「地脈の洞」
第二部:下関戴冠編
第9話「地脈の洞」
下関競艇場からトランスポーターで北上すること三十分。関門海峡を眼下に見下ろす関門層群の山裾に、封鎖された旧竪坑が存在していた。
大正期に試掘され、昭和の半ばに放棄された無煙炭の古い坑道である。赤錆びた鉄格子の向こうには、垂直に落ちる底なしの暗闇が広がっていた。深さは記録上、二百メートル。だが、地図にない断層がその底からさらに海峡の海底直下へと続いているのだと、麻帆は言った。
積載車の荷台から降ろされた「玄武」の漆黒の装甲には、いまだ赤茶色の亀裂が走り、不気味な熱圧が陽炎となって漏れ出している。愛機は、地脈の過剰な熱に内側から焼き切られながらも、主の足取りに従うようにここまで耐え抜いていた。
「玄武の冷却作業はウチがここで引き受けるっす」
あかりが冷却ノズルを握り締め、固い声で言った。
「ここから先は――光くん自身の足で行くっすよ」
「わかった。頼む」
光は生身の体一つで、鉄格子の前に立った。
麻帆がポケットから錆びついた鍵を取り出し、南京錠を外す。重い金属音が響き、鉄格子が嫌な音を立てて開いた。坑内から、冷たく重い大気がねっとりと這い上がってくる。腐った鉄と湿った泥、そして濃密な地脈の匂いだ。
一歩、足を踏み入れる。
狭窄した岩壁の中では、優奈の纏う風が複雑な乱反射を起こして威力を失い、立ち消えていった。杏奈の肩口から発せられる微小な火花も、極薄の酸素に喘ぐように不完全燃焼の黒煙を上げる。熱圧の上昇を阻む狭い坑道内では、麻帆の溶岩マブイすら対流を奪われ、その鋭さを削がれていた。
他の属性が削ぎ落とされていく沈黙の暗闇の中で、光の〈地〉の属性だけが、不気味にその密度を増していく。
足の裏から、何かが強烈な力で肉体を直下へと引き摺り下ろそうとしていた。他ならぬ『大地の飢え』だ。深くなればなるほど、その引力は狂暴さを増していく。
「お前たちは、どこまで来られる」
「行けるところまで行くわ。あなたの風を折った責任があるもの」
優奈が、灰色の瞳に確かな覚悟を宿して言った。
「うちも、光を一人にはせんよ」
杏奈が煤けた指先を握り締め、真っ直ぐに答える。
「案内役としての義務だわ。見届ける」
麻帆もまた、静かにその視線を暗闇の奥へと向けた。
あかりが光の右腕に、特製の小型生体計測器を装着する。
「マブイ計の代わりっす。地上からバイタルと過剰出力を常時監視するっすから!」
「ああ。地上を頼んだ」
光が、最初の鉄梯子に足をかけた。
一段、また一段と降りていく。頭上の光がみるみるうちに小さくなり、足の裏にかかる重圧は、一段降りるごとに目に見えて密力を増していった。
暗い。
父・速水誠も、かつてはこの息の詰まるような重さの直中にいたのだろうか。同じ質量を、同じ呪いのような引力を背中に背負い――そして耐えかねて、上空へと向かう『黄金の翼』を造り上げたのだろうか。
光は梯子を握る両手に、血が滲むほどの力を込めた。
(俺は、逃げない)
地下一百メートル。岩壁の質感が唐突に変わる。
風化した砂礫の層から、微かに熱を帯びた粘土質の古生代岩盤へ。光の足の裏に、関門海峡を深く貫く地脈の生々しい脈動がダイレクトに届き始める。まるで巨獣の心臓の鼓動だ。
「ここから先――まともな道はないわよ」
麻帆の低い声が、重い岩壁に吸い込まれていく。
「足の裏が、進むべき場所を知っている」
地下百五十メートル。ついに梯子が途切れた。
足元には、冷徹に広がる岩盤。そこから先は、地底破砕帯へと続く一寸先も見えない暗闇の坑道が延々と続いていた。
光がその地に、最初の一歩を刻む。
その瞬間――前触れもなく『飢え』が全身を襲った。足の裏から骨髄を貫くような、強烈な極大重力が走る。下へ、下へ、地球の核へと肉体ごと引き摺り込もうとする地脈の暴挙。
「くっ……!」
膝が折れ、視界が一瞬灰色に染まる。
その肩を、優奈の弱々しくも確かな風が真横から支えた。
「……すまない」
光は息を整え、泥を噛むように立ち直った。足の裏で狂おしいほどの引力を感じながら、今度は決して抗わなかった。
引かれるなら、引かれるままでいい。その重力のベクトルに従い、さらに深く、自らの魂の根をこの大地の底へと張る。極限まで沈みきることで、初めてこの足で立つことができるのだ。
「行くぞ」
どこまでも昏い坑道の奥へと、光が再び歩みを進めた。
足の裏には、ドクドクと脈打つ地球の確かな鼓動がある。
かつて、偉大なる父親が背負いきれずに捨て去った大地の重さが、今、光の骨の中で獰猛に吠えていた。




