「前検日——平和島に、時代が集まった」
二〇五四年九月九日。東京都・平和島競艇場。
京浜工業地帯の鉄骨とコンクリートに囲まれた水面に、九月の乾いた風が吹き抜けていた。鳴門の潮の匂いでも、徳山の瀬戸内の静けさでもない。排気とアスファルトと海水が混ざり合った、東京独自の匂いだ。
光はピットに入った瞬間、足の裏で感じた。
水面が、落ち着かない。
ビル風が複数の方向から水面を叩いている。波紋が干渉し合い、規則性がない。地脈の根を張ろうとしても、どこに張ればいいか分からない種類の「狂い」だ。
「……これが平和島か」
「鳴門の渦潮より、厄介かもしれないっすよ」
あかりが隣で端末を開いた。風向データが目まぐるしく変わっていた。
「あかりさん、今回は一人でやらせてくれないか」
「大丈夫っすか?」
「あかりさんは見ててくれ。SGで自分の整備力がどれだけ上がったか、試してみたい」
あかりは一秒だけ光を見た。
「……親父の専属メカニックとして、あかりさんの背中を無駄に見てきたと思うか」
あかりは何も言わなかった。ただ、端末を閉じた。
ピットに、順番に姿が現れ始めた。
最初に来たのは大峯大輝だった。アロハシャツを羽織り、すでに泣いていた。
「ひぃぃ、東京のビルが多すぎて迷子になったばい~! メカニックの佐伯に怒鳴られたばい~!」
「大輝さん。よく来た」
「光君!! こんなとこで会いたくなかったばい!!」
大輝の涙が一号機のカウルに落ちた瞬間、ジューウと微かに蒸発した。東京でも、感涙の属性は健在だった。
次に西野和正が来た。無言でピットに入り、機体の状態を確認し始めた。真空のマブイが周囲の空気を引いた。
光が単独で現れたことに、ピット全体がざわめいた。専属メカニックを連れずにSGに来る者など、前例がなかった。
「速水、メカニックを連れずにここまで来たか。やはりお前は狂っている」
和正が振り返らずに言った。
「平和島のビル風は、俺の真空と相性がいい。風の乱流を吸収して推進力に変える。お前の地脈では、この水面で根を張れない」
「なんとでも言え。もう地脈はない。お前たちをスパナ一本で倒す。それだけだ」
「楽しみにしている」
三宅迅が入ってきた。周囲の蛍光灯がバチバチと明滅した。
「速水! 徳山の結果は見た! 物理と地脈を同時に使うとは、随分と面白いことをしてくれたな! だが平和島の風は電気を増幅させる! ここは俺の庭だ!!」
勝元麻帆が静かに入ってきた。室温が一度上がった気がした。麻帆は光を見て、わずかに頷いた。
「久しぶりね、速水光。下関から随分と遠くまで来たわ」
「麻帆さんも」
「あなたの地脈がどこまで深くなったか——この水面で確かめさせてもらう」
瓜生俊治が来た。徳山での因縁がまだ空気に残っていた。光と目が合った。俊治は何も言わなかった。ただ、前を向いてピットへ入った。
最後に、白いボートが静かに入ってきた。
「光くん」
丸山優奈だった。灰色の瞳が、光を真っ直ぐに見ていた。
「平和島は私の庭よ。ここの風は全部、私が知っている」
「丸山さん。あなたの風を引きずり下ろしたのは、俺だ」
「下関で、ね」優奈は微かに笑った。「あれから随分と変わったわね。……でも、ここでは私が引きずり下ろす番よ」
モーター抽選が始まった。
大輝が泣きながら引いた。「三十二号機ばい! 出足は悪くなかばってん、このビル風じゃ心もとなかばい~!」
和正が引いた。「六十一号機。真空との相性は悪くない」
三宅が引いた。「十七号機! 直線の伸びが全機中トップクラスだ!!」
麻帆が引いた。「四十三号機。悪くないわ」
俊治が引いた。「二十八号機」それだけ言って、表情を変えなかった。
優奈が引いた。「七号機。いつもこれを引くの」
光の番が来た。右指の傷跡をガラポンに触れさせた。「二」の地脈が、微かに反応した気がした。
玉が転がり出た。
「速水光選手——エンジン番号、一号機!!」
会場が静まり返った。
一号機——平和島現行機で最高勝率。師匠の遺した鳴門の一号機とは別の機体だが、同じ番号だ。光は一号機のカウルに右指の傷跡を触れさせた。師匠の温かみとは違う。しかし平和島の水の底が、わずかに足の裏に届いた気がした。
「悪くない」
「光くん、平和島の一号機、風の中での安定性が全機中最高っすよ! 第三回路を開放すれば——」
「試運転で確かめる」
試運転水面。朱雀が平和島の水を初めて蹴った。ビル風が機体を揺さぶった。右指が物理入力を送った——同時に足の裏で水面を踏もうとした。
来なかった。
ビル風が地脈の根を分断した。鳴門でも徳山でも感じたことのない種類の「狂い」だ。どこに根を張ればいいか、分からない。
朱雀を岸に戻した。あかりがデータを見た。
「光くん、地脈の伝達が途切れ途切れになってるっすよ。ビル風が根を分断してるっすよ」
「分かってる」
光は平和島の水面を見た。風が、また方向を変えた。
父の言葉が来た——「空を掴みたければ、プロペラの第三回路を開放しろ」
「あかりさん。今夜、第三回路を開ける」
「……はいっすよ」あかりは深く頷いた。「準備は、ずっと前からできてるっすよ」
夕日が平和島の水面を染めた。ビル群の影が長く伸びていた。
父への問いが来た——「空を掴みたければ」という言葉を、父はどこで学んだのか。
答えはまだ出ない。ただ、今夜が終われば朱雀が変わる。
「ネ、今夜だ」
ネが低く一声鳴いた。平和島の夜が、静かに始まっていた。




