「二——一号機が、引き出してくれた」
はじめに瓜生俊治について、少しだけ触れておく。
父・瓜生俊樹は伝説のマブイゼロレーサーであり、速水誠の水面上の盟友だった。彼は二人の女性に愛された。静岡支部の深田萌歌と、永島あきだ。
取り合いになった末、深田と籍を入れ、永島とは事実婚という形で決着がついた。タブーに見えるかもしれない。しかし、眼の前にあるものが真実とは限らない。何が本当で何が嘘か——それを見分ける目を、俊治は幼い頃から永島に叩き込まれた。
深田との間に生まれた俊治に、永島が英才教育を施した。だからこそ、この怪物が生まれた。
深夜の徳山競艇場。整備室のライトだけが白く灯っていた。
あかりが測定器を光の右手に当てた。液晶画面に数字が出た。
「……二」
あかりは画面を見たまま、しばらく動かなかった。
「に、二っすよ光くん……!! 「一」じゃないっすよ!!」
「ああ」
「ああじゃないっすよ!!」
あかりの目に涙が浮かんだ。光はその涙を見た。泣くな、と言おうとして、やめた。あかりが泣く理由を、光は知っていた。転覆。負傷。マブイゼロ。B1降格。そこから一年以上かけて、ここまで来た。その全部が、この「二」という数字に入っていた。
「……あかりさん」
「なんっすか」
「ありがとう」
あかりは袖で目を拭った。それから測定器のデータを開いた。整備士の顔に戻っていた。
「説明するっすよ、光くん。技術的な話っすよ」
あかりがホログラム端末に波形を展開した。
「今日の第五レース、バックストレッチでの熱効率ログっすよ。ここ——」
波形の一点が、他と全く異なる急峻な跳ね上がりを描いていた。
「一号機のマブイ結晶が、光くんの右指の神経と、一瞬だけ完全に同調したっすよ。物理入力の精度が上田さんの訓練で極限まで高まった結果、機体側が光くんの神経を『マブイ回路の延長』として認識し始めたっすよ」
「師匠の一号機が、俺を引き込んだということか」
「正確には——大二郎師匠が叩き上げた一号機の構造が、光くんの物理感覚と共鳴して、眠っていたマブイ回路の再起動を加速したっすよ。師匠は光くんがこの機体に乗ることで何かが変わると、知っていたのかもしれないっすよ」
光は一号機のカウルに触れた。右指の傷跡を当てた。
師匠の最後のマブイが、ここにある——という感触が来た。遺してくれた大地の意味が、今夜少し分かった気がした。
「ただ」あかりが続けた。「『二』はまだ小さいっすよ。物理と地脈を『別々に』使っている段階っすよ。バックストレッチでは物理、旋回では地脈——という切り替えが起きてるっすよ。本当の意味での融合はまだっすよ」
「同時に使えていない」
「はいっすよ。でも——」あかりは光を見た。「光くんが『同時に使う』感覚を掴んだとき、朱雀は別の機体になるっすよ」
光は整備台の前に立った。一号機を見た。
物理と地脈を分けるな——という言葉が骨の奥から来た。自分の言葉だ。師匠の言葉でも上田の言葉でもない。
朱雀の骨格が俺の骨格で、徳山の水が俺の地脈だ——そういう感覚が来たとき、「二」は「三」になるかもしれない。
「あかりさん。明日の第八レース、プロペラをもう一段階直線に振ってくれ」
「でも、回り足が——」
「回り足は地脈で補う。物理とマブイを同時に使う練習を、明日のレースでやる」
あかりは一秒だけ光を見た。それからハンマーを取った。
「了解っすよ。徹底的に付き合うっすよ」
キィィィン、キィィィン——。
深夜の整備室に、ハンマーの音が響いた。
父への問いが来た——「空へ逃げた」と大二郎は言った。しかし「地と空の両方を持つ」という言葉も、父の時代には存在したという。その二つが同じ父を指しているなら——父は「逃げた」のではなく、「地から空へ向かう途中」だったのか。
答えはまだ出ない。ただ、今夜の「二」という数字が、その問いを少し近づけた気がした。
「ネ、明日も行くぞ」
ネが低く一声鳴いた。徳山の夜が、静かに深まっていた。




