16話 銀の名を知る者
グレイストン伯爵夫人の茶会を終えたミリアは、屋敷へ戻るとすぐに書斎へ向かった。
侍女は休憩を勧めた。茶会の場で見せていた笑みは穏やかだったが、帰りの馬車の中でミリアがほとんど口を開かなかったことに気づいていたのだろう。だが、今のミリアには休む前に整理しなければならないものがあった。
感情ではなく、情報として。
怒りではなく、線として。
彼女は机の上に紙を広げ、羽ペンを取った。
まず、茶会の出席者。
グレイストン伯爵夫人。
子爵家の令嬢二名。
商会関係者の妻。
慈善院の後援者である男爵夫人。
そして、ローデン商会の名が出た途端に話題を変えた伯爵夫人の反応。
次に、会話の流れ。
王城火災の話題では、夫人は控えめな驚きを見せただけだった。王太子ルイへの見舞いの言葉は丁寧だったが、具体的な被害や管理体制には踏み込まない。財務局の監査に話が移りかけた時には、茶器の説明を挟んで空気を変えた。
ローデン商会の名が出た時も同じだった。
不自然ではない。
だが、自然すぎる。
貴族夫人として場を整える術に長けているからこそ、その整え方に作為が見える。
ミリアはそこに印をつけた。
そして、最後に肖像画。
グレイストン家の古い先祖の肖像。胸元につけられていた徽章。黒蛇の紋ではない。だが、ランバール家の建国期逸話集に描かれていた古い軍旗の縁飾りに似ていた。
偶然かもしれない。
けれど、偶然で片づけるには、今は糸が多すぎる。
ミリアは鞄から古い逸話集を取り出し、該当する挿絵のページを開いた。
黄金は王冠を戴き、民を照らす。
銀は王冠を戴かず、夜を守る。
その一節の下に、小さく描かれた古い軍旗。
蒼い狼を模した紋章。
その周囲の飾り。
茶会で見た肖像画の徽章と、確かに似ている。
「グレイストン家は、建国期の軍に関わっていた……?」
呟きは、書斎の静けさに吸い込まれた。
だが、それだけではない。
もしグレイストン伯爵家が古の軍、あるいは銀の守護者の伝承に関わっていたのなら、黒蛇が彼らに近づいた理由も変わってくる。単なる資金提供者ではなく、もっと古い何かを知る家。王国の表の歴史から薄れた誓約に触れる家。
黒蛇は、それを探しているのか。
それとも、すでに知っているのか。
ミリアは羽ペンを持つ手を止めた。
この件は、アランがまだ話したがらなかったものだ。
中庭で彼は明確に線を引いた。
今はまだ、その話をする時ではない。
ならば、自分が勝手に踏み込みすぎるべきではない。だが、情報として伝える必要はある。彼が話したくないことと、彼に知らせるべきことは違う。
ミリアは紙を新たに用意した。
グレイストン伯爵夫人の反応。
ローデン商会に関する話題回避。
財務局監査への不自然な沈黙。
アランの悪評を利用した反応確認。
そして、肖像画の徽章。
それらを簡潔にまとめた。
最後に一文を添える。
『建国期逸話集に記された“銀は王冠を戴かず、夜を守る”の挿絵と、グレイストン家先祖肖像の徽章に類似あり。断定は避けますが、古い誓約に関係する可能性あり』
書き終えてから、ミリアはしばらくその文面を見つめた。
迷いはあった。
だが、隠すべきではない。
彼女は封をし、影狼の連絡員へ渡すよう侍女に命じた。
その後でようやく、椅子にもたれる。
疲労が押し寄せてきた。
茶会ではずっと微笑み続けていた。怒りを飲み込み、言葉を選び、相手の視線と間を読み続けた。それは剣の稽古とは別の疲れだった。だが、どちらも確かに戦いだった。
剣を握る手。
羽ペンを握る手。
茶器を持ちながら相手の言葉を受け止める手。
どれも、守るために必要な手なのだと、ミリアは少しずつ知り始めていた。
同じ頃、王城の影狼会議室では、重い沈黙が落ちていた。
ミリアからの報告書を読み終えたアランは、しばらく言葉を発しなかった。
机の上には、グレイストン伯爵に関する資料が並んでいる。財務記録、領地収入、鉱山投資の損失、ローデン商会との間接的な取引、エドガー・ノルムの証言。そこへ今、ミリアの茶会報告と古い徽章の情報が加わった。
ただの資金協力者ではない。
そう考えるべき段階に来ていた。
「アラン様」
レムが静かに声をかける。
アランは報告書から目を上げない。
「……見つけたか」
その声は低かった。
リィナが机に身を乗り出す。
「白薔薇様、かなり鋭いね。茶会でそこまで拾う? 普通は伯爵夫人の表情を見るだけで精一杯だよ」
「彼女は、見るべきものを見ている」
アランは言った。
その声音には、感心と、わずかな苦さが混ざっていた。
ミリアが役に立つ。
それはもう疑いようがない。
だが、彼女が役に立てば立つほど、彼女は深い場所へ近づく。アランが長い間、誰にも触れさせまいとしてきた場所へ。
銀の守護者。
古の軍。
建国期の誓約。
それは、影狼とは別の意味で王国の影に属するものだった。
ゼイドが短く言う。
「グレイストン家は古の軍に関係があるのか」
アランはゆっくりと息を吐いた。
「かつては、あった」
その言葉に、部屋の空気が変わった。
リィナでさえ軽口を挟まなかった。
アランは机の上に置かれた古い王都地図へ視線を落とした。
「建国期、ヴァルタイン王家には二つの象徴があった。黄金と銀。黄金の髪を持つ者は王冠を戴き、民の前に立つ。銀の髪を持つ者は王冠を戴かず、夜を守る」
レムは黙って聞いている。
彼女は一部を知っていた。
だが、すべてを聞いたわけではない。
「その銀の王族に従う軍があった。表の王軍とは別に、王国が滅びの縁に立った時だけ動く古い誓約軍。名は、蒼狼軍」
リィナが小さく呟く。
「蒼狼……」
「影狼の名は、そこから取った」
アランは静かに続けた。
「とはいえ、今の影狼と蒼狼軍は別物だ。影狼は僕が作った王国の裏の目と刃。蒼狼軍は建国期から続く古い誓約の残滓。すでに失われたものだと思っていた」
「本当に失われたのですか」
レムが問う。
アランは答えるまで少し間を置いた。
「記録上は」
「では、実際は?」
「分からない」
その答えは、アランにしては珍しく曖昧だった。
ガイルが腕を組み、唸るように言う。
「古い軍ってことは、今もどこかに末裔がいるって話か?」
「可能性はある。かつての蒼狼軍に関わった家々は、建国後に地方へ散った。騎士家、辺境の守備家、退役軍人の家系、王家直属だったが歴史から消えた部隊。その一部は、今も古い誓約を家訓として残しているかもしれない」
「グレイストン家もその一つ?」
リィナが尋ねる。
「おそらく、かつては蒼狼軍の記録管理に関わっていた家だ」
レムの表情がわずかに険しくなる。
「ならば、黒蛇がグレイストン伯爵家に近づいた理由は、資金や財務のためだけではない可能性があります」
「そうだ」
アランは頷いた。
「黒蛇は、銀の髪と古の軍の記録を探しているのかもしれない」
会議室に、重い沈黙が落ちた。
銀の髪。
それはアラン自身のことでもある。
これまで、彼の銀髪は貴族たちの間で美しい王族の特徴として語られる程度だった。ルイの黄金の髪と並べて、兄弟の容姿を褒める者もいた。だが、その本当の意味を知る者は少ない。
黄金は王。
銀は守護者。
もし黒蛇がそれを知り、古の軍の誓約に触れようとしているなら、狙いは王城内の混乱だけでは済まない。
アラン自身が標的になる。
あるいは、アランを使って何かを開かせようとしている。
リィナが珍しく真面目な声で言った。
「でも、古の軍って本当に今も動かせるの? 何百年も前の誓約でしょ」
「分からない」
アランは再びそう答えた。
「ただ、もし伝承が正しければ、蒼狼軍は王ではなく、銀髪の王族に応じる」
ガイルがアランを見る。
「つまり、お前さんか」
アランは軽く笑った。
「嫌な話だよね」
「俺は嫌いじゃねえな。古い軍勢を率いる殿下か。似合うじゃねえか」
「やめてくれ。僕は目立つのが嫌いなんだ」
「いつか目立たなきゃならねえ時も来るだろ」
ガイルの言葉は、何気ないものだった。
だが、部屋にいる全員が一瞬黙った。
いつか。
そんな時が来るのか。
アランは答えなかった。
彼は王になるつもりはない。英雄になるつもりもない。表に立つつもりもない。すべてはルイを王にするため。兄が黄金の王として民の前に立つため。その影として、自分は動く。
だが、もし王国が本当に滅びの縁に立った時。
銀の髪が、古の軍を呼ぶ鍵になるのだとしたら。
その時も、自分は隠れていられるのか。
アランは静かに目を伏せた。
「今はまだ、その話はここまでだ」
彼は言った。
「グレイストン伯爵家を調べる。古い徽章の記録、蒼狼軍との関係、黒蛇がどこまで知っているか。リィナ、古文書庫を洗って。ただし、王城の表記録には触れすぎない。消された記録もあるはずだ」
「了解」
「レムは父上の古い書庫に入れる許可を兄上経由で取って。王家の私文書に、蒼狼軍の記録が残っているかもしれない」
「承知しました」
「ゼイドはグレイストン伯爵家の屋敷を監視。エドガーの証拠を回収しに来る者を逃がさない」
「はい」
「ガイルは引き続きローデン商会の倉庫。もし古い軍旗や徽章、建国期の品が混じっていたら押さえて」
「分かった。壊さず持ってくる」
「必ずだ」
アランは最後に、ミリアの報告書へ視線を落とした。
彼女は見つけてしまった。
まだ遠くからだが、確かに。
銀の髪の意味へ近づき始めている。
「ミリア嬢には?」
レムが尋ねる。
アランは少し考えた。
隠したい。
そう思った。
だが、隠し続ければ、彼女は自分で辿り着くだろう。そしてその時、彼女を余計に危険へ晒すかもしれない。
「……一部だけ話す」
アランは静かに言った。
「蒼狼軍の名はまだ伏せる。ただ、銀の守護者の伝承が王家に関わる古い誓約であることは伝える。グレイストン家の徽章が重要だということも」
「ミリア様なら、さらに調べられるかと」
「だからこそ、線を引く」
アランの声には苦さがあった。
「彼女は優秀だ。でも、今はまだ深部に入れるわけにはいかない」
レムはそれ以上言わなかった。
ただ、静かに頷いた。
その夜、ミリアはランバール公爵邸の書斎で、アランからの返答を受け取った。
封書はいつもより少し厚かった。
中には、彼の筆跡で書かれた文が入っている。
『報告を受け取った。グレイストン夫人の反応、肖像画の徽章、いずれも重要。君の観察は正しい。
“銀の守護者”の伝承は、王家に関わる古い誓約の一部だ。今はまだすべてを話せない。だが、黒蛇がその記録に触れようとしている可能性がある。
グレイストン家については、貴族社会での交友関係、特に古い軍務系の家との繋がりを調べてほしい。直接接触は避けること。
君が見つけた一節は、忘れずにいてほしい』
ミリアは何度も読み返した。
すべてを話せない。
その一文には、いつものアランらしい線引きがあった。
けれど、以前とは違う。
彼は完全に遠ざけてはいない。
一部だけでも、必要なことを話してくれている。
それが信頼なのだと、ミリアには分かった。
銀の守護者。
王家に関わる古い誓約。
黒蛇がその記録に触れようとしている。
彼女は手元の逸話集を開いた。
黄金は王冠を戴き、民を照らす。
銀は王冠を戴かず、夜を守る。
その言葉を、前よりも深く読む。
黄金。
ルイ王太子の髪。
民の前に立ち、王国を照らす光。
銀。
アランの髪。
王冠を戴かず、夜を守る者。
ミリアは窓の外を見た。
夜の庭で白薔薇が月明かりに照らされている。
その光は、太陽のように明るくはない。
けれど、闇の中で確かに花を浮かび上がらせていた。
月光。
銀の光。
ミリアは胸に手を当てた。
「あなたは、どれほどのものを背負っているのですか」
答える者はいない。
だが、彼女はもう、ただ待つだけではない。
机に向かい、グレイストン家の交友関係を書き出し始める。
軍務系の家。
辺境騎士家。
古い王家直属の家系。
伯爵夫人の茶会に出入りする者。
過去の婚姻関係。
慈善活動の名簿。
貴族社会の美しい表面の下に、古い糸が隠れている。
ミリアはそれを一本ずつ拾っていく。
怒りは、もう燃え盛っていない。
それは静かに、彼女の中で灯っていた。
アランの銀の髪が意味するもの。
王国の夜を守る者の孤独。
それを知るために。
そして、いつかその隣に立つために。
白薔薇は、また一つ深い影へ足を踏み入れた。
翌朝、王城の一室でルイはアランから報告を受けていた。
金の髪を朝の光に照らされながら、王太子は静かに弟を見ている。
「蒼狼軍の名が出るかもしれないのか」
「まだ可能性の段階です」
「黒蛇がそれを狙っているなら、事態は国内の陰謀だけでは済まない」
「ええ」
アランは頷いた。
「古の軍が本当に今も動くかどうかは分かりません。ですが、その記録を黒蛇が欲しがっているなら、何か使い道を知っている可能性があります」
ルイはしばらく黙った。
そして、弟の銀髪を見た。
「アラン」
「はい」
「お前は、その髪を重荷だと思っているか」
アランは少しだけ笑った。
「兄上の金髪ほど目立たないので、便利だと思っています」
「誤魔化すな」
「……少しは」
アランは窓の外へ視線を向けた。
「でも、僕は王になりたいわけではありません。銀の髪が何を意味していようと、それは変わらない。王冠を戴くのは兄上です」
ルイは静かに言った。
「そして、お前は夜を守るのか」
「そのつもりです」
「一人でか」
アランは答えなかった。
ルイの声が少しだけ柔らかくなる。
「もう、一人ではないだろう」
アランは兄を見る。
ルイは続けた。
「レムがいる。影狼がいる。そして、ミリア嬢もいる」
「ミリア嬢はまだ」
「まだ、だな。だが、彼女はすでにお前の影を見ている」
アランは小さく息を吐いた。
「兄上まで、彼女を評価しすぎです」
「正当に評価しているだけだ」
「それが怖いんです」
「何が」
「彼女が深い場所へ来ることが」
その言葉は、珍しく素直だった。
ルイは弟を見つめる。
「ならば、遠ざけるのではなく、導け」
アランは黙った。
「お前が隠せば、彼女は自分で探す。お前が何も教えなければ、彼女は危険な線を見誤る。ならば、必要なことを教え、危険な場所を示し、戻る道を作ってやれ」
「……兄上は簡単に言いますね」
「簡単ではない。だが、お前に必要なことだ」
ルイは静かに言った。
「守るとは、囲い込むことだけではない」
その言葉は、アランの胸に深く落ちた。
彼はずっと、守るとは遠ざけることだと思ってきた。危険を知らせず、安全な場所に置き、自分が影で片づける。それが一番確実だと。
だが、ミリアはそれを許さない。
そして、ルイもまたそれを認めない。
アランは苦笑した。
「僕の周りには、厳しい人が多い」
「それだけ、お前が無茶をするからだ」
「反省します」
「本当に?」
「努力します」
「それは反省していない時の言い方だ」
兄弟の間に、少しだけ穏やかな空気が流れた。
だが、その奥にある問題は重い。
黒蛇。
グレイストン伯爵。
蒼狼軍。
銀の髪の誓約。
王国の影は、今までよりも古く、深い場所へ伸び始めている。
アランは自分の銀髪に触れた。
この色が、ただの生まれつきではないのだと知ったのは、ずっと昔だった。
それでも、彼は見ないふりをしてきた。
自分の役目は影狼を率い、兄を支え、王国の闇を払うこと。古の軍など、伝承の中だけで眠っていればいいと思っていた。
だが、黒蛇がそれを掘り起こそうとしている。
ならば、いつか向き合わなければならない。
銀は王冠を戴かず、夜を守る。
その言葉が、今さらのように重く響いた。
アランは目を伏せ、静かに言った。
「まだ、夜は深くなりそうですね」
ルイは窓の外の朝日を見た。
「ならば、私は光を絶やさぬ」
アランは兄を見る。
金の髪が、朝の光に輝いている。
黄金の王。
民を照らす者。
アランは小さく笑った。
「では、僕は夜を走ります」
それは兄弟の誓いだった。
まだ誰にも知られていない。
だが、確かに王国を支える二つの光。
黄金と銀。
王国の表と裏。
その両方を狙うように、黒蛇は静かに牙を研いでいた。




