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14話 蛇を追う影



 エドガー・ノルムが王城を出たという報せは、王太子執務室の空気を一変させた。


 それまで机の上に広げられていた資料は、ただの紙の束ではなくなった。ローデン商会、ベルク納品組合、財務局副書記官、王城資料保管棟の火災。それぞれ別々に見えていた名が、一本の細い線で結ばれていく。


 その線の先にいる男が、逃げた。


 いや、逃げるふりをして誰かと接触するのかもしれない。


 アランはそう考えていた。


 王太子執務室を出た彼の足取りは速い。しかし、廊下にいる者から見れば、それは慌てたものではなかった。むしろ、いつもの第二王子らしく、気まぐれにどこかへ向かっているようにしか見えない。軽く外套を羽織り、少し気だるげに歩く姿は、王城の緊急事態とは無縁のようですらあった。


 だが、その青い瞳だけは違った。


 目の奥にある冷たさは、駄王子のものではない。


「ゼイドは?」


 アランが低く問う。


 隣を歩くレムが即座に答えた。


「財務局周辺から追跡を開始しています。ただ、エドガーは通常の退城経路を使っていません。財務局裏手の職員用通路から出たようです」


「最初から準備していたか」


「その可能性が高いです」


「リィナは退城記録を?」


「確認中です。急病の届けに使われた診断先を調べています」


 アランは短く頷いた。


 ミリアの言葉が頭をよぎる。


 急病を理由にするなら、医師か薬師の名が使われるはず。


 あの一言は重要だった。財務局の人間が突然王城を出るには、それなりの口実が必要になる。急病という理由自体は珍しくない。だが、王城の記録に残すためには、診断先や連絡先が添えられる。それが本物なら糸になる。偽物なら、それもまた糸になる。


 貴族社会や官僚の書類慣れした視点。


 影狼の者たちだけでは、後回しにしたかもしれない観点だった。


「本当に、厄介なくらい役に立つね」


 アランが呟く。


 レムが横目で見た。


「ミリア様のことですか」


「他に誰がいる?」


「アラン様が心配なさる対象は増えておりますので」


「それは否定できない」


 アランは苦笑した。


 だが、すぐに表情を引き締める。


「彼女には公爵邸へ戻ってもらう。王城内でこれ以上巻き込むのは避けたい」


「ミリア様は納得なさるでしょうか」


「納得してくれる。今の彼女なら」


 それは、以前とは違う信頼だった。


 危険だから下がれと言っても、かつてのミリアなら反発したかもしれない。知らないままでいることに耐えられず、自分の目で確かめようと動いたかもしれない。


 だが今の彼女は違う。


 自分の役割を考え始めている。


 剣を取ることも、資料を読むことも、怒りを抑えることも。すべてが同じ方向へ向かっている。無謀に前へ出るのではなく、立つべき場所を探している。


 アランはそれが頼もしかった。


 同時に、恐ろしくもあった。


 彼女が強くなるほど、黒蛇は彼女をただの標的ではなく障害として見るようになる。


 白薔薇は、すでに蛇の目に映っている。


「アラン様」


 レムの声で、アランは思考を戻した。


 廊下の曲がり角に、小柄な少女が立っている。


 リィナだった。


 手には数枚の紙片を持ち、いつものように軽い笑みを浮かべている。だが、その目は笑っていなかった。


「出たよ、急病の届け」


「診断先は?」


「南区の薬師。名はベリオ・クラウス」


 アランは眉を動かした。


「聞かない名だ」


「うん。でももっと面白いことに、その薬師、三年前に死んでる」


 レムの表情が冷える。


「死人の名を使ったのですか」


「そう。しかも死亡届は出てるけど、薬師組合の古い看板だけは残ってる。南区の裏路地にある廃店舗。表向きは閉じたままだけど、最近夜に人が出入りしているって噂がある」


「連絡所か」


 アランが言う。


「たぶんね。エドガーはそこへ向かってる可能性が高い。ゼイドにはもう流した」


「ガイルは?」


「外で待機してる。本人は突入したくてうずうずしてる」


「突入はまだだ。エドガーが誰と会うかを見る」


「了解。蛇の尾を辿って巣を見る、でしょ?」


「分かっているなら安心だ」


「ま、リィナちゃんは優秀だから」


「優秀な者は報告書を読みやすく書く」


「それは別の才能」


 軽口を交わしながらも、三人の動きは速かった。


 王城の表の廊下を抜け、人気の少ない通路へ入る。さらにそこから、影狼だけが知る細い階段を下る。王城には長い歴史がある。増築を重ね、改修を繰り返し、表向きには使われなくなった通路も多い。その中には、王家直属の者だけが知る道もあった。


 アランはその道を迷いなく進む。


 銀の髪が、薄暗い灯りの中で淡く光った。


 リィナがその背を見ながら、ふと口を開く。


「そういえばさ」


「何?」


「王城の古文書庫に、銀髪の王族について変な記録があったよ」


 アランの足が、一瞬だけ鈍った。


 レムも反応する。


「リィナ」


「怒らないでよ。調べてたら偶然見つけたんだって。ほら、資料保管棟の火災で焼け残った古い索引を整理してたら、建国期の誓約記録に“銀の髪”って単語が出てきてさ」


 アランは振り返らない。


 ただ、静かに言った。


「今はエドガーが先だ」


「分かってる。でも、いつか確認した方がいいと思う。黒蛇が古い記録も狙ってたなら、ローデン商会だけじゃなくて、もっと古い何かを探してる可能性もある」


 その言葉に、アランは沈黙した。


 古い何か。


 建国期の誓約。


 銀の髪。


 王国には、表の歴史と裏の歴史がある。


 ルイが継ぐべき黄金の王冠。


 そして、アランの銀髪にまつわる、誰にも語られなくなった古い誓い。


 アランはそれを知らないわけではなかった。


 だが、今はまだ、その話を表に出す時ではない。


「後で聞く」


 アランは短く言った。


 リィナはそれ以上踏み込まなかった。


 南区は、王都の中でも雑多な匂いのする場所だった。


 貴族街の整えられた石畳とは違い、路地は狭く、建物は古く、看板も色褪せている。昼間は職人や小商人、荷運び人で賑わうが、日が暮れると一気に薄暗くなる。酒場の灯り、裏通りの囁き声、野良犬の鳴き声。王都の影が、ここでは隠しきれずに滲んでいた。


 その南区の片隅に、かつて薬師の店だった建物がある。


 看板には、剥げかけた文字で「クラウス薬房」とある。


 窓は閉ざされ、扉には古い錠がかかっている。外から見れば廃店舗にしか見えない。だが、建物の裏手には新しい足跡があった。


 ゼイドは向かいの屋根の上から、その建物を見ていた。


 影に溶け込むように身を低くし、視線だけで路地全体を追う。逃走経路は三つ。表通りへの細道、裏手の排水路、隣家の屋根伝い。周囲には黒蛇の見張りと思われる者が二人。いずれも素人ではないが、ゼイドの気配には気づいていない。


 やがて、一台の小さな馬車が路地に入った。


 質素な馬車だ。


 貴族用ではない。商人か下級官吏が使うような、目立たない造り。御者の帽子は深く、顔は見えにくい。


 馬車が薬房の裏手に止まる。


 降りてきたのは、痩せた中年の男だった。


 エドガー・ノルム。


 財務局副書記官。


 普段は書類の山に埋もれているような、目立たない男。灰色の髪を後ろへ撫でつけ、丸い眼鏡をかけている。顔色は悪い。だが、急病というより、恐怖で血の気が引いているように見えた。


 エドガーは何度も周囲を確認し、裏口を小さく叩いた。


 三度。


 間を置いて一度。


 そして二度。


 合図だ。


 扉が開いた。


 中から顔を出したのは、薬師ではない。


 黒い外套をまとった女だった。


 年齢は三十前後。淡い茶髪を後ろで結び、目元に鋭さがある。武人ではない。だが、ただの連絡役でもなさそうだった。


 ゼイドは目を細めた。


 女の左手には、黒い蛇の小さな指輪。


 黒蛇。


 エドガーは店内へ入る。


 扉が閉まる。


 ゼイドは動かなかった。


 捕らえるのは簡単だ。


 だが、今捕らえれば、ここで糸は切れる。


 アランの指示は明確だった。


 誰と接触するかを見る。


 ゼイドは屋根の上を静かに移動し、建物の奥側へ回った。古い薬房には、屋根裏に小さな換気口がある。そこから内部の声を拾えるかもしれない。


 彼は音もなく身を伏せた。


 下から、かすかな声が聞こえる。


「話が違う」


 エドガーの声だ。


 震えていた。


「王城内で火を出すなど、聞いていない。私は納入記録を通しただけだ。魔道具を運び込むなど、そんなことまでは――」


 女の声が返る。


「あなたは知る必要がありませんでした」


「ふざけるな。王太子執務室の近くにまで物を入れたのだぞ。もし露見すれば、私は終わりだ」


「すでに露見しかけています」


 沈黙。


 エドガーの息が荒くなる。


「だから逃がせと言っている。約束では、危険になれば国外へ逃がすと」


「約束は守ります」


「本当だろうな」


「ええ。ただし、その前に確認があります」


「確認?」


「五年前、ローデン商会へ資金を流す際に、あなたが仲介した貴族の名です」


 ゼイドの瞳が細くなる。


 そこだ。


 エドガーは黙った。


 女の声が低くなる。


「答えなさい。あなたが保険として名を残していることは分かっています」


「……私は知らない」


「嘘はお勧めしません」


 小さな物音。


 椅子が引きずられる音。


 エドガーの短い悲鳴。


 ゼイドはまだ動かない。


「言えば、本当に逃がしてくれるのか」


「ええ」


「……グレイストン伯爵だ」


 名前が落ちた。


 ゼイドはその名を記憶する。


 グレイストン伯爵。


 王都貴族の一人。派手な人物ではないが、古い領地と財産を持ち、財務系の貴族と繋がりがある。ルイの改革に対して、表立って反対はしていない。だが、積極的に支持しているわけでもなかった。


 女はさらに問う。


「証拠は?」


「私の屋敷にある。書斎の床下だ。五年前の覚書と、伯爵家の印章がある。だが、あれを出せば私も終わる」


「あなたはもう終わっています」


「なっ――」


 その瞬間、空気が変わった。


 ゼイドは屋根の上で動いた。


 下で刃が抜かれる音。


 エドガーの悲鳴。


 口封じ。


 ゼイドは換気口を蹴破り、店内へ落ちた。


 黒蛇の女が短剣を振り抜こうとしていた。


 その刃がエドガーの喉に届く寸前、ゼイドの短剣が弾いた。


 金属音が狭い部屋に響く。


 女が即座に距離を取る。


「影狼」


 その声には、驚きよりも忌々しさがあった。


 ゼイドは答えない。


 エドガーは床に倒れ込み、顔を真っ青にして震えている。


 女は窓へ飛ぶ。


 だが、窓の外から大きな影が現れた。


「逃げ道は塞いでるぜ」


 ガイルだった。


 大剣を肩に担ぎ、窓枠の外で豪快に笑っている。


「細けえ話は苦手だが、逃がすなって話なら得意だ」


 女は舌打ちし、懐から黒い玉を取り出した。


 煙玉。


 だが、それを投げる前に、天井から細い針が飛んだ。


 リィナの仕掛けだった。


 針が女の手元を弾き、黒い玉が床へ落ちる。


「はい、没収」


 裏口から入ってきたリィナが、軽く手を振った。


 女は瞬時に状況を判断した。


 正面にゼイド。


 窓にガイル。


 裏口にリィナ。


 外には影狼の包囲。


 逃げ場はない。


 だが、彼女は笑った。


「遅いわ」


 その言葉と同時に、彼女の指輪が黒く光った。


 魔道具。


 ゼイドが踏み込む。


 だが、女の身体が黒い煙に包まれた。転移ではない。幻惑と身代わりを組み合わせた逃走具。実体がぼやける。


 ゼイドの刃が外套を裂く。


 血が飛ぶ。


 しかし、女は煙の中に消えた。


 完全には逃がしていない。


 傷を負わせた。


 だが、捕らえ損ねた。


 ガイルが舌打ちする。


「ちっ、面倒な道具使いやがる」


 リィナが床に落ちた黒い玉と、裂けた外套の一部を拾う。


「でも収穫は大きいよ。エドガー生きてるし、名前も出た。グレイストン伯爵」


 ゼイドはエドガーを見下ろした。


 震える男は、もはや官吏としての体裁も残していない。


「連行する」


 短く言うと、エドガーは震える声で叫んだ。


「た、助けてくれ! 私は殺される! 黒蛇は口を封じる! 私は、私はただ金を――」


「黙れ」


 ゼイドの声は低かった。


 エドガーは息を呑んだ。


「お前の命は、今は影狼が預かる」


 王城へ報告が届いたのは、それからほどなくしてだった。


 アランは影狼の隠し会議室で、ゼイドからの報告を聞いた。


 エドガー確保。


 黒蛇の女は負傷し逃走。


 名が出た。


 グレイストン伯爵。


 アランは机の上の地図を見つめたまま、しばらく黙っていた。


 グレイストン伯爵。


 厄介な名だった。


 高位すぎない。だが低くもない。王城の中枢に直接座るほどではないが、財務や商会との繋がりは深い。表立ってルイに逆らうことはない。むしろ、必要に応じて穏やかな支持の言葉を口にする。


 そういう人物ほど、裏で動くには向いている。


「証拠はエドガーの屋敷か」


 アランが言う。


 ゼイドは頷いた。


「書斎の床下。五年前の覚書と伯爵家の印章」


「罠の可能性は?」


「高い」


「だろうね」


 アランは苦笑した。


 エドガーがそう簡単に証拠を隠しているとも思えない。黒蛇の女がその場で名を聞き出したことも、こちらに聞かせるためだった可能性がある。グレイストン伯爵が本当に黒幕なのか、それとも切り捨てられる駒なのか。


 見極めが必要だった。


 その時、リィナが手を上げた。


「あと、もう一つ。黒蛇の女が逃げ際に使った指輪、あれ古い魔道具系だと思う。刻印が現代式じゃなかった」


「資料保管棟の古文書と関係するか?」


「まだ分かんない。でも、黒蛇が最近探ってるの、商会記録だけじゃない気がする」


 アランは目を伏せた。


 リィナが先ほど言っていた言葉が蘇る。


 銀髪の王族についての古い記録。


 建国期の誓約。


 黒蛇がそれを知っているのか。


 それとも、ただの偶然か。


 レムが静かに問う。


「アラン様。古文書庫を調べますか」


「今すぐではない」


「ですが、黒蛇が建国期の記録に触れている可能性があります」


「分かっている」


 アランは答えた。


 その声には、少しだけ重さがあった。


「だが、今はグレイストン伯爵とエドガーの証言が先だ。古い誓約に触れるのは、その後でいい」


 リィナが珍しく軽口を控えた。


 レムも深く追及しない。


 影狼の隊長格たちは、主が何かを知っていることを察した。


 そして、それを今は語る気がないことも。


 アランは地図の上に指を置いた。


「ゼイド。エドガーの屋敷を監視。すぐには入るな。誰が証拠を回収しに来るかを見る」


「承知」


「リィナ。グレイストン伯爵家の近年の資金移動、商会との関係、夜会での発言を拾って」


「了解」


「ガイルは南区の連絡所を押さえろ。ただし、壊しすぎるな」


「少しならいいんだな?」


「証拠が残る程度に」


「難しい注文だな!」


「君にとってはね」


 アランは最後にレムを見た。


「ミリア嬢に連絡を。グレイストン伯爵について、貴族社会での評判を調べてほしい。ただし、直接接触は禁止」


「承知しました」


 レムは一礼し、すぐに動こうとした。


 その時、アランが呼び止める。


「それと」


「はい」


「彼女に伝えて。急病の件、君の助言が当たった、と」


 レムの赤い瞳がわずかに柔らかくなった。


「そのままお伝えしてよろしいのですか」


「いや」


 アランは少しだけ目を逸らした。


「……役に立った、とだけ」


「承知しました」


 レムは静かに微笑んだように見えた。


 ランバール公爵邸では、ミリアが剣の稽古を終えたところだった。


 今日の訓練は、いつもより少し短かった。王城での出来事があり、彼女自身も疲労を感じていたため、レムから事前に無理をしないよう言われていた。


 それでも、木剣を握った時、ミリアは自分の中の怒りが少しずつ整っていくのを感じた。


 怒りを消すのではない。


 構える。


 足元を崩さず、呼吸を整え、振るうべき時まで待つ。


 レムが教えた剣の基礎は、そのまま心の扱い方にもなっていた。


 稽古を終え、書斎へ戻ると、影狼の連絡員が封書を届けていた。


 ミリアは封を開く。


 中には、アランからの短い報告があった。


『エドガー・ノルム確保。急病の診断先は死亡済み薬師の名義。君の助言が役に立った。接触先よりグレイストン伯爵の名が出た。直接接触せず、評判と交友関係を調べてほしい』


 ミリアは何度か文面を読み返した。


 君の助言が役に立った。


 たったそれだけの一文。


 けれど、胸に静かな熱が灯った。


 自分は戦場にいない。


 ゼイドのように追跡できない。


 レムのように剣を振れない。


 ガイルのように敵を打ち砕けない。


 リィナのように裏社会の情報網を自在に操ることもできない。


 それでも、自分の言葉が届いた。


 影狼の追跡に役立った。


 アランの戦いを、少しだけ支えられた。


 ミリアは深く息を吸った。


「グレイストン伯爵……」


 名を呟く。


 知っている家だ。


 古い伯爵家。財務系の役職と関係が深く、派手ではないが堅実な家柄。夜会では常に穏やかで、ルイ王太子にも礼を尽くす。ただし、ランバール公爵家とは近すぎず遠すぎず、表面上の付き合いだけを続けている。


 ミリアは記憶を辿った。


 グレイストン伯爵夫人は、王都の慈善茶会に顔を出す。娘はすでに隣国寄りの商家へ嫁いでいたはず。息子は軍務ではなく財務官僚を目指している。伯爵自身は近年、地方の鉱山投資で損失を出したという噂があった。


 資金難。


 財務局。


 ローデン商会。


 線が見え始める。


 ミリアは席に着き、紙を広げた。


 その時、ふと書棚の奥にある古い冊子が目に入った。


 ランバール公爵家に伝わる、王国建国期の逸話集。


 幼い頃に読んだことがある。


 黄金の王と、銀の守護者。


 そんな言葉があったような気がした。


 ミリアは立ち上がり、その冊子を手に取った。


 革表紙は古び、角は擦れている。子ども向けに書き直された伝承集に近いもので、正式な歴史書ではない。だが、何気なくページをめくるうちに、一節が目に留まった。


 ――黄金は王冠を戴き、民を照らす。


 ――銀は王冠を戴かず、夜を守る。


 ミリアの指が止まった。


 銀。


 アランの髪。


 夜を守る者。


 彼女は、思わず窓の外を見た。


 夕暮れの光の中、庭の白薔薇が静かに揺れている。


 まだ、それが何を意味するのかは分からない。


 けれど、胸の奥で何かが繋がりかけていた。


 アランは王国の影を守る。


 影狼を率いる。


 誰にも知られず、兄ルイを王にするために戦っている。


 そして、建国の古い伝承に語られる銀の守護者。


 ミリアは本を閉じなかった。


 今はグレイストン伯爵の調査が先だ。


 だが、この一節もまた、いつか必要になる。


 そう直感した。


 彼女は紙を二枚用意した。


 一枚には、グレイストン伯爵家の交友関係を。


 もう一枚には、古い伝承の一節を。


 剣の稽古で痛む手を、そっと握り直す。


 王国の影は、王都の闇だけではない。


 もっと古い場所から伸びているのかもしれない。


 ミリアは羽ペンを取った。


 怒りは、もう彼女を乱していなかった。


 それは今、冷静な線となって紙の上を走り始めていた。

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