第2話「運命の赤」
第三部:大村激戦編
第2話「運命の赤」
前検日の午後。
傾いた西陽が重苦しく差し込む選手控室の長机に、六つの白い封筒が並んでいた。ただそれだけの光景が、室内の大気を物理的に希薄にさせるほどのプレッシャーを放ち、張り詰めた沈黙を連れてくる。
枠番抽選。この手に取る六つの封筒の選択こそが、明日開幕する大村新人リーグ初戦の『地形』を決定づける。光はパイプ椅子に深く腰を下ろし、体内の地脈の脈動を静かに整えながら、眼前の封筒を凝視していた。
「第一順位、三宅選手から」
係員の無機質な声に促され、三宅迅がゆっくりと立ち上がった。その金色の瞳が光を一瞬だけ射すように見据え、迷いなく中央の封筒を掴み取る。
「……一号艇だ」
迅が白い『1』のカードを光の目の前に突きつけた瞬間、バチィン、と頭上の古い蛍光灯が甲高い音を立てて激しく焼き切れた。迅の体内から湧き出る高電圧のマブイが、興奮のあまり無意識に周囲へと漏れ出していたのだ。
「インから最短で逃げ切る。コンマ〇一の電撃スリットで、ターンマークすら誰にも触れさせねえ。光、お前は俺の特大の引き波を底で拝んでな」
次いで、白河玲於奈が凍てつく指先で静かに次の封筒を破った。現れた『2』のカードが長机に置かれた瞬間、ミシ、ミシ、と木目が白く霜を帯びて凍りついていく。
「二コースは、氷の領分。私の横を抜ける風など、誰一人として通させないわ」
多くを語らない、冷徹な拒絶。だが、その底冷えする静けさこそが、迅の傲慢な雷よりも確実に怖かった。
地元の四号艇を引いた海堂颯真が、手元のカードを見て低く不敵に笑う。
「大村のインを『雷』と『氷』で固められたら、外から大人しく指をくわえて見てるわけにはいかねえな。本番はピット離れから強硬に内に動いて、コースを強引に奪いに行くぞ」
五号艇の黒瀬斗真は、カードを受け取ったまま沈黙を守っていた。ただ、その蛇のように鋭い目だけが、じっと光の挙動を観察している。
「光の真横から、特大の炎をぶつけたかったんじゃあああああ!!」
最外枠の六号艇を引いた南野杏奈が、あまりの悔しさに床でのたうち回った。その凄まじい熱気に、隣の白河が一歩だけ嫌そうに後ずさる。
そして最後に、一通の封筒だけが机の上に取り残された。
光が立ち上がり、その紙片へと手を伸ばした瞬間――封筒の質量が、にわかに重くなった。引力の質が、明らかに変わった。下関の地底、地脈の洞で喰らった『大地の飢え』が、その赤い数字を呼んだのだ。
光は手を止めず、封筒を破り開いた。鮮烈な赤い数字がそこにあった。
「……三号艇」
控室の空気が、一瞬でざわめいた。
インコースの『雷』と『氷』の結界を、正面から叩き割って進まねばならない過酷な枠。前付けに動く地元の『潮』からも内を死守しなければならない、逃げ場も妥協もない最前線の特等席。一号艇と二号艇の壁を、己の質量のみで文字通り破るしかない運命の赤だ。
「いい枠だ」
光はカードを見つめたまま、ただそれだけを言った。
「本番のレースで見せる」
迅が鼻で冷たく笑い、白河は一度だけ深く瞬きをした。海堂は自らの潮を引かせるように気配を消す。三人とも――誰も笑わなかった。
ピット裏のワークスペースに戻ると、野田あかりが再起動したタブレットの数値を鋭く睨みつけていた。光の足音を察知した彼女は、顔を上げることなくすぐに口を開いた。
「三枠っすね。四号艇の海堂颯真がピット離れから確実に前付けに動いてくるっす。何が何でも三コースを死守するっすよ。明日のセッティングは――」
「もう、やっといてくれ」
「当然っす」
あかりは相変わらずタブレットの画面から目を離さずに、淡々と言い放った。
「光くんが、その宿命の三枠を引き当てることくらい、最初から分かってたっすから」
それだけを言い残し、あかりはすぐにスパナを握り直して作業に戻った。その背中には、一切の迷いも不安もない。
その夜。
宿舎の窓の外には、暗黒の大村湾がどこまでも静かに広がっていた。光は部屋のハンガーにかかった、三号艇の象徴である『赤い勝負服』を静かに見つめていた。
(親父の勝負服は、一体、何色だったのだろうか――)
そんなことは一度も聞いたことがない。誰も教えてはくれなかった。知らない。ただ、あの絶対王者・速水誠はこの大村の深く重い水面を確かに走ったのだという事実だけが、赤い布の前で静かに、しかし激しく灯っていた。
答えが出るよりも先に、ドアの向こうで微かな気配が動いた。
見ると、あかりがドアの隙間にぽつんと立っている。ギャル特有の派手な髪が、薄暗い廊下で微かに揺れていた。彼女は何も言わない。ただ、そこに立っていた。
「あかりさん、明日の玄武のセッティングは――」
「完璧に終わってるっす」
あかりは一言だけ、押し殺したようなトーンでそう告げると、すぐに踵を返して去っていった。静まり返った廊下に、彼女の足音だけが遠ざかっていく。それは、ただ光の無事を確認するためだけの、不器用な彼女なりの儀式だった。
光はもう一度、赤い勝負服へと目を戻した。
「沈んで、溜めて――そして、浮上する」
声に出したのは、己の弱気を払うためではない。明日の冷徹な水面に向けた、絶対の宣戦布告だ。
「お前たちが撒き散らす引き波も、雷も、氷も――そのすべてを、俺の根を張るための強固な土台にさせてもらう」
足の裏には、大村の持つ異常な高密度水圧がドクドクと伝わってきた。
一号艇の雷が水面をどれだけズタズタに裂こうとも、二号艇の氷が水面をどれほど冷酷に固めようとも――そのさらに下には、いつだって揺るぎない絶対の大地が存在する。極限まで圧し潰された場所こそが、最も深く、最強の根を張るべき真の戦場だ。
遥か下関の闇の奥から、相棒『ネ』の声が、潮風に混じって届いた気がした。低く、静かに、すべてを受け入れるような、いつもの一声。
光は静かに目を閉じた。
網膜の暗闇の向こう側に、明日、漆黒の玄武によって完全に支配され、切り裂かれるべき大村の赤い水面が、足の裏の感覚を通じて鮮明に、かつ重厚に見え始めていた。




