「前夜——水面に戻る前の、一瞬の猶予」
祝勝会の生温かい喧騒が遠ざかった、深夜。
徳島駅近くにある無機質なマンションの一室に戻り、電子ロックを解除して重い引き戸を開けると、玄関の三和土には、見覚えのある見慣れた杏奈のライディングシューズが静かに並んでいた。
光は自らの靴を狂いなく揃えてから、静まり返った部屋の奥へと入った。
南野杏奈はベッドの端に小さく腰かけ、ただ無言で窓の外を見つめていた。
昼間の優勝戦で見せつけたあの苛烈な《炎神》の出力も、小料理屋の祝勝会での手厳しい女王の言葉も、今の彼女からはすべて綺麗に剥ぎ取られていた。
カーテンの隙間から差し込む青白い月の光が、彼女のどこか儚い横顔を静かに照らし出している。
「……遅かったじゃない」
エアコンの微かな駆動音だけが、冷えた部屋の中に満ち満ちていた。
光は何も言わず、杏奈のすぐ隣のベッドのシーツへと静かに腰を下ろした。杏奈はまだ、頑なに窓の外の夜景を見つめたままだ。
「光」
「なんだ」
「……負けた」
出力されたのは、それだけだった。光は答えなかった。
今の彼らの回路には、慰めも、言い訳のスタッツも、出力する必要がないと互いに分かっていたからだ。
杏奈が、不意に光の華奢な肩へと自らの額を小さく押しつけてきた。それはライバルでも恋人でもない、ただの『南野杏奈』という一人の少女の、生々しい肉体の重さだった。
光の復帰を、奈落の底から戻ってくることを、孤独に待ちわび続けていた一年と数ヶ月という途方もない時間の質量。
光は、自身のポケットから出した不骨な左手で、杏奈の細い肩をそっと引き寄せた。強く、その重さのすべてを受け止めるように。
月明かりが、静まり返った部屋の床へと静かに静かに差し込んでいた。
しばらくして、杏奈は光の胸元へと額を預けたまま、静かに目を閉じていた。
乱れた鮮烈な赤髪が、彼女の白い頬へと頼りなげに張りついている。少し不機嫌そうに、しかし酷く眠そうに、規則正しい呼吸を刻んでいた。
光は、成宮に切り裂かれたあの右指の傷跡の先で、杏奈の柔らかな髪を、一筋ずつ静かに、丁寧に梳き上げていった。
「……徳山、本当に行くのね」
杏奈が、目を閉じたまま、くぐもった声音のログを出力した。
「ああ。お前が祝勝会で教えてくれた道だ。……朱雀の、あの最高出力時の過負荷エラーをクリアし、新しい物理の回路を試すには、あの瀬戸内の広大な水面(高速直線)しかない」
「あの最高速の選抜戦……うちは、ずっと、あんたと一緒に出たかった」
「知っている」
二人の間に、エアコンの風の音だけが流れる静かな沈黙があった。
「……だから。アタシの代わりに、行ってこい」
光は、杏奈の細い肩をもう一度、壊さないように力強く引き寄せた。
「必ず、勝ってくる。徳山のG1を強硬にハッキングして、九月のSG最速機兵へのゲートを開く。……お前がまだ届かなかったあの最高峰の場所に、俺が、朱雀の真っ赤な翼と共に行って、すべてを証明してみせる」
杏奈が、胸元でフンと愛おしそうに鼻を鳴らした。
「当たり前よ、このバカ。アタシを水上で負かしたんだからさ。……徳山で、アタシたちの最高の『華(嶺上開花)』を咲かしてこい」
彼女はそれだけを呟くと、満足したようにまたそっと目を閉じた。
青白い月の光が、夜の最深部で二人を静かに静かに包み込んでいた。夜明けのラリーが始まるまでの、僅か数時間だけの限定のデータ(時間)。
夜が明ければ、二人は再び、鳴門の水面の上で一ミリの容赦もなく刃を交え合う敵同士に戻るのだ。
光は、杏奈が完全に深い眠りに落ちたのを確認してから、彼女を起こさないようそっとベッドを離れた。
リビングのテーブルの上に置かれたホログラム端末に、徳島のあかりからの新着メッセージ(ログ)がピカピキーンと明滅している。
『出発は午前六時っすよ、光くん。朱雀・嶺上の徳山への積み込みは、アタシの手でもう完璧に終わってるっす』
光はメッセージのウインドウを静かに閉じた。
遮光カーテンを開けると、窓の外の大鳴門の空が、ほんの少しだけ白み始めていた。
地を捨てて空へ逃げた父・速水誠は――かつて、現役時代のこのような孤独な朝に、一体どこへ向かってハイドロを走らせていたのだろうか。
やはり、父への確定の答えのログは出力されない。ただ、今日の速水光というレーサーには、命をかけて向かうべき、明確な最速の行き先が存在している。
「行くぞ、朱雀。……俺たちの本当の開幕戦だ」
光は静かに防音の玄関ドアを開け、外へと歩み出た。
ドアを完全に閉める直前のコンマ数秒、彼は静寂の中に残るベッドの方を、一度だけ振り返った。
無防備に眠る杏奈の美しい横顔が、消えかけた月の光の中に、確かな質量を伴っていつまでも佇んでいた。




