15話 伯爵家の影
エドガー・ノルムは、影狼の地下拘束室で震えていた。
そこは王城の地下にある、表の地図には存在しない部屋だった。石壁に囲まれ、窓はなく、天井から吊るされた小さな魔灯だけが淡い光を落としている。拷問具の類は置かれていない。血の匂いもない。むしろ、部屋そのものは驚くほど整っていた。
だが、そこに連れてこられた者は理解する。
ここでは、逃げられない。
叫んでも、誰にも届かない。
エドガーは椅子に座らされ、両手を机の上に置いていた。縛られてはいない。だが、彼の背後にはゼイドが立っている。目の前にはアラン。少し離れた場所にレムとリィナが控えていた。
エドガーは何度も唇を舐め、顔色を失っている。
「わ、私は……私は黒蛇の一員ではない」
最初に口を開いたのは、エドガーだった。
アランは机に肘を置き、いつもの軽い笑みを浮かべている。
「そうだろうね」
その返答に、エドガーは一瞬だけ希望を見たような顔をした。
「で、では」
「君は黒蛇の一員ではない。ただ、黒蛇に道を開けた人間だ」
希望はすぐに消えた。
エドガーの肩が震える。
「私は脅されていたのです」
「最初から?」
「……」
「五年前、ローデン商会へ資金を流した時から脅されていた?」
エドガーは答えない。
リィナが机に数枚の紙を置いた。
「五年前の秋、ローデン商会は支払い遅延を一気に解消してる。資金源は表向き不明。でも、仲介者として君の名が残ってる。しかもその直後、君は地方財務官から王都財務局へ異動。三年後には副書記官。ずいぶん都合がいいよね」
エドガーの目が泳ぐ。
「私は、ただ書類を整えただけだ。伯爵から頼まれた。商会の再建支援だと。王都経済のためだと説明された」
「グレイストン伯爵に?」
アランが問う。
エドガーは喉を鳴らした。
「……そうだ」
「伯爵は黒蛇と繋がっている?」
「知らない。本当に知らない。私は、伯爵がどこから金を得たのかまでは知らされていなかった」
アランはエドガーを見つめた。
嘘は混じっている。
だが、すべてが嘘ではない。
エドガーは黒蛇の思想に共鳴した者ではない。権力を求めて王国を売った大物でもない。おそらく最初は金と出世に目が眩んだだけだ。書類上の便宜を図り、見返りを受け取り、その後に逃げられなくなった。
こういう者は多い。
大きな裏切りは、最初から大きな顔をして現れるわけではない。小さな便宜、小さな見逃し、小さな欲。その積み重ねが、気づいた時には国の中枢へ蛇を招き入れている。
「君の屋敷に証拠があると言ったね」
アランが言う。
エドガーは顔をこわばらせた。
「書斎の床下だ。五年前の覚書と、伯爵家の印章がある。私は、万が一のために」
「保険を残した」
「そうだ」
「それを知っていたのは?」
「私だけだ」
エドガーは即答した。
だが、その声は少し上ずっていた。
アランは目を細める。
「本当に?」
「本当だ」
「なら、なぜ黒蛇の女はそれを知っていた?」
エドガーは黙った。
リィナが肩をすくめる。
「つまり、君の保険はとっくに見られてたってこと。もしくは、君が誰かに喋った」
「喋っていない!」
「じゃあ、屋敷の中に黒蛇の目がある」
エドガーの顔がさらに青ざめた。
それは考えていなかった、という顔だった。
アランは静かに息を吐いた。
「ゼイド」
「はい」
「エドガーの屋敷は監視を継続。証拠を取りに入る者がいるはずだ。こちらからはまだ動かない」
「承知」
「リィナ。グレイストン伯爵家の近辺に情報網を広げて。伯爵本人だけでなく、夫人、子息、家令、古い使用人まで見る」
「了解」
「レムはルイ兄上へ。表向きには財務局の内部監査を続ける。エドガーは急病で自宅療養中という扱いのままにする」
レムが頷く。
「エドガー本人を捕らえたことは伏せるのですね」
「うん。黒蛇には、彼がまだ逃走中か、もしくは隠れていると思わせる」
エドガーが震える声で言った。
「私は、どうなる」
アランは彼を見た。
その目に、甘さはなかった。
「君は王国を危険に晒した。王太子執務室へ魔道具を運び込む道を開き、資料保管棟の火災にも繋がった。軽い罪ではない」
「私は殺されるのか」
「今すぐには」
エドガーが息を呑む。
「だが、君の命を守るかどうかは、君がどこまで話すかにかかっている」
「話す。話すから、助けてくれ」
「助けるとは言っていない」
アランの声は静かだった。
「君を裁くのは、最終的には王国だ。僕ではない。ただし、黒蛇に口を封じられる前に、君が話す機会は与える」
エドガーはうなだれた。
影狼の地下拘束室に、しばし沈黙が落ちる。
アランは机の上の紙を見下ろした。
グレイストン伯爵。
この名が本当の糸か、それとも黒蛇が差し出した偽の尾か。
見極めなければならない。
その頃、ランバール公爵邸では、ミリアが招待状を見つめていた。
差出人は、グレイストン伯爵夫人。
内容は、慈善茶会への誘いだった。
王都の貴族夫人や令嬢たちが集い、孤児院や救貧院への寄付について話し合う、ごくありふれた茶会。ミリアも過去に何度か出席したことがある。形式的で、穏やかで、貴族社会の美しい面だけを整えて並べたような場だった。
だが、今このタイミングで届くと、まったく別の意味を持つ。
グレイストン伯爵の名が出た直後。
その夫人からの茶会への誘い。
偶然か。
探りか。
あるいは、黒蛇がミリアの反応を見るための餌か。
ミリアは招待状を机に置いた。
父であるランバール公爵は、向かいの椅子に座り、静かに娘を見ていた。
「行くつもりか」
「はい」
ミリアは答えた。
公爵は眉をひそめる。
「危険がないとは言えない」
「承知しています。ですが、直接伯爵に近づくわけではありません。茶会で夫人や周囲の方々の様子を見るだけです」
「アラン殿下には?」
「知らせます」
その返答に、公爵は少しだけ目を細めた。
以前なら、ミリアは自分で確かめようとしていたかもしれない。父にも、アランにも言わず、危険を承知で踏み込もうとしたかもしれない。
だが今は違う。
彼女は自分の判断だけで動かない。
危険を軽んじない。
それは成長だった。
「よろしい」
公爵は静かに頷いた。
「ただし、護衛は増やす。表向きは公爵令嬢として当然の警備だ。影狼の者とも連携を取る」
「はい」
「そして、茶会で怒るな」
ミリアは一瞬、言葉に詰まった。
公爵は小さく笑う。
「王城で何かあったのだろう」
「……お父様」
「お前は昔から、理不尽に対して怒るところがある。普段は礼儀で包んでいるが、芯は強い。悪いことではない。だが、貴族社会では怒りを見せること自体が情報になる」
アランと同じことを言われた。
ミリアは少しだけ視線を落とす。
「分かっています」
「ならばよい。怒るなとは言わん。怒りをしまい込む必要もない。ただ、怒りに手綱をつけなさい」
「手綱を」
「剣と同じだ」
父の言葉に、ミリアは目を上げた。
「握り方を間違えれば、自分を傷つける。だが正しく扱えば、守る力になる」
ミリアは静かに頷いた。
アランも、父も、レムも。
言葉は違っても、同じ場所を指している。
怒りは悪ではない。
ただ、扱い方を知らなければならない。
「承知しました」
公爵は満足そうに頷く。
ミリアは招待状をもう一度見た。
グレイストン伯爵夫人。
その名の向こうに、どんな影があるのか。
見極めなければならない。
その日の午後、ミリアからの連絡を受けたアランは、王城の中庭で彼女と短く会った。
表向きには、婚約に関する打ち合わせである。
その方便は、最近ずいぶん便利に使われるようになっていた。貴族たちは勝手に噂を広げ、勝手に解釈し、勝手に納得してくれる。アランにとってはありがたい隠れ蓑だった。
ミリアは茶会の招待状を渡した。
アランは文面を一読し、軽く眉を上げる。
「早いね」
「偶然でしょうか」
「偶然だったら、僕はもう少し楽に生きられる」
「では、やはり」
「探りの可能性が高い。グレイストン夫人がどこまで知っているかは分からないけど、君を茶会に呼ぶ意味はある」
「私の反応を見るため」
「それもある。あるいは、君に何かを見せたいのかもしれない」
「見せたい?」
アランは招待状を指で軽く叩いた。
「黒蛇は時々、こちらに情報を落としてくる。挑発のためか、誘導のためか、あるいは内部で何かが割れているのか。意図はその都度違う」
「罠だとしても、行く価値はありますか」
「ある」
アランは即答した。
ミリアは少し意外そうに見た。
「止められると思っていました」
「止めたいよ」
「では、なぜ」
「君が行くことで拾えるものがあるから。そして、君が行かなくても、向こうは別の手を打つ」
アランは静かに続けた。
「なら、こちらが備えた上で行く方がいい。君一人では行かせない。表の護衛、影狼の監視、退路の確保。全部つける」
「ありがとうございます」
「それから、直接探りすぎない。グレイストン夫人に踏み込みすぎると危ない」
「分かっています」
「本当に?」
ミリアはアランを見た。
「その確認は何度目ですか」
「君が優秀だから心配になる」
「優秀だと心配されるのですか」
「危険に近づく速度も上がるからね」
その言い方があまりにもアランらしく、ミリアは小さく息を吐いた。
「では、慎重に動きます」
「うん。信じている」
その言葉に、ミリアの胸が少しだけ温かくなる。
信じている。
以前よりも、彼はその言葉を自然に使うようになっていた。
それが嬉しい。
けれど、その嬉しさに浮かれてはいけない。
今は、調査の最中なのだから。
「それと、もう一つ」
ミリアは鞄から小さな古い冊子を取り出した。
「これは?」
「ランバール家に伝わる建国期の逸話集です。正式な歴史書ではありませんが、少し気になる一節がありました」
アランの表情が、ごくわずかに変わった。
ミリアはページを開き、指で示す。
――黄金は王冠を戴き、民を照らす。
――銀は王冠を戴かず、夜を守る。
アランはしばらく黙っていた。
風が中庭の木々を揺らす。
遠くで使用人たちの声が聞こえる。
だが、二人の間だけが少し静かになった。
「これを、どこで」
「公爵家の書庫です。子どもの頃に読んだ記憶がありました。昨日、ふと思い出して」
「……そう」
アランは静かに冊子を閉じた。
「この話は、聞いたことがありますか」
「あるよ」
「では、やはり」
「今はまだ、その話をする時ではない」
アランの声は穏やかだった。
だが、そこには明確な線が引かれていた。
ミリアはそれを感じ取り、それ以上踏み込まなかった。
「分かりました」
「ごめん」
「謝る必要はありません。あなたが話せる時に話してください」
アランはミリアを見た。
以前の彼女なら、そこで問い詰めたかもしれない。
今は違う。
線を見て、そこで止まることを覚え始めている。
「本当に、君は変わったね」
「良い意味ですか」
「とても」
アランは小さく笑った。
「でも、その本は大事にしておいて。もしかすると、いつか必要になる」
「はい」
ミリアは冊子を鞄へ戻した。
アランは空を見上げた。
午後の光の中で、彼の銀髪が淡く輝いている。
ミリアはその色を見つめた。
銀は王冠を戴かず、夜を守る。
その言葉が、彼の姿と重なる。
アランは王になろうとしない。
むしろ、王座から遠ざかろうとしている。
だが、それは彼に王の器がないからではない。
彼が選んだ役目が、別にあるからだ。
ミリアは、そう感じた。
グレイストン伯爵夫人の茶会は、翌日の午後に開かれた。
会場は伯爵家の王都屋敷だった。派手さはないが、古い家柄らしい落ち着いた造りで、庭には季節の花が控えめに植えられている。客間には上質な陶器と銀器が並び、壁には先祖の肖像画が飾られていた。
招かれていたのは十名ほど。
伯爵夫人たち、子爵家の令嬢、商会関係者の妻、そしてミリア。
表向きには慈善茶会である。
孤児院への冬支度の支援、救貧院への薬品寄付、貧民街の子どもたちへの食事提供。その話題が穏やかに交わされていく。
ミリアは静かに微笑みながら、言葉を選んでいた。
グレイストン伯爵夫人は、五十代半ばの上品な女性だった。目元は柔らかいが、言葉に隙がない。夫の政治的な話には踏み込まず、慈善と家政の話題を中心に場を整える。貴族夫人としては実に模範的だった。
だが、模範的すぎる。
ミリアはそう感じた。
少しも乱れない。
王城の火災について話題が出ても、夫人はわずかに眉を曇らせるだけだった。ローデン商会の名が商業寄付の話の中で出ても、自然に別の話題へ移した。財務局の監査について誰かが触れた時も、何気なく茶を勧めて空気を変えた。
隠している。
少なくとも、触れられたくない話題がある。
「ランバール嬢」
夫人が穏やかに声をかけた。
「最近は王城へよくお出入りになっているとか」
場の視線がミリアへ向く。
婚約の噂。
アランとの関係。
誰もがそこに興味を持っている。
ミリアは微笑んだ。
「父の名代として伺う機会が増えております。王城では火災の件もありましたので」
「それだけではないのでは?」
子爵家の令嬢が、少し含みのある笑みを浮かべる。
「アラン殿下とのご縁もございますもの」
以前なら、その名を出された時、ミリアは困惑か不快感を覚えていたかもしれない。
だが今は違う。
彼を軽んじる言葉ではないか。
その気配を、自然と探してしまう。
ミリアは穏やかに答えた。
「殿下とは、王家とランバール家の関係についてお話しする機会をいただいております」
「まあ、アラン殿下がそのような真面目なお話を?」
別の夫人が軽く笑った。
場に小さな笑いが広がりかける。
胸の奥に怒りが灯った。
だが、ミリアはすぐに呼吸を整えた。
握り潰さない。
振り回さない。
構える。
彼女は微笑みを崩さず、静かに言った。
「王族の方々には、それぞれお立場がございます。私たち貴族が軽々しく測れるものではありませんわ」
柔らかな声だった。
だが、言葉の芯は硬かった。
笑いかけた夫人たちが、わずかに口を閉ざす。
ミリアは続けた。
「ルイ殿下が王国の光として政務を担っておられることは、誰もが存じております。だからこそ、その王家に連なる方々への言葉には、私たちも品位を持たねばなりません」
アラン個人を露骨に庇ったのではない。
王家への礼節として語った。
怒りを刃にせず、針にした。
場の空気が少し引き締まる。
グレイストン伯爵夫人が、ミリアをじっと見た。
「ランバール嬢は、随分とアラン殿下を信頼しておいでなのですね」
来た。
ミリアは内心でそう思った。
ここで感情を出してはいけない。
「信頼という言葉は、簡単に口にするには重いものです」
ミリアは静かに答えた。
「ですが、少なくとも私は、直接言葉を交わした方について、噂だけで判断することは避けたいと思っております」
夫人の目がわずかに細くなる。
「ご立派なお考えですこと」
「まだ学んでいる途中です」
ミリアは微笑んだ。
その後、茶会は表面上穏やかに進んだ。
だが、ミリアは確かにいくつかの違和感を拾っていた。
グレイストン夫人は、ローデン商会の名を避ける。
王城財務局の監査にも触れたがらない。
そして、アランの名を出してミリアの反応を探った。
さらにもう一つ。
客間の壁に飾られた古い肖像画。
そこに描かれたグレイストン家の先祖が、胸元に付けていた徽章。
黒蛇ではない。
だが、どこかで見た意匠だった。
ミリアは思い出す。
建国期の逸話集。
銀の守護者の挿絵の端に、小さく描かれていた古い軍旗。
その旗の縁飾りと、よく似ている。
グレイストン伯爵家は、建国期の古い軍に関わりがあるのか。
それとも、黒蛇がその伝承に関わる何かを探しているのか。
ミリアはそれ以上、肖像画を見つめないようにした。
気づかれれば危険だ。
茶会が終わり、馬車に乗り込んだ時、ミリアはようやく深く息を吐いた。
怒りは抑えられた。
情報も拾えた。
だが、同時に新しい謎が増えた。
ローデン商会。
グレイストン伯爵。
王城財務局。
そして、銀の守護者の伝承。
すべてが一本に繋がるには、まだ足りない。
けれど、確かに何かが近づいている。
ミリアは膝の上で手を握った。
手のひらには、剣の訓練でできた痛みがある。
その痛みが、彼女を落ち着かせる。
「私は、怒りを使えたでしょうか」
誰にともなく呟いた。
馬車の外では、王都の街並みが流れていく。
彼女の知らない場所で、影狼は動いている。
アランもまた、きっとどこかで次の糸を追っている。
ミリアは窓の外を見つめた。
白薔薇は、もうただ咲くだけではない。
棘の使い方を、少しずつ覚え始めていた。




