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11話 傷を隠す王城

 王城資料保管棟の火災は、翌朝には「小規模な事故」として処理された。


 公式には、古い灯油瓶の管理不備による発火。被害は一部の棚と書類に留まり、重要な国家記録への影響は軽微。王太子ルイの迅速な指示により消火は速やかに行われ、王城内の管理体制は改めて点検されることとなった。


 そう発表された。


 だが、それを額面通りに受け取る者は少なかった。


 王城は、王国の中心である。そこに火が出たというだけで、貴族たちは敏感に反応する。まして国王アルバートが病に伏し、王太子ルイが実質的に国政を担っている今、どんな小さな異変も政争の種になる。


 朝の貴族街では、すでに様々な噂が流れていた。


 管理が甘くなっているのではないか。


 王太子への不満を持つ者の仕業ではないか。


 王城内に不穏な勢力がいるのではないか。


 あるいは、ただの事故を大げさに騒いでいるだけではないか。


 噂は噂を呼び、真実から離れながら広がっていく。


 その中心から少し離れた王城の中庭で、アラン・ヴァルタインはいつものように欠伸をしていた。


「いやあ、昨日は騒がしかったね。夜に火が出ると、眠る機会を失ってしまう。王城にはもっと安眠を守る制度が必要だと思うんだ」


 彼はそう言って、手にした焼き菓子を口に運んだ。


 周囲にいた数人の若い貴族たちは、曖昧に笑う。第二王子の軽口にどう反応すればよいのか、いつも判断に困るのだろう。ある者は追従し、ある者は内心で呆れ、またある者は軽蔑を隠そうともしない。


「アラン殿下は昨夜もよくお休みで?」


 若い男爵家の子息が、笑いを含んだ声で尋ねた。


 少し棘のある言い方だった。


 火災の夜に呑気に眠っていたのか、と言いたいのだろう。


 アランは気にした様子もなく、困ったように肩をすくめた。


「それが眠れなくてね。王城中が騒がしいから、僕まで起こされてしまった。せっかく良い夢を見ていたのに」


「どのような夢を?」


「山のような菓子に囲まれる夢だよ」


 その返答に、周囲から小さな笑いが起きる。


 愚かな第二王子。


 緊張感のない王族。


 兄であるルイ王太子が火災対応に追われていたというのに、自分の眠りと菓子の心配しかしていない男。


 その場にいた多くの者は、そう受け取った。


 アランは笑っていた。


 気の抜けた笑みを浮かべ、焼き菓子を手に、あくまで軽薄な駄王子としてそこに立っていた。


 だが、彼の左腕は外套の下で布に巻かれている。


 昨夜、ヴァルグの剣が走った傷だった。


 浅い。


 確かに浅い傷だ。


 戦いの中では負傷と呼ぶほどのものではない。だが、剣が肉を裂いた以上、痛みがないわけではない。袖の内側で包帯が擦れるたび、細い熱が走る。それでもアランは表情を変えなかった。


 痛みを顔に出さないことには慣れている。


 侮られることにも慣れている。


 自分が傷を負っていたことを知る者は少ない。レム、ルイ、そして治療を担当した影狼の薬師だけだ。王城の貴族たちに知られる必要はない。知られたところで、面倒が増えるだけである。


 だから、彼は笑う。


 いつも通りに。


 何もなかったかのように。


 その時、遠くから声がかかった。


「アラン殿下」


 アランは振り向いた。


 中庭の入口に、ミリア・ランバールが立っていた。


 淡い青のドレスを身に纏い、金の髪を品よくまとめている。朝の光を受けるその姿は、貴族街で白薔薇と称されるにふさわしい気品を備えていた。だが、その青い瞳には、柔らかさよりも冷静な観察の色がある。


 アランは内心で少しだけ困った。


 彼女は、見抜く。


 そういう目をしていた。


「これはランバール嬢。朝からお会いできるとは、今日は幸運だ」


「少し、お時間をいただけますか」


「もちろん。美しい令嬢からのお誘いを断るほど、僕は無粋ではないからね」


 周囲の貴族たちが、興味深そうに二人を見る。


 婚約の噂が広がる中での会話である。誰もが耳をそばだてていた。


 ミリアはその視線に気づいていたが、表情を崩さなかった。


「昨日の火災について、父から王城へお見舞いの言葉を預かっております。ルイ殿下へも後ほど正式にお伝えいたしますが、まずは殿下にもご無事を確認したく」


 完璧な口実だった。


 アランは軽く微笑む。


「ご覧の通り、僕は無事だよ。火事の煙より、兄上の説教の方がよほど恐ろしかったくらいだ」


「それは、日頃の行いでは?」


「手厳しい」


 周囲からまた笑いが起きる。


 ミリアは静かに一礼した。


「では、少し歩きながらお話を」


「喜んで」


 アランはその場を離れた。


 中庭を抜け、白い石畳の小道へ入る。周囲の視線が少し遠ざかるまで、二人は形式的な会話だけを交わした。天候、王城の庭、昨夜の火災への表向きの懸念。すべて、誰かに聞かれても問題のない言葉だった。


 やがて、庭園の奥にある噴水のそばまで来た。


 そこは生垣に囲まれ、周囲から少し見えにくい。完全な密談の場ではないが、声を抑えれば内容までは届かない。


 ミリアはそこで足を止めた。


「左腕を怪我されていますね」


 第一声がそれだった。


 アランは目を瞬かせた。


「……挨拶の次がそれかい?」


「否定なさらないのですね」


「否定しても、君は信じないだろう」


「はい」


 即答だった。


 アランは困ったように笑った。


「たいした傷じゃないよ」


「それは怪我を隠す方がよく使う言葉です」


「経験豊富だね」


「あなたを見て学びました」


 ミリアの声は静かだった。


 怒っている。


 アランはそう感じた。


 だが、それはただの怒りではない。心配と、悔しさと、少しの苛立ちが混ざっている。自分が知らない場所で彼が傷を負い、それを何事もなかったかのように隠していることへの感情だ。


「本当に浅い傷だ」


 アランは穏やかに言った。


「剣が少し掠めただけだよ。動きに支障はない」


「誰の剣ですか」


「ヴァルグ」


 ミリアの表情がわずかに硬くなる。


 あの灰色の瞳の男。


 香水商の前で馬車からこちらを見ていた男。


 そして、旧礼拝堂でアランと刃を交えた黒蛇幹部。


 その名を聞くだけで、ミリアの胸に冷たいものが落ちた。


「また、戦ったのですか」


「少しだけね」


「少しだけで怪我をされたのですか」


「剣士同士が少し遊べば、そういうこともある」


「遊びではありません」


 ミリアの声が強くなった。


 アランは口を閉じた。


 彼女はまっすぐに彼を見ていた。


「あなたは、すぐに軽い言葉で済ませようとします。傷も、危険も、自分が背負っているものも。ですが、私はもう何も知らないわけではありません。知らないふりをするつもりもありません」


「ミリア嬢」


「殿下がすべてを話せないことは分かっています。私を危険から遠ざけたいお気持ちも、理解しようとしています。ですが、傷を負ったことまで何でもないように笑われると、こちらは何を信じればよいのか分からなくなります」


 アランは言葉を失った。


 噴水の水音だけが、二人の間に落ちる。


 ミリアは視線を少し下げた。


「……すみません。言いすぎました」


「いや」


 アランは静かに答えた。


「君の言う通りだ」


 今度はミリアが驚いたように目を上げた。


 アランは左腕に視線を落とした。


「怪我を隠すのは癖みたいなものだ。大したことがないと思っているのも本当だし、周囲を不安にさせたくないというのもある。でも、君にまでそれをするのは、少し違ったかもしれない」


「少し、ですか」


 ミリアは小さく息を吐いた。


 まだ不満は残っている。だが、アランが珍しく素直に認めたことで、少しだけ緊張が解けた。


「傷を見せてください」


「ここで?」


「手当ての確認だけです」


「レムに見てもらったよ」


「レムさんは、あなたに甘いところがあります」


 アランは心底意外そうな顔をした。


「レムが? 僕に?」


「はい」


「君の中のレムは、僕の知っているレムと違うのかな」


「厳しく見えて、最終的にはあなたの無茶を許してしまうでしょう」


 アランは反論しかけ、やめた。


 否定できなかった。


 レムは彼に厳しい。だが、アランが本当に必要だと判断した無茶を、最後には支える。止めるのではなく、支えながら被害を減らそうとする。それは甘さではなく信頼だが、ミリアから見れば甘くも見えるのだろう。


「分かった」


 アランは外套を少しずらし、左腕の袖口を上げた。


 包帯が巻かれている。


 血は滲んでいない。処置は丁寧だった。だが、包帯の下に走る傷の位置を見るだけで、ミリアには分かった。浅いとはいえ、剣が当たったのだ。痛みがないはずはない。


「本当に、浅いのですね」


「言っただろう」


「ですが、痛そうです」


「痛くないと言えば嘘になる」


 ミリアはその返答に、少しだけ表情を緩めた。


「今の答えは正直でした」


「僕はいつも正直だよ」


「それは嘘です」


「厳しい」


 アランは袖を戻した。


 すると、ミリアは小さな包みを差し出した。


「これは?」


「公爵家の薬師が調合した軟膏です。傷の治りを早め、炎症を抑えるものです。剣の訓練で手を痛めた時にも使うようにと渡されました」


「君の分じゃないのかい?」


「私の分は別にあります」


「準備がいいね」


「あなたが傷を隠すだろうと思いましたので」


 アランは苦笑した。


「読まれている」


「少しずつ、あなたの行動が分かってきました」


「それはまずいな。駄王子としての神秘性が薄れる」


「元々ありません」


「今日は一段と容赦がないね」


 軽口を交わしながらも、アランは包みを受け取った。


 その重みは小さい。


 だが、奇妙に胸に残った。


 傷を心配される。


 薬を渡される。


 そんなことは、彼にとって珍しいことではないはずだった。レムも、影狼の者たちも、必要ならば手当てをする。ルイも兄として心配する。


 だが、ミリアのそれは少し違った。


 彼女はもう何も知らない令嬢ではない。


 影を知り、危険を知り、それでもこちらへ手を伸ばしてくる。


「ありがとう」


 アランは静かに言った。


 ミリアは少し驚いたように彼を見た。


 いつもの軽い礼ではないと分かったからだ。


「どういたしまして」


 彼女も静かに答えた。


 その時、庭園の入口にレムが現れた。


 一礼し、控えめに声をかける。


「アラン様。ルイ殿下がお呼びです」


「すぐ行く」


 アランは答え、ミリアへ向き直った。


「昨夜の件について、共有することがある。王城内で見つかった魔道具は、本命ではなかった。資料保管棟のローデン商会記録が狙われた」


「やはり」


 ミリアの表情が引き締まる。


「あなたが送ってくださった封書を読みました。過去記録を確認する必要があると」


「ああ。守れた帳簿もあるが、焼けたものもある。君には公爵家側に残る古い取引記録を見てほしい。ローデン商会が急成長する前、つまり六年から七年前の記録だ」


「現在ではなく、過去ですか」


「今のローデン商会は表向き整いすぎている。なら、変化する前を見る」


「分かりました」


 ミリアはすぐに頷いた。


「それと、ベルク納品組合についても、王城側だけでなく貴族家への納入歴がないか確認します」


「助かる」


 アランは一瞬だけ躊躇し、それから言った。


「ただし、無理はしないこと。剣の訓練も始まっている。睡眠を削りすぎるな」


「それは、昨夜火災現場で戦って怪我を負った方が言うことですか」


「……説得力がないね」


「ありません」


 ミリアは少しだけ笑った。


 だが、その笑みには温かさがあった。


「ですが、分かりました。無理はしません。あなたも、傷を悪化させないでください」


「努力する」


「約束してください」


 アランは目を瞬かせた。


 ミリアは引かなかった。


 彼は少し困ったように笑い、そして頷いた。


「約束する」


 その言葉を聞いて、ミリアはようやく納得したように一礼した。


「では、私は屋敷に戻り、資料を確認します」


「気をつけて」


「はい」


 ミリアは背を向け、庭園を出ていく。


 その背を見送りながら、アランはしばらく動かなかった。


 レムが静かに近づく。


「よろしいのですか」


「何が?」


「ミリア様に、傷を見せたことです」


「見抜かれていたからね」


「以前のアラン様なら、最後まで誤魔化しておられました」


「そうかもしれない」


 アランは受け取った軟膏の包みを見下ろした。


「でも、彼女はもう誤魔化されるだけの人じゃない」


 レムはその言葉に、わずかに目を伏せた。


「信頼なさっているのですね」


「し始めている」


「それは以前も聞きました」


「では、少し進んだということにしておこう」


 アランは軽く笑った。


 だが、その笑みの奥には、これまでとは違う柔らかさがあった。


 同じ日の午後、ランバール公爵邸の書庫では、ミリアが古い帳簿を開いていた。


 六年前。


 七年前。


 ローデン商会が今のように王都で存在感を増す前の記録だ。


 古い紙の匂いが漂う中、ミリアは一枚一枚、取引記録を確認していく。現在の帳簿と比べると、当時のローデン商会はむしろ経営難に近かった。支払い遅延、納品縮小、取引停止。いくつもの記録が、それを示している。


 それが、五年前を境に急に変わっていた。


 支払いが正常化し、取引先が増え、扱う品目が広がっている。


 何かがあった。


 ミリアは年ごとの記録を並べ、変化の時期に印をつけた。


 五年前の秋。


 その頃、ローデン商会に大口の資金が入っている。


 出資者名は伏せられている。だが、仲介した人物の名が記録の端に残っていた。


 エドガー・ノルム。


 王城財務局副書記官。


 ミリアの指が止まった。


 王城財務局。


 王国の予算、納入、支払い記録に関わる部署である。


 もし、その副書記官がローデン商会の資金流入に関わっていたなら。


 ローデン商会、ベルク納品組合、王城備品庫、資料保管棟。


 線がまた一本繋がる。


 ミリアはすぐに別の資料を開いた。


 エドガー・ノルム。


 名前を追う。


 五年前、地方財務官から王都へ異動。


 三年前、王城財務局副書記官へ昇進。


 現在は財務卿の下で、王城納入業者の契約書類を扱う立場にある。


 地位は高すぎない。


 だが、低くもない。


 目立たず、しかし重要な書類へ触れられる位置。


 黒蛇が王城内部に糸を伸ばすなら、非常に都合のよい場所だった。


 ミリアは深く息を吸った。


 今すぐ知らせるべきだ。


 だが、確証はまだない。


 過去の仲介記録だけでは、黒蛇との関係までは断定できない。エドガーがただ商会再建の仲介をしただけという可能性もある。


 しかし、名前を見つけた以上、黙っている理由はない。


 ミリアは羽ペンを取った。


 アランから渡された簡易暗号表を横に置く。


 初めて使う暗号文だった。


 慎重に、余計な情報を入れすぎないように、しかし必要な点は落とさないように書く。


『ローデン商会、五年前秋に資金流入あり。仲介者として王城財務局副書記官エドガー・ノルムの名を確認。現職は納入契約関連書類に接触可能な立場。要確認』


 書き終えた後、ミリアは封をした。


 侍女を呼び、影狼の連絡員へ渡すよう指示する。


 そこでようやく、彼女は椅子にもたれた。


 疲れている。


 朝は訓練。


 昼は王城でアランと会い。


 午後は古い資料を読み続けた。


 身体も頭も重い。


 だが、不思議と心は沈んでいなかった。


 自分の見つけた線が、アランたちに届くかもしれない。


 王国を守る一助になるかもしれない。


 そう思うだけで、もう一度机に向かう力が湧いてくる。


 けれど、アランと約束した。


 無理をしない、と。


 ミリアは迷った末、帳簿を閉じた。


「今日は、ここまで」


 自分に言い聞かせるように呟く。


 そして、ふと思い出した。


 アランの左腕。


 包帯の下の傷。


 たいしたことはないと笑う彼の顔。


 ミリアは窓の外を見た。


 夕暮れの光の中で、白薔薇が静かに揺れている。


「守られるだけではなく、守れるようになりたい」


 その言葉は、以前よりも少しだけ重みを増していた。


 夜、王城の隠し会議室で、アランはミリアから届いた暗号文を読んだ。


 レム、リィナ、ゼイドがそばにいる。


 ガイルは別任務でローデン商会の倉庫を監視中だった。


 アランは紙片を机に置く。


「エドガー・ノルム」


 リィナがすぐに反応した。


「あー、その名前、見たことある。財務局の地味な人。いつも書類の山に埋もれてる感じの」


「地味な人間ほど、書類の中では強い」


 アランが言うと、レムも頷いた。


「王城納入業者の契約書類に触れられるなら、ベルク納品組合を通すことも可能です」


「ローデン商会の過去資金流入にも関わっている」


 ゼイドが低く言った。


「内通者か」


「まだ断定はしない」


 アランは冷静に答えた。


「だが、調べる価値は十分にある」


 リィナが暗号文を覗き込み、にやりと笑った。


「白薔薇様、初暗号なのに上手いじゃん。必要なことだけ書いてる。誰かさんの報告書より読みやすい」


「誰かさんとは?」


 レムが静かに尋ねる。


「え、いや、一般論」


「後であなたの報告書も確認します」


「墓穴掘った」


 アランは少しだけ笑った。


 だが、すぐに表情を戻す。


「エドガー・ノルムを監視する。表からは触れるな。財務局に不用意に手を入れれば、敵が逃げる」


「影からですね」


 レムが言う。


「そうだ。ゼイド、彼の帰宅経路、接触者、書類の持ち出しを確認。リィナは財務局内の噂を拾って。過去五年の昇進経路、後ろ盾、借金、家族関係も必要だ」


「了解」


「レムは兄上に近づく書類の確認を。財務局経由のものは特に」


「承知しました」


 アランはもう一度、ミリアの暗号文を見た。


 彼女は約束を守った。


 危険な情報を一人で抱え込まず、すぐに伝えた。


 無理をしすぎるなと言ったことも、おそらく守ろうとしているのだろう。文章は簡潔で、焦りもない。感情ではなく、情報として整理されている。


 強い人だ。


 アランは改めて思った。


 剣を取った白薔薇。


 羽ペンで影の地図を読む令嬢。


 彼女は確かに、彼の隣とは言わずとも、同じ闇を見始めている。


 そのことが頼もしくもあり、怖くもあった。


「アラン様」


 レムが静かに声をかける。


「何?」


「ミリア様への返答は」


 アランは少し考え、短い紙を取った。


 そして、自ら筆を走らせた。


『情報を受け取った。非常に有用。エドガー・ノルムを監視対象とする。君は今日は休むこと。これは命令ではなく、約束の確認』


 書き終えた文面を見て、リィナが肩越しに覗き込んだ。


「殿下、心配性が文章に出てる」


「うるさい」


「でもいいんじゃない? 白薔薇様、こういう方がちゃんと休みそう」


 アランは返事をしなかった。


 ただ、封をしてレムへ渡す。


「届けて」


「はい」


 レムは封書を受け取ると、静かに一礼した。


 その夜、ミリアのもとに届いた返答を読んだ時、彼女は少しだけ笑った。


 命令ではなく、約束の確認。


 いかにもアランらしい、不器用な気遣いだった。


 ミリアは封書を丁寧に畳み、机の引き出しへしまう。


 そして、その日は本当に帳簿を閉じた。


 剣を学ぶためにも、資料を読むためにも、立ち続けるためにも、休むことが必要なのだと自分に言い聞かせて。


 窓の外では、王都の夜が静かに広がっている。


 その闇のどこかで、影狼が動いている。


 そして黒蛇もまた、次の一手を選んでいる。


 白薔薇は眠る。


 だが、その根は確かに、王国の影へ伸び始めていた。

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