「発祥の地の牙」
第三部:大村激戦編
第11話「発祥の地の牙」
二〇五二年、五月。長崎県、ボートレース大村。ボートレース発祥の地にして、海水と淡流が交錯する大村湾のナイター激戦区。
前検日のピットに一歩足を踏み入れた瞬間、光は肌で感じ取っていた。大村の水は、重い。下関の関門海峡とは異なる、底へと引きずり込むような特有の水圧が、艇体を深く沈めようとしていた。
「……悪くない」
光は「玄武」の減圧フィンを指先で静かに確かめた。
「俺の地脈には、これくらいの圧が丁度いい」
前検航走。その水面上で、世界が異質な歪みを上げた。
隣のコースを爆走する福井の雷使い・三宅迅。彼が放つ超高周波の電磁波が水面を焦がし、玄武のカウリングへと過剰電圧となって伝播する。光の地脈が瞬時にそれを水中へ接地・放電させたが、指先に鋭い痺れが残った。完全には相殺し切れていない。三宅のマブイが、光の不可侵の地脈に「触れて」きたのだ。
さらに、群馬の氷使い・白河玲於奈が旋回した跡には、極低温の気流によって水面が一瞬で結晶化し、玄武のプロペラに過度のキャビテーション(気泡抵抗)を引き起こした。地熱でそれを解凍するまで、僅かコンマ二秒の遅延。
そして、大村湾のうねりを自在に操る海堂颯真。彼が引く重厚な潮の引き波が、玄武が水面に打ち込んでいた「重力の錨」を微かに揺さぶった。
全国の頂点を狙う凄腕たちが、水面上で牙を剥き、光の「絶対領域」へと確実に干渉してきていた。
整備室へ戻った光の背後で、前検航走のタイムが電光掲示板に表示された。
『四号艇・速水光(玄武)――展示タイム:六・〇一』
『(※展示タイム計測器:オーバーロードエラー発生)』
測定係が、黒煙を微かに上げる計器の表示を見て絶句していた。周囲のレーサーたちの視線が一斉に玄武へと突き刺さる。三宅は口元を固く引き締め、白河は冷徹に目を細め、海堂は静かに潮の引き波を見つめていた。誰も笑っていなかった。
前検作業の終了を告げる警報が鳴り響く直前、薄暗いピット裏の作業場で、優奈と杏奈が光の元へと歩み寄ってきた。
「光」
優奈が調整中のプロペラを見つめたまま言った。
「三宅の雷、前検の旋回でフィンに干渉していたでしょう」
「ああ」
「……本番では来ないわ。あなたが、そういう微調整を逃す男ではないから」
励ましではない。勝負師としての確信だ。優奈が光の成長を認める、絶対の言葉だった。
「光!」
杏奈が工具箱を手に、力強く言った。
「明日は全力で来いよ。うちも全力で、あんたのライバルとしてこの大村の水面で立ち塞がったるけんな」
「ああ」
静かな沈黙が流れた。頭上のナイター照明が一斉に輝きを増し、数万ルクスの光が大村湾の水面を真っ白に染め上げていく。かつて父・速水誠が走った発祥の地。だが、光の瞳に迷いの色は一切なかった。
「明日、全力で来い」
光は静かに、しかし地鳴りのような声でつぶやいた。
「俺の地が、この大村の水面を全部飲み込んで――俺だけの滑走路に変えてやる」
夜の波音が響いていた。三宅の雷も、白河の氷も、海堂の潮も――明日の予選第1レースに向け、静かにその爪を研いでいる。
足の裏には、大村の重い水圧がある。下関の泥とは違う、新しい質量だ。だが、根は確実に張れている。
遥か遠く、下関の地に残る老犬ネの気配が、微かに地脈を伝って届いた気がした。
光は静かに目を閉じた。明日の水面を削り取る己の航跡が、すでに足の裏にくっきりと刻まれていた。




