12話 白薔薇の怒り
王城の空気は、火災の翌日から少しずつ変わり始めていた。
表向きには、資料保管棟の火災は小規模な事故として処理された。王太子ルイの迅速な指示により被害は最小限に抑えられ、管理体制の再点検が命じられた。王城内では、使用人棟から備品庫に至るまで、物資管理と納入記録の確認が進められている。
だが、事故という言葉だけで貴族たちの口を閉じられるほど、王城は単純ではない。
廊下を歩けば、声を潜めた噂が耳に入る。
資料保管棟に火が出たのは本当に偶然か。
王太子殿下の統治に隙が出始めたのではないか。
国王陛下のご病状が重くなっているから、王城内の規律が緩んでいるのではないか。
黒い噂は、姿を持たない蛇のように石壁の隙間を這い回っていた。
その日、ミリア・ランバールは父の名代として王城を訪れていた。
表向きの目的は、火災見舞いと王城管理体制への協力申し出である。ランバール公爵家は王国重臣の家であり、王城の混乱に対して見舞いを述べるのは自然なことだった。
だが、彼女の鞄にはもう一つ、別の目的が隠されている。
ローデン商会に関する古い取引記録。
エドガー・ノルムという財務局副書記官の名。
そして、五年前の資金流入に関する追加資料。
それらを、アランへ直接渡すためだった。
ミリアは王城の長い廊下を歩きながら、そっと呼吸を整えた。
淡い青のドレスは、いつも通り気品を失わない。髪も整えられ、歩幅も姿勢も公爵令嬢として完璧に保たれている。けれど、手袋の下の手のひらには、剣の訓練でできた薄い痛みが残っていた。
その痛みは、不思議と彼女を落ち着かせた。
自分はただ飾られるためにここへ来たのではない。
そう思えるからだ。
案内役の侍女に導かれ、ミリアは王城東側の控えの間へ通された。そこは貴族や来客が王族との面会を待つための広い部屋で、壁には王国の歴史を描いた絵画が並び、窓からは整えられた庭園が見える。
すでに数名の貴族がいた。
侯爵家の次男、伯爵家の令嬢、財務関係の役職を持つ子爵、地方領主の代理人。火災後の王城に集まった者たちだ。誰もが表向きには心配そうな顔をしている。だが、その声の端々には、どこか好奇心と政治的な計算が混じっていた。
ミリアは軽く挨拶を交わし、部屋の一角に立った。
本来ならば、こういう場での会話は得意な方だった。相手の立場を見極め、言葉の裏を読み、必要な距離を保つ。貴族令嬢として身につけてきた技術がある。
けれど、今は以前とは違う。
見えるものが増えてしまった。
相手の言葉がただの社交辞令ではなく、どこへ繋がる糸なのかを考えてしまう。誰が何を探り、誰が何を隠しているのか。黒蛇の存在を知った今、貴族社会の何気ない会話すら、薄暗い網の一部に見えた。
「それにしても、昨夜の火災には驚かされましたな」
丸顔の子爵が、わざとらしく声を潜めて言った。
「王太子殿下がご無事で何よりでした。まったく、王城で火が出るなど、あってはならぬことです」
「ルイ殿下はすぐに指揮を執られたとか。さすがでございますわ」
伯爵令嬢が頷く。
そこまでは、まだよかった。
問題は、その次だった。
「それに比べて、第二王子殿下は相変わらずだったそうですな」
侯爵家の次男が、薄笑いを浮かべた。
ミリアの指が、わずかに動いた。
「アラン殿下ですか?」
「ええ。何でも火災の後も、菓子の心配をしておられたとか。まこと、王家にあのような方がおられるとは、ルイ殿下も苦労が絶えぬでしょう」
周囲に小さな笑いが広がった。
ミリアは静かに立っていた。
聞き流せ。
そう思った。
ここは王城であり、周囲には多くの目がある。アランが自ら望んで駄王子を演じていることも知っている。彼の評価を表で覆すことが、必ずしも彼のためにならないことも分かっている。
分かっている。
それでも、胸の奥に熱いものが湧いた。
「ルイ殿下ほどの方を兄に持ちながら、なぜああもお気楽でいられるのか」
「王位に興味がないのは結構ですが、王族としての自覚まで捨てていただいては困りますな」
「まあ、あの方が真面目に政務へ関わられても、かえって混乱しそうですが」
また笑いが起きる。
ミリアの呼吸が浅くなった。
違う。
あなた方は何も知らない。
あの人は、ここにいる誰よりも王国のためを想っている。
ここにいる誰よりも、見えない場所で働いている。
昨夜、火災現場で剣を抜き、資料を守り、王太子殿下を守るために走ったのは、あなた方が笑っているその人だ。
左腕に傷を負っても、何もなかったように笑っている。
貴族たちに嘲られても、国のためにその仮面を被り続けている。
そのことを、あなた方は。
何も知らないくせに。
「……皆様」
ミリアの声は静かだった。
だが、自分でも分かるほど冷えていた。
部屋の中の視線が、彼女へ集まる。
侯爵家の次男が、少し意外そうに眉を上げた。
「ランバール嬢?」
ミリアは一歩前へ出た。
心臓が強く打っている。
怒りが、胸の内側から喉元へ上がってくる。
ここで言ってしまいたかった。
あなた方は何を見ているのですか、と。
表に見える怠惰だけを笑い、その裏で誰が王国を支えているのか知ろうともしない。それで貴族を名乗るのですか、と。
国を守るとは、夜会で美しい言葉を並べることではない。
王城の安全を憂うふりをしながら、実際に傷を負った者を嘲笑うことでもない。
彼は。
アラン・ヴァルタインは。
あなた方よりもずっと。
「そのお話はー」
言いかけた、その瞬間。
彼女の横から、軽い声が割り込んだ。
「僕の悪口なら、もう少し面白く言ってほしいな」
場の空気が止まった。
ミリアは振り向いた。
いつの間にか、控えの間の入口にアランが立っていた。
銀の髪、青い瞳。少し着崩した王族服。手には小さな菓子袋。いつものように気の抜けた笑みを浮かべている。
周囲の貴族たちが慌てて頭を下げた。
「ア、アラン殿下」
「おや、そんなにかしこまらなくても。僕はただ、兄上に菓子を届けに行く途中でね。自分の評判が聞こえたものだから、つい立ち寄ってしまった」
侯爵家の次男の顔が引きつる。
「いえ、殿下、その、決して悪意があったわけでは」
「そうなの? 残念だな。悪意のない悪口ほど扱いに困るものはないよ」
アランは笑っていた。
だが、ミリアには分かった。
彼は、こちらを見ている。
ほんの一瞬だけ、彼の視線がミリアの手元へ落ちた。彼女の指が、怒りを堪えるように握られていることに気づいたのだろう。
アランは自然な動作でミリアの隣へ来ると、彼女がこれ以上前へ出ないよう、さりげなく立ち位置を変えた。
壁になった。
貴族たちからミリアを隠すように。
そして同時に、ミリアが貴族たちへ踏み込まないように。
「ミリア嬢」
アランは軽い声で呼んだ。
「もし僕のために怒ってくれようとしたのなら、少し待ってほしい。僕は自分の悪評を聞く機会が意外と好きなんだ。改善点が見つかるかもしれないからね」
ミリアは彼を睨むように見た。
怒りが収まらない。
むしろ、アランが平然としていることが余計に悔しかった。
「改善点などではありません」
声が震えそうになるのを、必死に抑えた。
アランは目を細める。
「では、僕への評価は正しいと?」
「正しくありません」
即答だった。
周囲の貴族たちが息を呑む。
アランの笑みが、ほんのわずかに変わった。
嬉しそうに。
けれど、少し困ったように。
「それは光栄だ」
「光栄で済ませないでください」
ミリアの声は、もう完全には隠せていなかった。
怒りが滲んでいた。
「あなたはー」
そこで、アランの手がそっと動いた。
触れたのは、彼女の手首だった。
強く掴んだわけではない。
ただ、止めるために、そっと。
ミリアは言葉を飲み込んだ。
アランの青い瞳が、静かに告げていた。
ここでは駄目だ、と。
彼女は唇を結ぶ。
分かっている。
ここで真実を叫べば、アランの仮面を壊すことになる。彼が何のために嘲笑を受け入れているのか。なぜ自分を駄王子として見せているのか。ミリアはもう知っている。
だから、言えない。
言ってはいけない。
それでも、悔しかった。
こんなにも悔しいのだと、自分でも驚くほどだった。
アランは貴族たちへ向き直った。
「まあ、僕のことはさておき、兄上は本当にお忙しい。皆も見舞いの言葉を届けに来たのなら、どうか余計な心配を増やさないようにしてほしい。王城で火災が起きた今、噂を燃やすのは控えた方がいい」
軽い口調だった。
だが、その言葉の奥に、わずかな鋭さがあった。
貴族たちはすぐに頭を下げた。
「も、申し訳ございません」
「以後、慎みます」
「うん。僕も次に悪口を言われる時は、もう少し詩的な表現を期待しているよ」
アランはそう言って、笑った。
場の空気が、強引に緩められる。
貴族たちはぎこちなく笑い、話題を変えようとした。誰も、これ以上アランについて触れようとはしなかった。
アランはミリアへ視線を向ける。
「ランバール嬢。少し、兄上の執務室まで付き合ってくれるかな。君のお父上からの見舞いの件もあるだろう?」
「……はい」
ミリアは短く答えた。
二人は控えの間を出た。
廊下へ出て、しばらく無言で歩く。
ミリアは自分の中の怒りを抑えようとしていた。けれど、うまくいかなかった。胸の奥がまだ熱い。手袋の下の指先が震える。泣きたいわけではない。ただ、悔しい。
悔しくてたまらなかった。
やがて、人気の少ない回廊に入ったところで、アランが足を止めた。
「怒ってくれたんだね」
最初の言葉がそれだった。
ミリアは顔を上げる。
アランは、少しだけ嬉しそうだった。
本当に。
困ったように笑いながらも、どこか胸の奥から温まっているような表情をしていた。
その顔を見た瞬間、ミリアの怒りは別の形へ変わりそうになった。
「嬉しそうにしないでください」
「ごめん」
「謝る顔ではありません」
「そうかもしれない」
「私は怒っているのです」
「うん」
「あなたのために」
「……うん」
アランの声が少しだけ柔らかくなった。
ミリアは言葉を続けた。
「皆、何も知らずにあなたを笑っていました。昨夜、あなたが何をしていたかも知らずに。王国のためにどれだけ働いているかも知らずに。ルイ殿下を、王城を、資料を守るために傷まで負ったことも知らずに」
息が乱れる。
それでも止まらなかった。
「あなたは、ここにいる誰よりも王国のためを想っています。ここにいる誰よりも働いています。それなのに、なぜあのように言われなければならないのですか。なぜあなたは笑っていられるのですか」
回廊に静寂が落ちた。
アランはすぐに答えなかった。
窓から差し込む光が、彼の銀髪を淡く照らしている。いつもの軽薄な仮面は、少しだけ薄れていた。
「慣れているから」
やがて、彼は言った。
ミリアの眉が動く。
「それは答えになっていません」
「そうだね」
アランは苦笑した。
「でも、慣れているのは本当だ。貴族たちが僕をどう見るかは、ある程度こちらで誘導している。ああ言われるように振る舞っているのも僕だ」
「だからといって、傷つかないわけではないでしょう」
アランの笑みが止まった。
ミリアは一歩近づいた。
「あなたは、そういうところを誤魔化します」
「……本当に、君はよく見ているね」
「見るようになりました」
以前は見ていなかった。
いや、見ようとしていなかった。
夜会で見た軽薄な姿だけを信じ、駄王子という噂に自分の判断を預けた。けれど今は違う。彼が笑う時、その奥に何を隠しているのか。すべては分からなくても、見ようとしている。
アランは窓の外を見た。
「僕の悪評は盾になる」
「分かっています」
「僕が無能だと思われていれば、兄上と比較されることはない。王位を狙う派閥も生まれにくい。僕が軽薄だと思われていれば、裏で動いても警戒されにくい」
「それも分かっています」
「だから、あの場で君が僕を強く庇うと危ない。君が僕を高く評価していると周囲に見られれば、なぜかと疑われる。君の目が、僕の仮面の下を見ていると気づく者が出るかもしれない」
「……分かっています」
ミリアは三度そう言った。
けれど、今度の声には悔しさが滲んでいた。
「分かっていても、怒りは消えません」
アランは彼女を見た。
ミリアの青い瞳は揺れていた。
怒りと悔しさと、彼への心配が混ざっている。アランはその感情を、どう扱えばいいのか一瞬分からなかった。
自分のために怒られることに、慣れていない。
ルイは怒る。レムも怒る。影狼の者たちも、時にアランの無茶を咎める。
だが、ミリアの怒りは少し違った。
彼の価値を、他人に踏みにじられたことへの怒りだった。
それが、どうしようもなく胸に響いた。
「嬉しかったよ」
アランは静かに言った。
ミリアが目を見開く。
「君が怒ってくれて」
「私は真剣に怒っているのです」
「うん。だから嬉しい」
アランは少し照れくさそうに笑った。
「僕の悪評に怒ってくれる人間は、そう多くない。兄上やレムは別としてね。君があそこまで怒ってくれたのは、正直、驚いた」
「怒ります。当然です」
「当然、か」
アランはその言葉を噛みしめるように繰り返した。
当然。
彼にとっては、当然ではなかった。
自分が誤解されること。
嘲られること。
軽んじられること。
それは目的のために必要な代償であり、受け入れるべきものだった。怒るほどのことではないと思っていた。そう思わなければ、やってこられなかったのかもしれない。
けれど、目の前の令嬢は怒っている。
彼が軽んじられたことを、当然のように許せないと言っている。
アランは胸の奥が少し痛んだ。
傷とは違う痛みだった。
「ありがとう、ミリア」
初めて、彼は彼女を名で呼んだ。
ミリアは一瞬、言葉を失った。
アラン自身も気づいたのか、少しだけ目を逸らした。
「……今のは、その」
「いえ」
ミリアは小さく首を振った。
「嬉しいです」
今度はアランが黙った。
回廊の空気が、ほんの少し変わる。
重い陰謀の中に、細く柔らかな光が差し込んだようだった。
だが、ミリアはすぐに表情を引き締めた。
「ですが、次に同じことがあれば、私はまた怒ります」
「そこは抑えてほしいな」
「努力はします」
「約束ではなく努力なんだ」
「あなたもよくそう言います」
「似てきた?」
「それは少し困ります」
アランは笑った。
今度の笑みは、軽い仮面ではなかった。
「君の怒りは、大事に使った方がいい」
彼は静かに言った。
「怒ること自体は悪くない。むしろ、君の怒りは正しい。でも、王城では正しさだけで動くと、相手に利用される。誰かがわざと僕を貶める言葉を君に聞かせた可能性もある」
ミリアの表情が変わる。
「私の反応を見るために?」
「その可能性はある」
「黒蛇が?」
「黒蛇か、貴族の誰かか、あるいはただの偶然か。まだ分からない。でも、君が僕を強く庇えば、君が僕の何かを知っていると見抜かれる」
ミリアは唇を引き結んだ。
怒りを見せることすら、罠になり得る。
それが王城。
それが影の戦い。
「私は、まだ未熟ですね」
「未熟というより、真っ直ぐなんだ」
「それは危険なのでしょう?」
「時と場所による」
アランは優しく言った。
「でも、僕は君のそういうところに助けられている」
ミリアは少しだけ目を伏せた。
怒りはまだ残っている。
だが、先ほどよりも形を変えていた。
ただ相手を叱りつけたいという衝動ではなく、どうすればアランを守れるのか、どうすれば彼の仮面を壊さずに支えられるのか。その問いへと変わり始めていた。
「次からは、怒り方を考えます」
「それは怖いな」
「怖がってください」
「うん、かなり怖い」
二人は小さく笑った。
その時、レムが回廊の奥から姿を現した。
彼女は二人の距離と空気を一瞬で読み取り、ほんのわずかに目を細めたが、何も言わずに一礼した。
「アラン様。ルイ殿下がお待ちです」
「分かった」
アランはミリアへ視線を向ける。
「一緒に来てくれるかな。お父上からの見舞いの件もあるし、資料も兄上に共有したい」
「はい」
ミリアは頷いた。
歩き出す前に、彼女はもう一度だけアランを見た。
「アラン殿下」
「何?」
「私は、あなたが笑われることに慣れたくありません」
アランは静かに目を見開いた。
ミリアは続けた。
「あなたが必要だからその仮面を被っていることは理解します。ですが、私までそれを当然だと思うようにはなりたくありません」
彼女は少しだけ迷い、それでも言った。
「怒りを表に出さないようにはします。けれど、怒らない人間にはなりません」
アランはしばらく黙っていた。
そして、柔らかく笑った。
「それでいいよ」
その声は、とても穏やかだった。
「君が怒ってくれるなら、僕はもう少しだけ、笑っていられる気がする」
ミリアの胸が、きゅっと締めつけられた。
それは痛みに近い感情だった。
けれど、嫌な痛みではない。
彼の孤独に、ほんの少し触れてしまったような気がした。
二人は並んで歩き出した。
王太子執務室へ向かう長い廊下。
その先には、王城財務局副書記官エドガー・ノルムの件が待っている。ローデン商会の過去。ベルク納品組合の不審な動き。王城内に潜む黒蛇の協力者。解くべき糸は、まだいくつも絡まっている。
だが、ミリアの心には先ほどとは違う熱が残っていた。
怒りは消えていない。
消すつもりもない。
ただ、その怒りを刃のように振り回すのではなく、いつか正しく使えるようにならなければならない。
剣と同じだ。
握り方を間違えれば、自分も相手も傷つける。
けれど、正しく扱えば、大切なものを守る力になる。
白薔薇は、その日初めて知った。
怒りもまた、守るための力になるのだと。
そしてアランは、その隣で静かに思っていた。
自分のために怒ってくれる人がいる。
その事実が、こんなにも温かいものだとは知らなかった。
王国の影は、まだ深い。
黒蛇の牙は、王城の内側にまで届いている。
それでも、アランの胸には小さな灯がともっていた。
白薔薇の怒り。
それは、彼が長く背負ってきた孤独を、ほんの少しだけ照らす光だった。




