約か。
それとも、また一人で背負おうとするアランか。
彼女は羽ペンを取った。
今できることをする。
グレイストン家と蒼狼軍の繋がり。
軍務系貴族との交友関係。
ローデン商会の納入品の流れ。
王都内で火災を起こしやすい場所。
慈善茶会で出た寄付先の倉庫や薬品保管庫。
すべてを書き出す。
黒蛇が火を使うなら、火の通り道を見つける。
黒蛇が誓約を使うなら、誓約を知る家を洗い出す。
黒蛇がアランを選ばせようとするなら。
その時、彼が一人で選ばなくて済むようにする。
ミリアは金の髪を後ろで結い直した。
鏡の中の自分を見る。
アランの銀髪とは違う。
ルイやアルバートのような王家の黄金でもない。
けれど、彼女の髪もまた、朝の光を受けて淡く輝いていた。
自分は王族ではない。
古の軍を率いる資格もない。
けれど、だからこそ見えるものがある。
貴族社会の中から、商会の記録から、茶会の会話から、王国の表側に残された細い糸を見つけることができる。
ミリアは紙の上に線を引いた。
白薔薇は、銀の守護者の代わりにはなれない。
だが、その足元を照らす灯にはなれる。
そのために、彼女は今日も羽ペンを握る。
剣を握る痛みを知った手で。
怒りの扱い方を覚え始めた心で。
王国の影へ伸びる線を、一本ずつ辿りながら。




