「徳山——バックストレッチで、誰も追いつけない速さを見せる」
二〇五四年八月下旬。山口県・徳山競艇場。
瀬戸内海を臨む広い水面に、真夏の太陽が容赦なく照りつけていた。鳴門のナイターカクテル光線とは違う、白く乾いた光だ。コンクリートのピットが熱を溜め込み、足の裏から焼けるような暑さが伝わってくる。
光は朱雀の移送トラックから荷物を降ろしながら、水面を見た。
広い。鳴門の渦潮とは全く違う種類の水だ。太華山から吹き下ろす風が、水面を緩やかに揺らしている。バックストレッチが、遠くまで真っ直ぐに伸びていた。
「光くん、徳山の水、どうっすか」
「悪くない。直線が長い。朱雀が走れる」
あかりが荷物の仕分けをしながら、引き締まった顔で答えた。昨夜の祝勝会での涙目はもうない。徳山へ来た意味を、あかりも分かっている。
モーター抽選を終え、ピットへ戻った。
割り当てられた徳山の高出力モーターに、光は手慣れた手つきで新型プロペラを組み込んでいった。右指の傷跡がボルトの締め具合を読む。〇・〇一ミリの狂いもなく締め込んだ。
「光くん、今回のプロペラ、かなり直線に振ったっすね。ピット離れや回り足が犠牲になるかもしれないっすよ」
「スプリントの推薦枠を獲るには、徳山のバックストレッチで誰も追いつけない最高速を見せるしかない」
あかりは一秒だけ光を見た。それからプロペラの数値確認に戻った。
「……了解っす」
それだけだった。
試運転水面。ガラガラとボートを降ろした。レバーを握り込んだ瞬間、朱雀が爆音と共に瀬戸内の水を蹴った。
広い。鳴門とは全く違う種類の広さだ。バックストレッチに入った瞬間、加速が別次元になった。太華山からの横風が機体を揺さぶる——光は右指でその揺れを読んだ。補正した。朱雀が水面に貼りついた。
まだ速くなれる——という確信が、足の裏から来た。
試運転を終えてピットのモニターを見た。前検タイムが出ていた。光の数字は上位三位に入っていた。しかし、さらに上にブッチギリのトップタイムがあった。
山口支部・赤崎雄大。地元の水面を知り尽くしたA1エース。チルト三度を使いこなし、直線での爆発的な加速を武器とする重爆撃型のレーサーだ。
「おいおい、復帰戦のG2を勝ったからって期待してりゃ、随分と大人しいタイムじゃねえか、速水光」
ピットの片隅でプロペラを調整しながら、赤崎が冷たい視線を送ってきた。笑っていない目だった。
「俺も九月のSGスプリントへ行く。お前が邪魔なら、徳山の水底に沈めるだけだ」
光は赤崎のプロペラを見た。チルト三度の設定が、遠目でも分かった。直線に完全に特化した機体だ。ターンより前の直線で全てを決める——そういう走りをする男だ。
「お手柔らかに」
それだけ言って、光は朱雀の整備に戻った。
夕方、前検作業の終了を告げるスピーカーが響いた。
光はギアケースを見ていた。赤崎のタイムと自分のタイムの差。その差が縮まる場所は一つだ——バックストレッチの後半、エンジンが最高回転に達した後の「伸び」だ。
「あかりさん。ギアケースの調整を変える。明日からの予選、初手から全開で行く」
「……了解っす。データの同期、開始するっす」
あかりがタブレットを開いた。日が落ち始め、瀬戸内の水面がオレンジ色に染まっていた。
「行くぞ、ネ」
ネが低く一声鳴いた。G1・徳山サントリーカップ、明日開幕。




