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13話 怒りを刃に変えて



 王太子執務室へ向かう廊下は、いつもより長く感じられた。


 王城の石壁には、歴代国王の肖像画が並んでいる。剣を掲げる王、民に手を差し伸べる王、戦場を背に立つ王。光を浴びる彼らの姿は、王国が積み重ねてきた歴史そのものだった。


 ミリアはその横を、アランと並んで歩いていた。


 先ほどの怒りは、まだ胸の奥に残っている。


 控えの間で聞いた貴族たちの嘲笑。アランのことを何も知らないまま、彼を軽んじる言葉。思い出すだけで、指先に力が入る。


 だが、今はそれを表には出さない。


 アランが言った通り、怒りは見せ方を間違えれば罠になる。誰かが自分の反応を見ようとしていた可能性もある。アランを庇えば庇うほど、なぜそこまで彼を評価するのかと疑われる。それは、彼が長年作り上げてきた仮面を傷つけることになる。


 分かっている。


 分かっているからこそ、悔しかった。


 正しさを叫ぶだけでは、守れないものがある。


 ミリアは手袋の下で、そっと指を開いた。


 剣の訓練でレムに言われた言葉を思い出す。


 力を入れすぎです。


 剣は握り潰すものではありません。


 怒りも同じなのかもしれない。


 握り締めすぎれば、自分の手を傷つける。振り回せば、大切なものまで切ってしまう。ならば、正しく構えなければならない。足を固めず、呼吸を乱さず、相手の動きを見て、必要な時にだけ振るう。


 怒りを刃に変える。


 今の自分には、まだ難しい。


 けれど、学ばなければならない。


「考え込んでいるね」


 隣を歩くアランが、軽く声をかけた。


 ミリアは視線を前に向けたまま答える。


「考えなければならないことが増えましたので」


「僕のせいかな」


「半分ほどは」


「残り半分は?」


「黒蛇と、貴族社会と、自分の未熟さです」


「多いね」


「ええ。とても」


 アランは小さく笑った。


 その笑みは、先ほど控えの間で見せた軽薄なものとは違っていた。柔らかく、少しだけ申し訳なさそうで、それでいてどこか嬉しそうでもある。


 ミリアは横目で彼を見る。


「まだ嬉しそうですね」


「顔に出ている?」


「出ています」


「困ったな。駄王子としての演技力が落ちているかもしれない」


「それは良いことなのか悪いことなのか、判断に困ります」


「僕としては悪いことだね」


 アランは肩をすくめた。


「でも、君が怒ってくれたことは、本当に嬉しかった」


 また、それを言う。


 ミリアは胸の奥が少し痛くなった。


 彼は、自分のために怒られることを、こんなにも大切そうに受け取る。まるで、それが珍しい贈り物であるかのように。


 それが、余計に悔しい。


 あなたは、怒られて当然の扱いを受けているのです。


 そう言いたくなる。


 けれど、今は言わない。


「私は、あなたが笑われることを当然にしたくありません」


「うん」


「ですが、あなたの仮面を壊すこともしたくありません」


「難しい注文だね」


「はい。ですから、考えています」


 ミリアは静かに言った。


「どう怒れば、あなたを困らせずに済むのかを」


 アランは一瞬、足を止めそうになった。


 だが、すぐに歩調を戻す。


「……君は本当に、真面目だね」


「あなたが不真面目すぎるのです」


「それは否定しにくい」


「表向きは、でしょう」


 ミリアの返答に、アランは少しだけ目を細めた。


「そう言ってくれる人が増えると、僕の仕事がやりにくくなる」


「分かっています。ですから、私は言い方を覚えます」


「言い方?」


「はい」


 ミリアは少しだけ考え、控えの間で聞いた貴族たちの顔を思い出した。


「たとえば、先ほどの場で私が直接あなたを褒めれば、不自然になります。ですが、王族に対する礼節を欠いた発言を注意することはできます。アラン殿下個人を庇うのではなく、王家そのものへの敬意を問う形にすれば、あなたの仮面を壊さずに相手を止められるかもしれません」


 アランの表情が変わった。


 感心したような、少し驚いたような顔。


「なるほど」


「それでも怒りが出すぎれば危険です。ですから、感情ではなく礼節として扱う。貴族としての言葉で、貴族として叱る」


「……怖いな」


「怖がってくださいと言いました」


「言ったね」


 アランは楽しそうに笑った。


 ミリアは真剣だったが、アランが笑うことで少しだけ肩の力が抜けた。


「君は強くなるよ」


 彼は言った。


 ミリアは首を振る。


「まだです」


「剣の話じゃない」


「それも、まだです」


 アランは返す言葉に少し迷い、それから静かに頷いた。


「そうだね。まだ途中だ」


「はい」


「でも、進んでいる」


 その言葉に、ミリアは少しだけ息を止めた。


 進んでいる。


 そう言われることが、こんなにも嬉しいとは思わなかった。


 剣も、資料分析も、怒りの扱い方も。


 まだすべてが未熟だ。


 けれど、進んでいる。


 そう言ってくれる人がいる。


「ありがとうございます」


 ミリアが小さく答えると、アランは少し照れたように目を逸らした。


「どういたしまして」


 ほどなくして、二人は王太子執務室の前へ到着した。


 扉の前に立つ近衛騎士が、二人に深く頭を下げる。


「アラン殿下、ランバール令嬢。ルイ殿下がお待ちです」


 扉が開かれる。


 中に入ると、ルイ・ヴァルタインが机の前に立っていた。


 金の髪、青い瞳、整った顔立ち。その姿には、王太子としての威厳がある。だが、近くで見れば疲労の色も隠しきれていなかった。昨夜の火災、王城内の監査、貴族たちへの対応。彼が背負うものもまた、決して軽くはない。


 部屋にはルイのほか、レム、リィナ、そして数名の文官がいた。文官たちは表の業務に携わる者たちであり、影狼の詳細は知らない。だが、王太子の信頼を得た者たちである。


 ミリアは深く一礼した。


「ルイ殿下。昨夜の火災につきまして、父ランバール公爵よりお見舞いの言葉を預かっております。王城における被害が最小限に留まったこと、心より安堵しているとのことです」


「公爵に感謝を伝えてほしい」


 ルイは穏やかに答えた。


「また、ランバール家から資料確認への協力を申し出ていただいたことにも感謝する。ミリア嬢、君の報告は非常に有用だった」


 王太子からの正式な言葉に、ミリアは背筋を伸ばした。


「恐れ入ります。私にできる範囲で、引き続き協力いたします」


「期待している」


 その短い言葉に、執務室の空気が少し変わった。


 文官たちがわずかにミリアを見る。


 ランバール公爵令嬢が、王太子から直接期待していると言われた。それは小さなことではない。もちろん、表向きには公爵家の資料整理への協力という形だ。だが、それでも彼女の立場は以前と少し違うものになる。


 アランはその変化を見逃さなかった。


 兄上もなかなか大胆なことをする。


 そう思いながら、彼はいつもの調子で菓子袋を掲げた。


「兄上、差し入れを持ってきました」


「今はそれどころではない」


「働きすぎる兄を持つ弟の気遣いを拒むのですか」


「その弟が少しでも政務を手伝えば、私の負担は減るのだが」


「僕が手伝うと王国が混乱しますよ」


「自覚があるなら直せ」


 文官たちが苦笑する。


 ミリアは、そのやり取りを静かに聞いていた。


 以前ならば、アランの軽さだけを見て眉をひそめていたかもしれない。だが今は違う。このやり取りもまた、王太子ルイを表に立て、アラン自身はあくまで気楽な弟として見せるための一部なのだと分かる。


 ルイもそれを理解している。


 だから叱る形を取りながら、弟の仮面を守っている。


 表と裏で支え合う兄弟。


 その姿は、ミリアの目には以前よりもずっと深く映った。


 やがて文官たちが退室し、部屋にはルイ、アラン、ミリア、レム、リィナだけが残った。


 空気が切り替わる。


 ルイが机の上に一枚の資料を置いた。


「エドガー・ノルムについてだ」


 その名が出た瞬間、ミリアの表情が引き締まる。


 財務局副書記官。


 五年前、ローデン商会への資金流入に仲介者として名を残した人物。


 現在は王城納入業者の契約書類に触れられる立場にあり、ベルク納品組合の件にも関与できる可能性がある。


 リィナが椅子の背に肘を乗せながら説明を始めた。


「調べた限り、エドガー・ノルムは地味だけどかなり面倒な位置にいるよ。財務局の中では上から三番目くらいの補佐役。決定権は薄いけど、書類の流れは全部見られる。納入契約、支払い処理、業者変更の推薦状。この辺りに触れる」


「目立たないが、糸を通すには十分な立場だな」


 ルイが言う。


「うん。それと、五年前の秋に地方財務官から王都へ移ってるんだけど、その直後にローデン商会の支払い遅延が一気に解消されてる」


 ミリアは静かに頷いた。


「公爵家の資料でも同じ時期に変化がありました。ローデン商会はそれ以前、資金繰りに苦しんでいたはずです」


 リィナが感心したように笑う。


「白薔薇様の資料、かなり助かったよ。こっちは裏から見るけど、公爵家の表記録はやっぱり強いね」


「お役に立てたなら何よりです」


「立ちすぎて殿下が心配性になってる」


「リィナ」


 アランが軽く睨む。


 リィナは舌を出した。


 ルイは資料を見下ろしながら言った。


「エドガーが黒蛇に協力しているとして、目的は何だ」


「王城内の納入経路を作ることです」


 ミリアが答えた。


 視線が彼女へ集まる。


 ミリアは少し緊張したが、言葉を止めなかった。


「ローデン商会が直接王城へ入り込めば目立ちます。ですが、ベルク納品組合のような既存の納入業者を通せば、品の流れに紛れ込める。エドガー・ノルムが契約書類や納入記録に触れられる立場なら、不自然な変更を自然なものとして処理できます」


 リィナが指を鳴らした。


「その通り。しかも、エドガーは地味だから目立たない。上司の財務卿は大きな金額しか見ないし、小口の備品納入までは副書記官に任せてる」


 アランはミリアを見た。


 彼女は落ち着いている。


 先ほど控えの間で怒りに震えていた同じ人物とは思えないほど、冷静に状況を整理している。怒りを消したのではない。押し込めているのでもない。今は必要な形に変えている。


 ミリア自身は気づいていないかもしれない。


 だが、彼女はすでに学び始めている。


 アランは小さく息を吐いた。


 やはり、早い。


 剣も、情報も、心の使い方も。


「エドガーを捕らえるか?」


 レムが尋ねる。


 アランは首を振った。


「まだ早い。今捕らえても、本人が黒蛇との繋がりを認めるとは限らない。証拠も足りない。何より、上にいる者へ繋がらない」


「上」


 ミリアが呟く。


 アランは頷いた。


「エドガーが黒蛇の中心ということはない。彼は糸の途中だ。ローデン商会へ資金を流し、ベルク納品組合を王城へ繋げた。その背後に、資金を出した者がいる」


「貴族ですか」


「可能性は高い」


 ルイの表情が険しくなる。


「王国内の貴族が、黒蛇に資金を流していると?」


「あるいは、黒蛇と知らずに利用されているか。どちらにせよ、王国の中枢近くにいる者です」


 部屋の空気が重くなった。


 王城内の協力者。


 財務局副書記官。


 納入業者。


 そして、その上にいるかもしれない貴族。


 黒蛇の根は、思っていた以上に深い。


 リィナが地図に印をつける。


「エドガーは今夜、財務局の夜間整理に残る予定。明日はローデン商会の代表が王城近くの行政棟に来る。表向きは納入契約の更新相談」


「接触の機会か」


 アランが言う。


「うん。たぶん直接会う。そこを押さえたい」


「ゼイドは?」


「すでに行政棟周辺の経路確認中」


 アランは考え込んだ。


 エドガーとローデン商会代表の接触。


 そこを押さえれば、証拠を得られる可能性がある。だが、黒蛇がこちらの動きを読んでいるなら、それすら罠かもしれない。


 ヴァルグは、守るものが多すぎると言った。


 確かにそうだ。


 ルイ。


 ミリア。


 王城。


 記録。


 影狼。


 王国。


 守るべきものは多い。


 だが、それでも捨てるつもりはない。


「明日、行政棟に人を置く」


 アランは決めた。


「ゼイドの隠密班を中心に、リィナの情報班も支援。表の警備は兄上から自然に増やしてもらう」


「理由は?」


 ルイが問う。


「火災後の納入業者確認。表向きはそれで十分です」


「分かった」


 アランは次にミリアを見た。


「ミリア嬢」


「はい」


「君には、ローデン商会代表の表向きの評判を調べてほしい。貴族家との付き合い、寄付、夜会への出入り、令嬢たちの間の噂。影狼では拾いにくい部分だ」


「承知しました」


「ただし、直接近づかない」


「分かっています」


「本当に?」


 ミリアは少しだけ眉を上げた。


「先ほどの話を聞いた後でも、同じ確認をなさるのですか」


「念のため」


「私は怒り方を考えると言いました。無謀に動くとは言っていません」


「うん。信じているよ」


 その返答に、ミリアは一瞬だけ黙った。


 信じている。


 何気ない言葉のように聞こえた。


 だが、アランがその言葉を使ったことに意味があると、彼女は分かっていた。


「では、その信頼に応えます」


 ミリアは静かに答えた。


 リィナがにやにやしているのを、レムが無言で肘で止めた。


 会議はそこで一区切りとなった。


 ルイは表の指示を出すため、再び文官を呼ぶ準備に入った。リィナは資料をまとめ、レムはアランの予定を確認している。


 ミリアは執務室の隅で、机の上に広げられた王城の簡易図を見ていた。


 財務局。


 行政棟。


 使用人棟。


 資料保管棟。


 王太子執務室。


 それぞれの場所が線で繋がれている。以前なら、ただの城内施設の配置図にしか見えなかっただろう。だが今は、そこに人と物と情報の流れが見える。


 黒蛇は、その流れに潜んでいる。


 ならば、自分はその流れを読まなければならない。


 剣で斬れないものを、目と頭で見つけるために。


「ミリア嬢」


 アランが隣に来た。


 ミリアは地図から顔を上げる。


「はい」


「今日は、疲れただろう」


「まだ大丈夫です」


「その返答は危険だね」


「あなたに言われると複雑です」


「僕もそう思う」


 アランは苦笑した。


「でも、今日はもう休んだ方がいい。控えの間の件もあったし、会議でもかなり頭を使ったはずだ」


「怒ったからですか」


「怒るのは体力を使うからね」


 ミリアは少しだけ目を伏せた。


「まだ、怒っています」


「うん」


「ですが、今は少し違います」


「どう違う?」


「先ほどは、ただ叱りつけたかった。あなたを悪く言った方々に、自分たちがどれほど失礼なことを言っているのか分からせたかった」


「今は?」


「今は、あの方々がなぜそう言ったのかを考えています」


 アランの目がわずかに変わる。


 ミリアは続けた。


「本当にただの無理解なのか。誰かが意図的にあなたの悪評を広めているのか。あるいは、私の反応を見るためにあの場で話題にしたのか。怒りはまだあります。ですが、怒るだけでは足りないのだと思いました」


 アランは何も言わなかった。


「レムさんに、剣は腕で振るものではないと言われました。足、腰、肩、相手の動き。すべてを見なければならないと」


 ミリアは自分の手を見た。


「怒りも同じなのですね。相手に向けて振るう前に、足場を見なければならない。そうしなければ、自分が崩れる」


 アランはしばらく彼女を見つめていた。


 そして、静かに笑った。


「君は、本当に早い」


「剣の話ですか」


「全部」


 その一言に、ミリアは少しだけ頬を赤らめた。


「褒めすぎです」


「素直に褒めているんだけど」


「あなたが素直だと、少し落ち着きません」


「ひどいな」


 二人の間に、穏やかな空気が流れる。


 だが、それは長くは続かなかった。


 扉の外から慌ただしい足音が近づいてきた。


 近衛騎士が入室し、ルイに一礼する。


「殿下。財務局より急報です」


 ルイの表情が引き締まる。


「何だ」


「エドガー・ノルム副書記官が、急病を理由に本日の勤務を切り上げ、王城を出たとのことです」


 部屋の空気が変わった。


 リィナが舌打ちする。


「動いた」


 アランの青い瞳が冷える。


「誰かつけているか」


「ゼイドが財務局周辺に。ですが、本人の退城は予定外だったため、少し遅れています」


 ルイが机に手を置く。


「逃げるつもりか」


「あるいは、誰かに会いに行く」


 アランは即座に答えた。


 そして、ミリアへ視線を向けた。


「君は公爵邸へ戻って。ここから先は影狼が動く」


「分かりました」


 ミリアはすぐに頷いた。


 ついて行くとは言わない。


 それが今の自分の役目ではないと分かっているからだ。


 だが、彼女は一つだけ言った。


「エドガー・ノルムが急病を理由に出たのなら、医師か薬師の名を確認してください。貴族社会では、急病の口実には必ず誰かの名が添えられます。偽装でも、本物でも、その名が糸になります」


 アランの目が一瞬鋭くなった。


「なるほど」


 リィナも頷く。


「それ、すぐ調べる。退城記録に診断先が書かれてるかも」


 アランはミリアを見て、短く言った。


「助かった」


 ミリアは静かに一礼した。


「お気をつけて」


「うん」


 アランはすぐに動いた。


 レムが続く。リィナが資料を抱えて走る。ルイは表の指示を出すため、騎士と文官を呼び戻す。


 執務室が一気に動き出した。


 その中で、ミリアは邪魔にならないよう一歩下がった。


 自分はここで剣を振るえない。


 エドガーを追うこともできない。


 だが、今の一言は役に立った。


 急病という言い訳の裏にある医師や薬師の名。


 貴族社会で育った自分だからこそ気づけたこと。


 それは小さなことかもしれない。


 けれど、小さな糸が大きな網へ繋がることを、彼女はもう知っている。


 ミリアは静かに息を吸った。


 怒りはまだ胸にある。


 だが今、その怒りは彼女を乱す炎ではなく、前を見るための灯になり始めていた。


 王城の影は、再び動く。


 エドガー・ノルム。


 ローデン商会。


 そして、その背後にいる見えない貴族。


 白薔薇は、まだ戦場へは立てない。


 けれど、その視線は確かに、蛇の通った跡を捉え始めていた。

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