「平和島——プロペラの第三回路を、開放しろ」
徳山からの帰路。助手席のネが眠っていた。
父の声が、まだ骨の中に残っていた。
「地と空が、一瞬だけ重なったな」
「お前の地脈が、ここまで届いた」
「そろそろ、話す時が来たかもしれない」
電話が切れた後、光はしばらく画面を見ていた。父が「話す」と言った。二十二年間、一度も向き合わなかった男が。
父は地と空の両方を持つことを恐れて逃げた——俊治はそう言った。では父が「話す」内容は、その恐怖の話なのか。それとも別の何かなのか。
答えはまだ出ない。ただ、父が動いた。それは事実だ。
翌日、徳島のガレージ。
「光くん! 出たっすよ!! 選考委員会から正式な推薦状が届いたっすよ!!」
あかりが端末を抱えて飛び込んできた。目が潤んでいた。画面を突きつけてきた。
九月十日開幕。SG最速機兵決定戦——平和島競艇場。
「……来たか」
「来たっすよ!!」
ネが足元で一声鳴いた。光はその頭を一度だけ撫でた。
「平和島の水面データを見るっすよ、光くん」
あかりがホログラム端末を展開した。
「インの勝率が全国平均より遥かに低いっすよ。バックストレッチでの逆転が日常茶飯事っすよ。理由はこれっすよ」
画面に風向データが広がった。東京のビル群が作り出す乱流だ。方向が一定しない。突風が水面を叩き、機体のバランスを狂わせる。
「ビル風が地脈を乱す、ということか」
「正確には、地脈の伝達経路が風の乱流で分断されるっすよ。鳴門の渦潮とは別の種類の「狂い」っすよ。光くんの物理感覚は徳山で完成したっすよ。でも平和島では、その感覚ごと風に吹き飛ばされる可能性があるっすよ」
光は画面を見つめた。
風か——「地と空の両方を持つ」という意味が、少し形を変えた気がした。
「平和島か。最高じゃない」
ガレージの引き戸が開いた。杏奈が入ってきた。G1優勝を祝いに来た、という顔ではなかった。すでに平和島を見据えている目だった。
「あそこは直線のマブイ出力が一ミリでも劣った奴から沈む地獄よ。アタシの炎が鳴門で届かなかった理由、あんたが東京で証明してきなさいよ」
「杏奈のスプリントへの推薦は」
「今期は届かなかった」
杏奈は鼻を鳴らした。
「だから、あんたが行くのよ。うちの分まで」
それだけ言って、ガレージの端に腰を下ろした。
光は杏奈を見た。「届かなかった場所」という言葉の重さを、光は受け取った。
夜、ガレージに一人残った。スマートフォンが震えた。父からのテキストメッセージだった。
「平和島のビル風は、地脈を狂わせる。空を掴みたければ、プロペラの第三回路を開放しろ」
光は画面を見た。
第三回路——あかりに聞いたことがある。朱雀の一号機には、大二郎が設計段階で組み込んだ未開放の回路がある。通常の物理出力と地脈伝達の二回路に加えて、第三の経路だ。あかりは「光くんのマブイが一定値に達しないと、開いても意味がないっすよ」と言っていた。
今、マブイは「二」だ。父は、その「二」が第三回路を開くのに足りると判断した——ということか。
「あかりさん」光は電話をかけた。
「はいっすよ」すぐに出た。起きていた。
「平和島に入る前に、朱雀の最終換装をやる。第三回路を開放する」
一秒の沈黙があった。
「……了解っすよ」あかりは言った。「データは揃ってるっすよ。師匠がいつか使うと思って、ずっと準備してたっすよ」
「師匠が設計したのか、あの回路を」
「はいっすよ。『光くんのマブイが戻ったとき、風を掴む回路が必要になる』って言ってたっすよ。大二郎師匠は、全部知ってたっすよ」
第三回路の最終調整を終えた直後、右指の傷跡から感じていた温かみが——消えた。
マブイが、また尽きた。
光はその事実を静かに受け取った。面白い。第三回路を開いた代償か、それとも別の理由か——どちらでもいい。平和島がある。走れる。
「行くぞ、ネ。東京だ」
ネが低く一声鳴いた。徳島の夜空に、星が出ていた。




