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10話 王城に潜む蛇



 王城へ戻るアラン・ヴァルタインの足取りは、静かだった。


 ランバール公爵邸を出た時、すでに夕暮れは深まり始めていた。王都の屋根の上を茜色の光が滑り、遠くの城壁が黒い線となって浮かんでいる。街には一日の終わりを告げる鐘が響き、商人たちは店仕舞いを始め、兵士たちは夜警の準備に入っていた。


 その穏やかな日常の上を、黒蛇の影が這っている。


 王城使用人棟。


 ベルク納品組合。


 魔道具の部品。


 そして、王太子執務室付近の備品庫。


 それらの言葉が、アランの頭の中で鋭く並んでいた。


 ルイに危険が迫っている。


 それだけで、アランの中にある温度は変わる。


 馬車の中で、彼は窓の外を眺めていた。表情はいつものように気だるげで、外から見れば夜会帰りの王子が物憂げに街を眺めているだけに見えただろう。だが、その青い瞳は冷えていた。


 隣にはレムが座っている。


 彼女は黙っていた。こういう時、主に余計な言葉をかける必要がないことを知っている。アランが考えている時に必要なのは、慰めでも励ましでもない。正確な情報と、命令を即座に実行できる者だけだ。


 やがて、アランが口を開いた。


「王太子執務室の予定は」


「本日夜は通常通り、ルイ殿下が二刻ほど執務を続けられる予定です。その後、側近文官二名と明日の評議について確認。就寝は深夜前後かと」


「備品庫の位置は」


「執務室北側の廊下を挟んだ小部屋です。筆記具、封蝋、羊皮紙、清掃用品、灯油などが保管されています」


「灯油か」


 アランの指が膝の上で一度だけ動いた。


 火。


 毒。


 盗聴。


 爆発。


 可能性はいくつもある。


 魔道具の部品が何に使われるかによって、狙いは変わる。ルイの暗殺か、執務室の情報抜き取りか、王城内の混乱か。あるいは、そのすべてを兼ねたものか。


「ゼイドから続報は」


「ベルク納品組合の荷に紛れていた部品は、魔力増幅用の小型結晶片と、遠隔起動用の刻印板の一部です。単体では危険性は低いですが、組み合わせ次第で爆発、発火、盗聴のいずれにも転用可能とのことです」


「器用な部品だね。嫌になる」


「リィナも同じ見解です。特に王城内で使うなら、灯油や封蝋に仕込む可能性があると」


 アランは目を閉じた。


 黒蛇が本気でルイを狙うなら、単純な暗殺では来ない。


 王太子の命を奪うだけなら、敵はもっと直接的な手を打つだろう。しかし、王城内の協力者を使って魔道具を仕込むとなれば、狙いはもう少し複雑だ。


 ルイを傷つける。


 王城の警備能力を疑わせる。


 王家内部に不信を広げる。


 そして、アランと影狼の動きを探る。


「陽動の可能性が高い」


 アランが言った。


 レムは静かに頷く。


「ルイ殿下を狙うように見せかけ、殿下を動かすためですか」


「ヴァルグならやる」


 灰色の瞳を思い出す。


 あの男は、ただ刃を振るうだけの敵ではない。こちらが何を守り、何に反応するかを見ている。ミリアを使ってアランの出方を測り、今度はルイを餌にして影狼の深部を探ろうとしている可能性がある。


 だが、分かっていても動かないわけにはいかない。


 ルイを危険に晒す選択肢だけは、アランにはない。


「王城に着いたら、僕はいつもの顔に戻る」


「駄王子として、ですか」


「そう。兄上の執務室へ菓子でも持っていく」


「この状況で菓子ですか」


「この状況だからこそだよ。僕が真面目な顔で兄上の部屋へ向かえば、見ている者は異変を察する」


「では、私は」


「使用人棟へ。ベルクの荷を確認して。すでに持ち込まれたもの、未開封のもの、処分済みのもの、全部洗う。ゼイドと合流して」


「承知しました」


「リィナには王城内の噂を拾わせる。今日、備品庫に出入りした者の名も必要だ」


「ガイルは」


「待機。城内で暴れられると困る」


「本人は不満でしょう」


「あとで倉庫を壊していい任務を用意する」


「そのような任務はありません」


「作るしかないね」


 レムはわずかに目を細めたが、それ以上は言わなかった。


 馬車が王城の門をくぐる。


 夜の王城は、昼よりもずっと静かだった。白亜の壁は月明かりを受け、長い廊下には等間隔に灯りがともっている。騎士たちは定められた位置に立ち、使用人たちは足音を抑えて動く。すべてが整っている。表向きには。


 だが、アランにはその静けさが薄い膜のように見えていた。


 膜の下で、何かが動いている。


 馬車を降りると、アランはいつものように少し気の抜けた笑みを浮かべた。


「さて、兄上に差し入れでもしてこようかな。働き者の兄を持つと、弟は心配が絶えないね」


 門番の騎士が苦笑を堪えながら一礼する。


 彼らにとって、アランは気まぐれに王城内を歩き回る第二王子でしかない。ルイ王太子を慕っていることは知られているが、政務に関わるわけでもなく、時折菓子や酒を持って兄の邪魔をしに行く困った弟。そう見られている。


 それでいい。


 アランは廊下を進んだ。


 その後ろで、レムの姿は静かに消えていた。


 王太子執務室では、ルイが報告書に目を通していた。


 机の上には書類が積まれている。北部街道の補修計画、南部穀倉地帯の収穫報告、東境の警備増強案、財務卿からの予算調整案。どれも国にとって重要なものだ。国王アルバートが病に伏している今、これらの判断の多くはルイに委ねられている。


 扉が叩かれた。


「入れ」


 ルイが許可すると、扉が開いた。


「兄上、働きすぎです。甘いものは脳に必要ですよ」


 予想通りの声に、ルイは顔を上げた。


 アランが立っていた。


 片手には小さな菓子箱。気の抜けた笑み。王族らしい服を着ているが、どこか着崩している。その姿だけ見れば、いつもの弟だ。


 だが、ルイは一瞬で察した。


 何かあった。


 それでも表情は変えない。


「また菓子か。お前は私の執務室を茶会の場だと思っているのか」


「兄弟交流の場だと思っています」


「交流のためなら、もう少し静かな時間を選べ」


「兄上が静かな時間を作らないからですよ」


 文官たちが小さく笑う。


 ルイはため息をつき、文官たちへ指示を出した。


「少し休憩にする。お前たちは隣室で待機してくれ」


「はっ」


 文官たちが退出する。


 扉が閉まった瞬間、室内の空気が変わった。


 アランは菓子箱を机に置き、低い声で言った。


「ベルク納品組合の荷から魔道具の部品が見つかりました。納品先の一つが、この執務室付近の備品庫です」


 ルイの表情が引き締まる。


「狙いは私か」


「そう見せている可能性があります」


「見せている?」


「ヴァルグは、こちらの反応を見ています。兄上の周辺を狙えば、僕が動くと分かっている」


「実際、動いたな」


「動かない選択肢はありません」


 アランは即答した。


 ルイは弟を見た。


 その返答に迷いはない。アランにとって、ルイを守ることは思考以前の誓いなのだろう。そのことをありがたく思うと同時に、ルイは重くも感じていた。


「備品庫は調べたのか」


「今、レムとゼイドが向かっています。リィナも城内の情報を拾っています」


「私はどうすればいい」


「しばらく普段通りに。執務室から不用意に動かないでください。飲食物、筆記具、灯り、封書には触れる前に確認を」


「分かった」


 ルイは素直に頷いた。


 アランは一瞬だけ驚いたように見た。


「珍しいですね。兄上が素直に従うなんて」


「私はお前と違って、必要な時には人の助言を聞く」


「耳が痛い」


「痛めておけ」


 ルイは机の上の書類を閉じた。


「ミリア嬢の情報か」


「はい。ローデン商会からベルク納品組合への繋がりを、彼女が公爵家資料から拾いました」


「早いな」


「正直、驚いています」


「彼女を協力者として扱う判断は間違っていなかったようだな」


「入口だけです」


「お前は本当に心配性だ」


「兄上にだけは言われたくありません」


 短いやり取りの後、二人は同時に黙った。


 扉の外では、王城の夜が静かに動いている。


 その静けさの中で、アランの視線が部屋の隅へ向いた。灯り。封蝋。書類棚。窓。床の絨毯。どこに仕掛けられていてもおかしくない。


 ルイは弟の視線を追いながら言った。


「お前がその顔をする時は、敵が近い時だな」


「そんなに分かりやすいですか」


「私にはな」


 アランは小さく笑った。


「他の人には分からないようにしているんですけどね」


「私がお前の兄でよかったな」


「ええ。本当に」


 その返事には、冗談がなかった。


 ルイはそれ以上何も言わなかった。


 王城使用人棟は、王族の居住区や政務区とは空気が違う。


 華やかな装飾はなく、廊下は狭く実用的で、壁には清掃道具や運搬用の棚が置かれている。昼間は多くの使用人が行き交う場所だが、夜は人の流れが限られ、決められた者だけが動いている。


 その廊下を、レムは静かに歩いていた。


 侍女服に戻っている。


 だが、その腰には細剣が隠されている。歩き方は完全に使用人のものだ。誰かとすれ違えば丁寧に会釈し、必要ならば自然な声で挨拶する。だが、赤い瞳は一瞬たりとも周囲への警戒を解いていない。


 少し離れた天井裏には、ゼイドがいる。


 その存在に気づける者は、王城内でもほとんどいないだろう。


 備品庫の前に着くと、レムは鍵束を取り出した。


 正規の鍵ではない。


 影狼が作った複製だ。


 扉を開ける。


 中は狭い部屋だった。棚には羊皮紙、封蝋、インク、予備の燭台、清掃用の布、灯油の小瓶、香油、保存紙などが整然と並んでいる。一見すると、何の変哲もない備品庫だ。


 だが、レムは部屋に入った瞬間、違和感を覚えた。


 香りが違う。


 使用人棟の備品庫に漂うはずの油と紙と埃の匂い。その中に、ごく微かな甘い香りが混ざっている。


 香油。


 ローデン商会。


 レムは棚の一角へ近づいた。


 小さな瓶が並んでいる。王太子執務室で使う香油ではない。来客時に部屋の空気を整えるため、燭台に少量垂らすものだ。


 その一本を手に取る。


 瓶の底に、わずかな刻印があった。


 蛇ではない。


 だが、魔力の流れを整えるための微細な刻印だ。


「ゼイド」


 レムが低く呼ぶ。


 天井裏から音もなく影が降りた。


「これを」


 ゼイドは瓶を受け取り、目を細めた。


「魔道具だな」


「おそらく、香りに混ぜて発動するタイプです」


「毒か」


「いえ。毒ならもっと単純で済みます。これは……」


 レムが言いかけた時、廊下の向こうで足音がした。


 普通の使用人の足音ではない。


 迷いがない。


 目的を持ってこちらへ向かっている。


 レムとゼイドは同時に動いた。


 レムは瓶を懐に収め、棚を元に戻す。ゼイドは天井の梁へ戻る。扉は少しだけ開けたまま、あたかも備品整理中であるかのように見せた。


 数秒後、一人の男が現れた。


 使用人の制服を着ている。年齢は四十前後。王城の灯火管理を担当する下級使用人の一人だ。名は、たしかマウロ。長く王城に勤めている者で、目立つ人物ではない。


 男はレムを見ると、驚いたように立ち止まった。


「レム様。こちらにおいででしたか」


「ええ。アラン殿下より、王太子殿下の執務室へ香油を届けるよう命じられました。備品を確認しております」


「それでしたら、私が」


「お気遣いなく。殿下から直接の指示ですので」


 レムの声は丁寧だった。


 だが、男の額にごく薄く汗が浮かんだ。


 レムはそれを見逃さない。


「何か問題が?」


「いえ、ただ、その香油は本日入ったばかりでして。まだ確認が」


「確認なら、今しております」


「しかし」


 男が一歩踏み込む。


 その瞬間、天井からゼイドが降りた。


 男の背後へ。


 声を上げる間もなく、男の首元に刃が添えられる。


 レムの赤い瞳が冷えた。


「誰の命令ですか」


 男の顔が青ざめる。


「わ、私は何も」


「その返答は不要です。誰の命令ですか」


 男は口を閉ざした。


 その目が一瞬だけ廊下の奥へ動く。


 レムはすぐに気づいた。


 まだ誰かいる。


「ゼイド」


「分かっている」


 ゼイドは男を床へ押さえつけ、同時に廊下の奥へ視線を走らせた。


 影が動いた。


 逃げる者がいる。


 ゼイドは追った。


 使用人棟の廊下を、黒い影が駆ける。


 逃げた者は使用人服を着た若い女だった。手には小さな革袋。足は速い。事前に逃走経路を決めていたのだろう。廊下を曲がり、階段を下り、厨房裏へ抜ける動きに迷いがない。


 だが、王城の裏道を知っているのは彼女だけではなかった。


 ゼイドは音もなく距離を詰める。


 女が厨房裏の扉へ手を伸ばした瞬間、扉の向こうから小柄な少女が顔を出した。


「はい、残念」


 リィナだった。


 女が動揺する。


 その隙に、ゼイドが背後から腕を取った。革袋が床へ落ちる。中から、小さな刻印板が数枚こぼれた。


 リィナがそれを拾い、顔をしかめる。


「うわ、遠隔起動用だ。結構本気じゃん」


 女は唇を噛みしめた。


「誰に渡すつもりだったの?」


 リィナが尋ねる。


 女は答えない。


 リィナは軽く肩をすくめた。


「まあ、いいよ。答えなくても、持ってるものが喋ってくれるから」


 その頃、王太子執務室では、アランがルイの机の上に置かれた封蝋を見ていた。


 封蝋そのものに異常はない。


 インクも問題ない。


 羊皮紙にも毒はない。


 だが、灯りの香油に仕込まれていたなら、話は別だ。


 香油を燭台に垂らし、火を灯す。


 熱で刻印が反応し、微量の魔力が部屋に広がる。


 それが盗聴用なら、会話が抜かれる。


 発火用なら、書類や油に燃え移る。


 精神干渉用なら、部屋にいる者の判断を鈍らせる。


 いずれにせよ、王太子執務室には十分すぎる脅威だった。


 扉が静かに叩かれた。


 入ってきたのはレムだった。


 彼女は何事もなかったかのように一礼し、小瓶を机の上に置く。


「香油から魔道具の刻印を確認しました。灯火管理の使用人マウロを拘束。逃走を図った女使用人から遠隔起動用刻印板を回収。ゼイドとリィナが押さえています」


 ルイの表情が険しくなる。


「王城使用人にまで入り込まれていたか」


「まだ黒蛇の構成員か、脅されていたかは不明です」


 アランは小瓶を見た。


「起動前でよかった」


「はい」


「リィナに解析させて。目的が盗聴か、発火か、精神干渉か確認する」


「承知しました」


 ルイは静かに言った。


「王城内の使用人全体を調べる必要があるな」


「大規模にやると、黒蛇に気づかれます」


 アランはすぐに返した。


「まずはベルク納品組合と関わった者だけを絞ります。表向きは物資管理の監査として動かすのがいい」


「なら、私の名で監査命令を出す」


「助かります」


「お前だけに背負わせるつもりはない」


 ルイの声には、王太子としての重みがあった。


 アランは一瞬だけ兄を見た。


 そして、静かに頷いた。


「では、兄上には表からお願いします。僕は裏から根を追います」


「分かった」


 その時、アランの視線が小瓶から離れた。


 脅威は防いだ。


 だが、まだ違和感が残っている。


 あまりにも分かりやすい。


 王太子執務室付近の備品庫に仕掛ける。ベルク納品組合から部品が見つかる。使用人が不審な動きをする。確かに危険ではあった。だが、ヴァルグが関わっているにしては、少し線が太すぎる。


 まるで、こちらに見つけさせるための仕掛けだ。


「アラン」


 ルイが弟の表情に気づく。


「まだ何かあるな」


「ええ」


 アランは低く答えた。


「これは本命じゃないかもしれません」


 レムの表情も引き締まる。


「陽動、ですか」


「おそらく」


 その瞬間、王城の南側から遠い鐘の音が響いた。


 一度。


 二度。


 三度。


 通常の時刻を告げる鐘ではない。


 警戒を示す鐘。


 城内で異常が発生した合図だった。


 アランはすぐに窓へ向かった。


 南側。


 王城の資料保管棟の方角に、薄い煙が上がっている。


 ルイが立ち上がる。


「あそこは」


「古い税務記録と商会関連の保管庫です」


 アランの声が低くなる。


 ローデン商会。


 ベルク納品組合。


 王城の商会関連記録。


 やられた。


 いや、やられかけている。


 王太子執務室の香油は、こちらの目を引くための餌だった。本命は、ローデン商会や黒蛇に繋がる過去の記録を消すこと。


 アランの青い瞳に、冷たい怒りが宿る。


「レム」


「はい」


「資料保管棟へ。火を止める。記録を守る。侵入者は生け捕り優先」


「御意」


「兄上はここに」


「私も行く」


「駄目です」


 アランは即座に言った。


 ルイは弟を見る。


 アランの表情には一切の冗談がない。


「今、兄上が動けば、敵の狙いが変わります。王太子が火災現場へ出たとなれば、混乱が広がる。ここにいてください。表の指揮を執るのは兄上です」


 ルイは数秒黙った。


 そして頷いた。


「分かった。騎士団へ消火と封鎖を命じる。お前は」


「影から行きます」


「無茶をするな」


「善処します」


「アラン」


 ルイの声が強くなる。


 アランは小さく笑った。


「必ず戻ります」


 そう言って、彼は部屋を出た。


 廊下に出た瞬間、駄王子の顔は消えた。


 影狼の指揮官が、王城の闇を駆ける。


 資料保管棟には、すでに煙が広がり始めていた。


 古い書類と木棚は火に弱い。火元は小さいが、広がれば取り返しがつかない。騎士団と使用人たちが水桶を運び、混乱の中で消火に当たっている。


 だが、アランが見ているのは火ではなかった。


 人の動きだ。


 混乱の中で、逆に落ち着きすぎている者がいる。


 火元から離れるのではなく、保管庫の奥へ向かう者。


 消火に加わらず、特定の棚の位置を確認している者。


 いた。


 黒い外套を着た男が、煙の中で書類の束を手にしている。


 アランは走った。


 男が気づき、短剣を抜く。


 遅い。


 アランの細剣が鞘から抜け、短剣を弾いた。男が後退するより早く、アランは踏み込み、柄で腹部を打つ。男が崩れる。書類の束が床へ落ちた。


 アランはそれを拾い上げる。


 ローデン商会に関する過去の納税記録。


 やはり本命はこれか。


 その時、背後の煙の向こうで拍手の音がした。


 ゆっくりと。


 静かに。


 アランは振り返る。


 煙の中から、長い黒髪の男が現れた。


 灰色の瞳。


 ヴァルグ。


「見事だな、影の王子」


 アランは剣を構えた。


「火遊びは感心しないね」


「安心しろ。王城を焼くつもりはない。今夜は挨拶だ」


「ずいぶん迷惑な挨拶だ」


「お前を呼ぶには、これくらいがちょうどいい」


 ヴァルグは薄く笑った。


 煙が二人の間を流れる。


 外では騎士たちの声が響き、火を消そうとする水音が聞こえる。だが、この奥まった保管室だけは、奇妙なほど静かだった。


 アランは低く言った。


「ローデン商会の記録を消したかったのか」


「消したいものはいくつかある。だが、本当に消すだけなら、もっと確実にやる」


「なら、目的は僕か」


「半分は」


 ヴァルグの剣が抜かれる。


 細身の長剣。


 礼拝堂で見たものと同じ刃。


「もう半分は、王城にどれほど蛇が入り込んでいるかを、お前に教えることだ」


「親切だね」


「恐怖は、相手が賢いほどよく効く」


 アランの瞳が冷える。


 ヴァルグは続けた。


「王城の使用人。商会。納品組合。貴族家の噂。お前たちが一本ずつ糸を辿っている間にも、蛇は別の場所へ這う」


「随分と自信がある」


「事実だ」


 ヴァルグが一歩踏み込む。


「お前は強い。だが、守るものが多すぎる」


 その言葉と同時に、剣が走った。


 アランは受けた。


 鋼の音が、煙の中で響く。


 一撃。


 二撃。


 三撃。


 礼拝堂の時よりも、ヴァルグの剣は鋭かった。狭い保管室の中、燃えかけた棚、床に散らばる書類、煙で狭まる視界。そのすべてを利用してくる。


 アランは剣を流しながら、足元の書類を踏まないよう位置を変えた。


 その一瞬を、ヴァルグは見逃さない。


「記録も守るか」


 低い声。


 刃が横から来る。


 アランは受け流し、逆に踏み込んだ。細剣の先がヴァルグの外套を裂く。だが、肉には届かない。


 ヴァルグは後退し、笑った。


「王太子、白薔薇、王城、記録、民、影狼。お前は全部守るつもりか」


「守れるだけ守るさ」


「それは傲慢だ」


「そうかもね」


 アランは静かに答えた。


「でも、最初から捨てるものを決めるよりはましだ」


 ヴァルグの灰色の瞳が細くなる。


 その瞬間、保管室の奥で炎が大きく揺れた。


 隠していた火種。


 アランが気づく。


 ヴァルグは、その一瞬の視線の動きを見た。


 剣が来る。


 アランは避けきれなかった。


 左腕に浅い傷が走る。


 血が滲む。


 だが、アランは止まらない。傷を無視し、燃え広がろうとする棚へ向けて短い魔道具を投げた。小さな青い光が弾け、炎が一瞬だけ弱まる。


「レム!」


 叫ぶ。


 すぐに外からレムが飛び込んできた。


「奥の棚を守れ!」


「はい!」


 レムが炎の前へ走る。


 ヴァルグはそれを見て、満足したように笑った。


「今夜はここまでだ」


「逃がすと思う?」


「逃げるのではない。次の盤面へ移るだけだ」


 黒い煙が広がる。


 アランは踏み込んだ。


 だが、ヴァルグの姿は煙の奥へ消える。


 追うことはできた。


 だが、その先にはまだ火がある。記録がある。王城の混乱がある。


 アランは歯を食いしばった。


「本当に嫌な相手だ」


 吐き捨てるように言い、彼は剣を収めた。


 火は完全には広がらなかった。


 レムと駆けつけた影狼、そして表の騎士団が連携し、資料保管棟の被害は一部に留まった。焼けた記録もあったが、ローデン商会に関する重要な帳簿は守られた。


 しかし、王城内に黒蛇の手が入り込んでいる事実は、もはや疑いようがなかった。


 深夜。


 ランバール公爵邸の書斎に、影狼の連絡員が一通の封書を届けた。


 ミリアは眠らずに資料を見ていた。


 封を開ける。


 中には、アランの短い筆跡があった。


『ベルクの糸は本物だった。王城資料保管棟で火災。重要記録は一部保護。ローデン商会の過去記録を確認する必要あり。君の情報が間に合った。助かった』


 最後の一文を見て、ミリアの指が止まった。


 助かった。


 その言葉が、静かに胸へ落ちる。


 自分の羽ペンは、確かに届いた。


 アランたちの戦う場所へ。


 王国の影へ。


 ミリアは封書を胸元に引き寄せるように持ち、しばらく目を閉じた。


 怖さはある。


 王城で火災が起きた。黒蛇はそこまで入り込んでいる。アランも危険な場にいたはずだ。そう考えると、胸が苦しくなる。


 だが、同時に思った。


 もっと強くならなければ。


 剣も。


 知識も。


 判断も。


 守られるだけではなく、共に支えられるように。


 ミリアは机に戻り、ローデン商会の資料を開いた。


 夜はまだ深い。


 けれど、彼女の青い瞳には、もう迷いはなかった。


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