タイトル未定2026/05/27 22:10
SGスプリント、最終日。優勝戦の朝。
あかりが測定器を光の右手に当てた。
ゼロ。
光は数字を見た。何も言わなかった。今日の優勝戦に、この数字で臨む。それだけだ。
ピット裏へ向かおうとした時、あかりが立ち止まった。
「光くん」
振り返った。
あかりの視線の先に、一人の男が立っていた。
速水誠だった。
光は一秒だけ動かなかった。平和島の乾いた風が、三人の間を抜けた。
「……来たんですか」
「ああ」誠は言った。「話す、と言った」
ピット裏の隅、人気のない場所へ移動した。朝の光が、コンクリートの壁に斜めに差し込んでいた。
あかりが誠の隣に立った。自然な動作だった。ずっとそこにいた人間の立ち方だった。
「……誠師匠」
あかりが静かに言った。
光はその呼び方を初めて聞いた。「師匠」という言葉が、あかりの口から出た。それだけで、二人の間にある時間の長さが伝わってきた。
誠が口を開いた。
「お前の母親——あおいは、生きている」
光は何も言えなかった。
「俺が離れたのは、あおいを守るためだった。地と空の両方を持とうとした俺のそばにいると、あおいが危険だった。マブイの暴走は、近くにいる人間を焼く。俺はそれが分かった上で、それでも止まれなかった」
誠は平和島の水面を見た。
「瓜生俊樹から聞いたか。地と空の両方を持つことを恐れて逃げた、と」
「ああ」
「半分は正しい。半分は違う」誠は言った。「俺が恐れたのは自分の限界じゃない。お前が同じ道を辿ったとき、同じ場所で止まることだった。だから距離を置いた」
光は誠を見た。
「あかりさんを送り込んだのか」
「違う」
あかりが口を開いた。
「私が、自分で決めたんっすよ」
それだけ言った。理由は言わなかった。
沈黙があった。平和島の風が、また方向を変えた。
「誠師匠のマブイは千だった」光は言った。「俺は今、ゼロだ」
「知っている」誠は言った。「お前の地脈が徳山から届いた。その感触で分かった」
「ゼロのまま、今日走る」
「ああ」誠は頷いた。「それでいい」
光は誠を見た。二十二年間、問い続けてきた男が、今朝ここにいる。父への問いが来た——しかし今朝は、問いの形が変わっていた。「なぜ逃げたのか」でも「なぜ今なのか」でもない。
ただ、今日走る。それだけだ。
「誠師匠」光は言った。「客席から見ていてください」
誠は何も言わなかった。ただ、一度だけ頷いた。
あかりが光の隣に来た。スパナを握っていた。手の平に、跡が残っていた。
「行くっすよ、光くん」
「ああ」
ネが低く一声鳴いた。平和島の朝が、静かに明けていた。




