「残光の夜——徳山へ、最速の証明を取りに行く」
二〇五四年八月二十日。
夏の甲子園の喧騒が終盤を迎え、夜の帳が降りる頃、徳島・鳴門水面からほど近い小料理屋の個室では、熱気と安堵が入り混じる独特の空気が漂っていた。
「光くん、本当におめでとうっす!!」
あかりがすでに二杯目となるすだちサワーのグラスを掲げ、興奮を隠しきれずに涙ぐみながら叫んだ。テーブルの中央には、炭火で焼き上げられた阿波尾鶏の骨付き肉が湯気を立てている。皮目から溢れる脂がジューシーな音を立て、たっぷりと搾られたすだちの香りが鼻腔をくすぐった。
「ありがとう、あかりさん。だけど、そんなに泣かなくてもいい。まだ復帰戦を一つ勝っただけだから」
光は苦笑しながら、手元の地酒に口をつけた。
格子窓からは、つい数時間前まで彼らが走っていた鳴門競艇場の、夜のカクテル光線の残光がうっすらと見えている。勝利の味は思いのほか静かに、胸の奥へと染み込んでいく。
足元では、ネが阿波尾鶏のささみに夢中になっていた。
「随分と余裕しゃくしゃくな祝勝会じゃない。少しは勝者らしく、大声で笑ったらどうなのよ」
引き戸が容赦なく開け放たれ、不敵な声が室内に響いた。
遅れて入ってきたのは、昼の優勝戦で二号艇を駆り、光に惜敗した杏奈だった。悔しさを隠そうともしない瞳のまま、光の隣にどさりと腰を下ろすと、自分のウーロン茶のグラスを光の猪口に乱暴にぶつけた。
「うちの炎を外から焼き破るなんて、いい度胸だわ。……だけど光、自惚れるんじゃないよ。あの一マーク、西野の真空と大輝の湿気がぶつかって生まれた一瞬の歪み。あそこへ飛び込めたのは、あんたの腕だけじゃない」
杏奈はウーロン茶を喉に流し込み、光の右指を睨みつけた。
「大二郎おっちゃんの一号機……あのモーターのマブイ伝達効率、一瞬だけ計算上の限界値を超えてたでしょ。機体が勝手に水面を読んだ。違う?」
光は自分の右指を見つめた。「一」の針の穴を読んだあの感覚。確かにあの瞬間、朱雀のプロペラは光の神経と完全に同調していた。だが、それはモーターの心臓部に過度な負荷をかける、諸刃の剣でもある。大二郎が遺した一号機は、応えてくれたと同時に、光にさらなる「構造の理解」を求めているようだった。
「その通りっす、杏奈さん。実は、手放しで喜んでばかりもいられないデータが出てるんすよ……」
あかりがすだちサワーを置き、ホログラム端末の画面を空中に広げた。浮かび上がったのは、数日後に開催を控えた「SGモーターボート記念杯」の確定出走表だった。全国のトップレーサーたちの名がズラリと並んでいる。だが、そこに「速水光」の名は、ない。
「やっぱり、復帰後の出走数と獲得賞金が足りなすぎて、記念杯の選考基準には滑り込めなかったっす……」
あかりが肩を落とすと、杏奈が鼻で笑った。
「当たり前でしょ。記念杯は各競艇場の看板を背負った化け物どものお祭りよ。長期離脱してた復帰組が、G2を一つ獲ったくらいで割り込めるほど、SGの壁は薄くないわ」
杏奈はあかりの端末を奪い取り、画面を大きくスクロールした。
「光、あんたが本当に大二郎おっちゃんの背中を超えるつもりなら、見るべきはこっちよ」
画面が切り替わる。SGロードマップの中で、九月に位置する文字が明滅した。
——SG最速機兵決定戦。
「最高速、最大出力、純粋な機力性能だけを競う、スピード狂たちの聖域。……普通の手順じゃ出走数は足りない。光、あんたに残されたルートはただ一つ。八月末から始まるG1・徳山サントリーカップで結果を出すことよ」
「この徳山で『圧倒的な最速』を証明して、SGスプリントの最終選考委員会推薦枠を力ずくで捥ぎ取る。これが、あんたが九月のSGに間に合う唯一の道よ」
「徳山……」
光はその名を口の中で呟いた。山口県・徳山の広大な瀬戸内の水面。太華山から吹き下ろす気まぐれな風と、広いバックストレッチ。直線での純粋な最高速が試される、超高速水面だ。
記念杯に出られないなら、外側からそのシステムをひっくり返して見せるだけだ。
「あかりさん。明日、朱雀を徳山へ移送する。スプリントの極限まで叩き直す」
「へ!? もうやるんすか!?……でも、やっぱりそういう光くんを待ってたっす!」
あかりが微笑んだ。足元でネが低く一声鳴いた。
帰り際、杏奈が振り返らずに言った。
「後で、あんたのところ行くけぇな」
二〇五四年八月二十日。徳島の夜が明ければ、瀬戸内の広大な水面へ向かう道が幕を開ける。光の視線は、すでにその先にある「最速」の称号を射抜いていた。




