第1話「発祥の地の牙」
第三部:大村激戦編
第1話「発祥の地の牙」
二〇五二年、五月。長崎県、ボートレース大村。競艇発祥の地。日本一のナイター激戦区。
ピットに一歩踏み込んだ瞬間、光は感じた。大村の水は、深い。下関の関門海峡とは違う異質の重さで、艇を、人を、大村湾の底へと引き込もうとしている。
「……悪くない」
光は玄武のプロペラを指で軽く弾いた。
「俺の地脈には、これくらいの圧が丁度いい」
その瞬間、ピットの空気を切り裂いて、青白い電磁波がバチバチと走った。
「お前が噂の地脈深層――速水誠の息子か」
金色の瞳の男だ。福井の雷使い、三宅迅。速水誠の息子か――その一言で、光の足が一秒だけ止まった。止まったのは一秒だ。それでも、確かに止まった。
バチッ!
突風のような雷撃が玄武のカウリングを叩く。光の地脈が瞬時にそれを大地へ接地させる――が、指先にビリリと鋭い痺れが走った。完全には殺しきれていない。三宅の雷は、光の不可侵の地脈に「触れた」のだ。
「面白い接地だ」
三宅は狂暴に笑った。
「だが、次は通す」
次いで、刃物のような冷気がピット全体を瞬時に支配した。群馬の氷使い、白河玲於奈。極低温の気流が玄武のプロペラに触れ――一瞬だけ、白く曇り、凍りかけた。
光が体内から地熱を送り込んで氷を溶かすまで、コンマ三秒かかった。
「あなたの熱が、私の氷で砕ける瞬間を楽しみにしているわ。実際に、少し届いたでしょう」
その通りだ、と光は心の中で認めた。届いた。
さらに、大村湾のうねりを自在に操る海堂颯真が、潮のマブイを伴って静かに押し寄せる。光の足元の水面が――わずかに揺れた。蒸発しない。ただ、不気味に揺れた。地脈の絶対の根が、大村の潮に干渉されたのだ。
三人とも、光の「絶対領域」に確実に触れてきた。
ピット裏が静まり返る。前検航走のタイムが、電光掲示板に大きく映し出された。
『四号艇・速水光(玄武)――展示タイム:五・八三』
『(参考:従来コースレコード:六・一二)』
計測係が、その異常な数字を見て首を傾げた。隣の係員と顔を見合わせる。機械の誤作動を疑う顔だ。ピット裏の空気が、一瞬で凍りついた。
三宅、白河、海堂の三人が、それぞれ別の顔でその数字を睨みつける。三宅は口元を固く引き締め、白河は一度だけ静かに瞬きをし、海堂は音もなく潮を引かせた。誰も、笑わなかった。
その夜。宿舎のベランダで、ナイター照明に浮き立つ闇の大村湾を見つめていると、杏奈と優奈が静かに隣に来た。
「光」
優奈が、波立つ湾を見つめたまま言った。
「三宅の雷、指先に来てたでしょう」
「ああ」
「……次は来ない。あなたがそういう男だから」
励ましではない。確信だ。優奈が光を信じる、絶対の言葉だった。
「光ぃ!」
杏奈が肘で光の脇を小突いた。
「明日は全力で来いよ。うちも全力で、あんたのライバルとして見届けるけんな」
「ああ」
静かな沈黙が流れた。頭上のナイター照明が一斉に輝きを増し、数万ルクスの光が大村湾の水面を真っ白に染め上げる。この光の下を、かつて父・速水誠が走ったことがあるのか――と、光は思った。思ってから、迷いを振り払うように前を向いた。
「明日、全力で来い」
光は大村湾に向かって、静かに言い放った。
「俺の地が、この大村の水面を全部読み込んで――俺だけの滑走路に変えてやる」
波の音がした。大村湾が、静かに揺れていた。三宅の雷も、白河の氷も、海堂の潮も――今夜はまだ、静かに眠っている。
足の裏には、大村の重い水圧がある。下関とは違う質量だ。だが、根は張れる。
遥か遠くから、相棒ネの声が届いた気がした。
光は静かに目を閉じた。明日の水面が、すでに足の裏にクッキリと見えていた。




