「初陣——地と炎と風と、平和島の洗礼」
スプリント前検日の夜。整備室から出てきた光に、あかりが声をかけた。
「光くんにはまだ話してなかったっすね。私は光くんの父——速水誠のメカニックだったんすよ」
「そうか」光は言った。「通りで、整備が」
それだけだった。
二〇五四年九月十日。SGスプリント初日。
平和島の朝は風が強かった。ビル群の隙間から吹き込む乱流が、水面を不規則に叩いていた。
第三レース出走表。
二号艇・速水光(徳島・物理)
三号艇・勝元麻帆(岡山・溶岩)
四号艇・大峯大輝(佐賀・感涙)
五号艇・丸山優奈(東京・風)
光は出走表を見た。麻帆。下関から続く因縁だ。「もっと深くに来なさい」という言葉がまだ骨の中にある。優奈。下関で引きずり下ろした女が、地元水面で待っている。
「光くん、第三回路の状態を確認するっすよ」
「いらない」
光はスパナを握った。第三回路を取り外した。マブイがない今、開いても意味がない。
あかりは何も言わなかった。データを開いた。
ピット離れの直前、麻帆が光の隣に立った。
「久しぶりの同じ水面ね」
「大村以来か」
「大村で私は二着だった」
麻帆は水面を見た。
「あなたに道を開けた。覚えてる?」
「覚えてる」
「今日は開けない」
麻帆の声が静かに変わった。
「ここは私の溶岩が最も深く届く水面よ。平和島の底は、鳴門より熱い」
光は麻帆の目を見た。下関から大村から鳴門から——この女はずっと、光の地を試し続けてきた。「もっと深くに来なさい」という言葉の答えを、今日出す。
「ピットアウト!」
ファンファーレが響いた。六艇が平和島の水面へ出た。
コース争い。光は二コースを確保した。麻帆が三コース、大輝が四コース、優奈が五コースへ。
スタートラインへ向かう進入で、すでに平和島の洗礼が来た。ビル風が横から朱雀を押した。右指が物理入力で補正した。
スタート——ゼロ。コンマ〇四。
一マーク。光は揺りかごの形で入った。しかしビル風が方向を変えた。朱雀の機首が、コンマ数度だけ外へ流された。
その隙間を、麻帆が差してきた。
「速水光。あなたの地脈、まだ平和島の風に慣れていないわ」
麻帆の溶岩が水面を焼いた。光の旋回軸が熱で僅かに緩んだ。麻帆が前に出た。
二番手で一マークを抜けた。
最終コーナー。光は揺りかごの形を作った。麻帆の溶岩の圧力を受け止めた。前へ変換した。
コンマ数ミリ——届かなかった。
「二号艇・勝元麻帆、一着!! 三号艇・速水光、二着!!」
ピットに戻った。エンジンを切った。しばらく動かなかった。
「風のパターンを読む」光は平和島の水面を見た。ビル風が、また方向を変えた。
「それが『空を掴む』ということか」
あかりは答えなかった。データを見ていた。
麻帆がピットに戻ってきた。光の隣に艇を寄せた。
「二着ね」麻帆は言った。「でも、あのバックストレッチ後半——あなたの地脈が初めて平和島の底に触れた」
「一瞬だけだ」
「それで十分よ」
麻帆は真っ直ぐに光を見た。
「下関で『まだだ』と言った。大村で『もっと深くに来なさい』と言った。今日初めて——少しだけ、届いた気がした」
光は麻帆の言葉を受けた。下関からここまで、この女はずっと光の深さを測り続けていた。
「次は、もっと深く行く」
「待っているわ」
優奈が来た。灰色の瞳で光を見た。
「あのバックストレッチの静止点——私の風が作ったのよ。気づいてた?」
「お前が作った?」
「ビル風の乱流を、私の《風》で少しだけ整えた。あなたが地脈を繋げられるように」
優奈の目に、何かが宿っていた。
「下関で引きずり下ろされてから、ずっと考えていた。あなたの地と私の風が同じ方向を向いたとき、何が起きるかを」
光はしばらく優奈を見ていた。
「……ありがとう」
「次は自分で静止点を作りなさい」
優奈は前を向いた。
「私の風に頼らずに」
父への問いが来た——風を読んで、静止点を探して、そこに根を張る。地と空の両方を持つとは、そういうことなのか。
「ネ、明日も行くぞ」
ネが低く一声鳴いた。平和島の夜風が、ビル群の隙間を抜けて水面を渡っていた。




