「大地の飢え——地脈の洞へ」
デビュー戦の完全勝利から一週間。
下関競艇場のピットは、表面上の静けさを取り戻していた。だが、速水光の体内では、あの日以来一度も止まることなく、不気味な超重低音が鳴り続けていた。
――ズシン。……ズズズズズン……。
心臓より重く、地底の巨獣が苛立つような空間震動。
光はメンテナンス中の玄武を凝視していた。漆黒の装甲に赤茶色の亀裂が走り、そこから制御不能のマブイが陽炎として漏れ出している。
「……鉄が、泣いているな」
「光くん、今すぐそこから離れてっす!!」
工具箱を抱えたあかりが駆け寄る。
その顔は青白かった。普段のコミカルな涙目とは違う――本物の恐怖が、その瞳に張り付いている。
「暴走か」
「それ以上っす。最終戦で地脈の深層を引き摺り出した代償っす。機体が地球の熱を吸い込みすぎて、制御が完全に崩れてる。光くんの地属性が今、『大地の飢え』に喰われかけてるっす」
「飢え」
「もっと深く沈め、もっと熱を喰わせろって――地脈そのものが、光くんの魂を底へ引っ張ってるっす。このままじゃ、次のレースに出る前に、内側から焼き切れるっすよ」
光の足元のコンクリートに、ピキリと細い亀裂が走った。
「……あなたの底が、開きかけているわね」
背後の闇から、勝元麻帆が静かに歩み出てきた。
黒髪の先に宿る真紅の光が、溶岩のように揺らめいている。その密度に当てられたかのように、あかりのタブレットが熱暴走を起こして画面を落とした。
「どういう意味だ」
「地脈には階層がある。浅層、中層、深層――あなたが最終戦で触れた場所。あるいは、そのさらに先に、生身の人間が触れてはならない底がある」
麻帆は光の黒曜石の瞳を真っ直ぐに見据えた。
「一度呑まれれば、自意識を失い、物言わぬ岩礁として土に還るわ」
一息、置いた。
「……あなたの父親、速水誠は、その重さに耐えかねて空へ逃げたのよ。黄金の翼を造って、地から離れることを選んだ」
光は、何も言わなかった。重苦しい沈黙が、ピットの空気を支配する。
その僅かな時間の間に、光の胸の内で問いの形が、静かに変わっていった。
――なぜ俺を見なかったのか、というかつての問いが、別の問いに変わる。
(親父も……この同じ重さを背負って、狂いかけていたのか)
「……あんたは、なぜそれを知っている」
「私の師は、あなたの父と同じ水面を走った。それだけよ」
麻帆の声はどこまでも静かだ。だが、その静寂の底には確かに火があった。
光の瞳に、怒りではない、何か別の火がパチリと灯る。
「……上等だ。親父が逃げたなら――俺はその泥沼の底の底まで、沈んでやる」
「面白いわ」
麻帆の薄い唇が、わずかに歪んだ。
「呑み込まれる前に、その底を支配してしまえばいい。案内してあげる。下関郊外の廃坑――かつて石炭採掘のために掘られた古い縦穴がある。地下数百メートル、封鎖された断層の先に、地脈が集束する聖域がある。『地脈の洞』よ」
閉ざされたピットに、鋭い風が唐突に吹き込んだ。
「……そんな面白そうな話を、二人だけで進めるつもり?」
丸山優奈が立っていた。
純白のシフォンが冷たい風に揺れている。その灰色の瞳が、静かに光の心を射抜く。
「丸山さん。これは地の属性の問題だ」
「あなたが世界の重さに揺れるなら、私がその揺らぎごと抑え込む」
優奈は一歩、光の方へと詰め寄った。
「あなたの風を折った責任くらい、取るわ」
「待て待てぇい!」
赤髪を激しく爆発させて、南野杏奈が強引に二人の間へと飛び込んできた。
「光、そんな暗い顔は似合わんぞ! あんたの凍りついた地脈ごと、うちの炎で温めたる! うちら、もう水面で魂をぶつけ合った仲じゃろがい!! 暗い地下に行くんなら、うちの炎で一寸先まで照らしたる!」
光は三人の顔を、順番に見つめた。
優奈の頑固な灰色の目。杏奈の真っ直ぐな琥珀の目。そして、麻帆の、すべてを見透かすような真紅の目。誰も、一歩も引く気のない、本物のレーサーの目だ。
「大村競艇場での全国新人リーグ、開幕まであと十四日っす!」
あかりが強制再起動したタブレットを、白くなるほど握りしめて悲鳴を上げた。
「それまでに底の重力を制御できないと、光くんのマブイ・サーキットが内側から本当に焼き切れるっすよ!」
十四日。
光は、自分の黒く焦げた右拳を見た。ERRORを表示し続けるマブイ計の筐体が、酷使された皮膚に貼りついて剥がれない。
父は空へ逃げた。同じ重さを背負って、逃げた。それが正解だったのかどうか、今の光にはまだわからない。
ただ――この男に、逃げるという選択肢は最初から存在しなかった。
「行くぞ」
光が、暗闇の奥へと最初の一歩を踏み出した。
足の裏には、どこまでも重く、どこまでも確かな、地球の目方があった。




