「大村の水圧——俺だけの滑走路に変えてやる」
二〇五二年、五月。長崎県、ボートレース大村。競艇発祥の地。日本一のナイター激戦区。
ピットに一歩踏み込んだ瞬間、光は感じた。大村の水は、深い。下関とは違う重さで、艇を、人を、引き込もうとしている。
「……悪くない」
光は玄武のプロペラを指で弾いた。
「俺の地脈には、これくらいの圧が丁度いい」
その瞬間、ピットに青白い電磁波が走った。
「お前が噂の地脈深層——速水誠の息子か」
金色の瞳の男だ。福井の雷使い、三宅迅。速水誠の息子か——その一言で、光の足が一秒だけ止まった。止まったのは一秒だ。それでも、止まった。
雷が玄武を叩く。光の地脈がそれを接地させる——が、指先にしびれが走った。完全ではない。三宅の雷は、光の地脈に「触れた」。
「面白い接地だ」 三宅は笑った。「だが、次は通す」
次いで、刃物のような冷気がピットを支配した。群馬の氷使い、白河玲於奈。極低温の気流が玄武のプロペラに触れ——一瞬だけ、白く曇った。凍りかけた。
光が地熱を送って溶かすまで、コンマ三秒かかった。
「あなたの熱が、私の氷で砕ける瞬間を楽しみにしているわ。実際に、少し届いたでしょう」
その通りだ、と光は思った。届いた。
大村湾の水流を操る海堂颯真が、潮のマブイを伴って押し寄せる。光の足元の水面が——わずかに揺れた。蒸発しない。ただ、揺れた。地脈の根が、潮に干渉されたのだ。
三人とも、光に「触れた」。
ピット裏が静まり返った。前検航走のタイムが掲示板に映し出された。
「四号艇・速水光(玄武)——展示タイム:五秒八三」
「(参考:従来コースレコード:六秒一二)」
計測係が、数字を見て首を傾げた。隣の係員と顔を見合わせる。機械の誤作動を疑う顔だ。ピット裏が、凍った。
三宅・白河・海堂の三人が、それぞれ別の顔で数字を見た。三宅は口元を引き締めた。白河は一度だけ瞬きをした。海堂は音もなく潮を引かせた。誰も、笑わなかった。
その夜、宿舎のベランダで闇に沈む大村湾を見つめていると、杏奈と優奈が隣に来た。
「光」 優奈が、湾を見たまま言った。「三宅の雷、指先に来てたでしょう」
「ああ」
「……次は来ない。あなたがそういう男だから」
励ましではなく、確認だ。優奈が光を信じる、その言葉だ。
「光ぃ!」
杏奈が肘で光の脇を突いた。
「明日は全力で来いよ。うちも全力で、あんたのライバルとして見届けるけんな」
「ああ」
沈黙があった。頭上のナイター照明が、一斉に点灯した。数万ルクスの光が大村湾を白く染める。この光の下を、父・速水誠が走ったことがあるのか——と、光は思った。思ってから、前を向いた。
「明日、全力で来い」
光は湾に向かって言った。
「俺の地が、この大村の水面を全部読み込んで——俺だけの滑走路に変えてやる」
波の音がした。大村湾が、静かに揺れていた。三宅の雷も、白河の氷も、海堂の潮も——今夜はまだ、眠っている。
足の裏に、大村の水圧がある。下関とは違う重さだ。だが、根は張れる。
ネの声が、遠くから届いた気がした。
光は目を閉じた。明日の水面が、足の裏に見えていた。




