「資材倉庫——本物の火を持つ者たちへ」
劇的なデビュー戦から数日。
下関競艇場のピット裏には、あの日の熱狂の余韻が、重い湿気とともに澱んでいた。
速水光は、野田あかりに背中をスパナの柄で小突かれ、
「玄武のセッティングパーツを早く見つけてこい」
という非情な命令とともに、薄暗い第四資材倉庫へと送り込まれていた。
ひんやりとしたコンクリートの廊下を進む。
錆びた鉄扉の隙間から、周囲の空気を歪ませるほどの、暴力的な熱量を帯びた声が漏れ聞こえてきた。
「よし、角度よし! 今日の杏奈は人生一番熱い。このマブイの残光、誰にも逃さんけんな……!」
光は何気なく扉を開けた。
オイル缶の山が乱雑に積まれた空間の中央で、一人の少女がスマホを正面に構え、渾身のポーズを決めている。燃えるような赤髪に、気の強い琥珀の瞳。南野杏奈だ。
ただし、その身体を包んでいたのは――いつもの味気ないレーシングスーツではなかった。
情熱的なフリルと漆黒のレースが幾重にも重なった、真紅のゴシックロリータドレス。肩口のクリアパーツからは火の粉がパチパチと不気味に爆ぜ、背中に刺繍された『火竜』の紋章が、彼女の昂る心音に合わせて生き物のように脈動している。
「……南野さん」
「み、見んなやああああああああ――ッ!!!」
ドゴォォン――ッ!
杏奈の全身から、爆発的な紅蓮の火柱が噴き上がった。資材倉庫の頑強な鉄壁が、一瞬にして熱圧でグニャリと歪む。ドレスの裾を両手で必死に押さえつけながら、杏奈は顔面を耳の裏まで真っ赤に燃え上がらせた。
「これは、これは高尚な自己表現じゃ! 見た目で笑うんなら、今すぐその生意気な目ん玉ごと、消し炭に焼き尽くしてやっつけるけんな!!」
光は動じず、地脈を掴んで黒く焦げ付いた己の右手を一瞬だけ見つめた。
誰かが全力で、何かに命を懸けている姿を見るのが、光はなぜか嫌いではなかった。
父・誠が一度でも、俺の泥臭い走りを見に来てくれていたなら――。そんな感傷が脳裏をよぎる前に、光は静かに口を開いた。
「南野さん。その服、炎みたいだ。激しく燃えているのに――ちゃんと、形がある」
「……ッ」
杏奈の動きが、ぴたりと止まった。心臓のあたりを直撃されて、内側から燃やされたような顔になる。
「『烈火の聖女』の、限定衣装だろ。刺繍の密度が尋常じゃない」
一拍おいて、光はただ目の前にある事実を口にした。
「似合っている」
返事がない。炎属性の強力なマブイが、出力の行き場を失って杏奈の全身の血管をぐるぐると迷子のように駆け巡っている。
「光くん、悪い子ね」
背後の闇から、涼やかな声が滑り込んできた。
純白のシフォンを身に纏った丸山優奈が、スカートの裾を風の力でふわりと浮かせながら、お調子者め、と言いたげに立っていた。
「女の子の秘密のクローゼットを覗き見するなんて、六冠王の息子は随分と不埒だこと」
「丸山さんも――」
光はまっすぐに優奈の瞳を見た。
「空を駆ける、風みたいで、綺麗です」
一秒、世界からすべての音が消えるような沈滅があった。
「……ありがとう」
優奈が、消え入るような声で素直に言った。
自分の口からそんな可愛らしい言葉が出たことに、自分が一番驚いたような顔をして――それから、一気に耳まで血の気が上るように赤くなった。
動揺で《風の衣》の制御が完全に乱れ、足元をすくわれた優奈が、オイル缶の山に盛大に尻餅をついた。
「ドスン!!」
「こんな無様な姿……光にだけは、絶対に、見られとうなかった……!!」
「好きになってしまうじゃろが、この、バカ……っ!」
杏奈が、消え入りそうな蚊の鳴くような声で叫ぶ。
「……杏奈」
優奈が床にへたり込んだまま、恨めしそうに呻いた。
「マブイが異常に共鳴して……この部屋の熱気、倉庫中に筒抜けよ」
「うわあああああああああああ!!」
バガアアアアン――ッ!!
その瞬間、頑丈な鉄扉が外側から乱暴に蹴り破られた。
「遅いっすよ光くん!! 別の属性のいやらしい熱気が、廊下までプンプン染み付いてやがるっす!! また女子ですか!?」
般若の形相で乱入してきたのは、巨大なスパナを親の仇のように振り回すあかりだった。
光は、三人分の怒りと、羞恥と、暴走する炎と風のエネルギーに包囲されながらも、ただ変わらないトーンで静かに言った。
「引っ掛けてない」
三人の動きが、凍りついたように止まる。
「俺の周りにいる人間は全員――本物の火を持っている。それだけだ」




