タイトル未定2026/05/27 22:12
SGスプリント、最終日。優勝戦。
出走表。
一号艇・西野和正(真空)
二号艇・速水光(物理)
三号艇・勝元麻帆(溶岩)
光はカポックを締めながら、客席を一度だけ見た。誠がいる場所は分からない。ただ、いる。それだけで十分だった。
「光くん」あかりが来た。「一号機、最高の状態っすよ」
「ありがとう、あかりさん」
あかりは何も言わなかった。スパナを握ったまま、光の背中を見ていた。
「ピットアウト!」
ファンファーレが響いた。
コース争い。光は二コースをキープした。和正が一コース、麻帆が三コースへ。
スタートラインへ向けて、朱雀のプロペラがキリキリと水を噛む。
光は右指をレバーに当てた。足の裏を、平和島の水面に預けた。
父が客席にいる。あかりがピットにいる。マブイはゼロだ。
それでいい。
スタート——ゼロ。コンマ〇三。和正と同時だった。
一マーク。和正の真空が発動した。平和島の乱流を吸い込み、推進力に変える。麻帆の溶岩が水面を焼いた。
光は風が来る前に動いた。
右指と足の裏が同時に動いた。静止点を待たなかった。探さなかった。ただ、風より先に——朱雀の機首を刺した。
滑らかに回り切った。
しかし和正は速かった。真空が平和島の乱流を完全に制御していた。一マークを出た瞬間、すでに半艇身先にいた。
バックストレッチ。
光は右指と足の裏を、同時に使い続けた。〇・八秒、一・二秒、二・七秒——積み上げてきた静止点が、今日は途切れなかった。物理の速さが朱雀を前へ押す。
それでも、和正との差は縮まらなかった。
真空という属性が、平和島という水面と完全に噛み合っていた。ビル風の乱流を推進力に変える——それは「空を掴む」ことの、和正なりの答えだった。
二周目。麻帆が後ろから来た。溶岩の熱圧が朱雀の後流を焼こうとした。光は揺りかごの形を作った。麻帆の圧力を根にした。前へ変換した。麻帆を抑えた。
三周目。最終コーナー。
和正との差は、半艇身のままだった。
光はレバーを最後まで握り続けた。諦めなかった。しかし届かなかった。
「一号艇・西野和正、ゴールイン! 優勝!! 二号艇・速水光、二着!! 三号艇・勝元麻帆、三着!!」
エンジンを切った。
水面の音だけが聞こえた。平和島の風が、朱雀のカウルを静かに撫でた。
二着だった。
マブイゼロで、SGの優勝戦を二着で走り切った。それだけだ。
ピットに戻った。あかりが来た。涙は出ていなかった。ただ、真っ直ぐに光を見ていた。
「……走り切ったっすよ、光くん」
「ああ」
「静止点、最後まで途切れなかったっすよ」
「和正の方が、上だった」
「今日はね」あかりは言った。「今日は」
麻帆がピットに来た。
「三着ね」麻帆は言った。「でも——」
麻帆は光の右手を見た。
「下関で『まだだ』と言った。大村で『もっと深くに来なさい』と言った。鳴門で『届いた気がした』と言った。今日——」
麻帆は少し間を置いた。
「あなたは、ちゃんと空に触れた」
光は麻帆の言葉を受けた。
和正が来た。無言で光の前に立った。しばらくして、口を開いた。
「お前の静止点——最後まで途切れなかった。マブイがない人間が、あの精度で二着に来るとは思わなかった」
「お前の真空が、上だった」
「今日はな」和正は前を向いた。「次は俺が負けるかもしれない。楽しみにしている」
和正が去った。
光は客席を見た。誠がどこにいるか、分からない。しかし、届いたはずだ——徳山で「地脈がここまで届いた」と言った男だから。
父への問いが来た——今日の二着を、父はどう見たのか。マブイゼロで走り切った息子の水面を、誠は何を感じながら見ていたのか。
答えは、まだ出ない。
しかし今夜、父がどこかにいる。
「ネ、終わったぞ」
ネが低く一声鳴いた。平和島の風が、ビル群の隙間を静かに抜けていた。




