「アース——電撃を、海へ逃がす」
二〇五四年、八月――決戦の準優勝戦を控えた、五日目の前夜。
カクテル光線が消灯した静まり返った大鳴門のピット裏で、一人の初老のベテランレーサーが、朱雀のカウルを磨く光の元へと静かに歩み寄ってきた。かつて、地を捨てて空へ逃げた父・速水誠や、先月引退した香芝大二郎と同じ荒波の上で、火花を散らし合っていた徳島の生ける伝説だ。
「よぉ、頑張ってるじゃないか。……マブイ出力が完全なゼロになっちまったと聞いた時は肝を冷やしたが、よくぞここまで這い上がってきたな、速水」
「……出力、僅かに『一』だけ戻りました」
「そうか。……一か。それなら、本当に良かった」
真夏の生温かい夜風の中、二人の間に短い沈黙が流れる。
光はウエスを動かす手を止め、煤のついた顔の奥から、琥珀色の双眸を老レーサーへと真っ真っ直ぐに向けた。脳内の電子頭脳が、今が最も不確実な過去のログをハッキングする好機だと算出したのだ。
「……先輩。もしよろしければ、俺に教えていただけませんか。……俺の知らない、現役時代の、父・速水誠の本当の戦走ログを」
「あぁ、なるほどな。あの男は現役時代から自分の手の内を多くは語らん偏屈だったからな。……仕方ない、明日が準優だ、お前への手向けに少しだけ聞かせてやろう」
老レーサーは、発走ピットの向こうに広がる暗い鳴門の水面を見つめながら、ぽつりと、一言ずつ言葉の目方を置いていった。
「……あのな、速水。お前の親父――速水誠の生涯最高のマブイ測定値は、全盛期ですら、僅か『一〇〇〇』にしかなかったんだ。……だがな、あいつはそのあまりにも貧弱な数値を、一ミクロンの狂いもない超精密な『機体コントロール(物理操作)』だけで補い、全国の数万、数十万の出力を誇る化け物どもを全員叩き潰して、世界を六度も統べた(六冠王)。……お前も、あの男の息子なら――泥水を啜ってでも、その腕一本で大地を証明してみせるんだな」
老人はそれだけを言い残すと、夜の闇の向こうへと静かに去っていった。
光は、ウエスを握ったまま、しばらくの間その場から一歩も動くことができなかった。
父・速水誠のマブイ最大値は、僅か『一〇〇〇』。
現在の自分の引きつる右指に宿る「一」とは比べるべくもない数字だ。しかし――あの絶対の王とて、最初から圧倒的なチート能力で世界を蹂躙していたわけではなかったのだという、凄絶なシステムデータの開示。
一〇〇〇という数値そのものが、人間の肉体の限界値だった。コントロールだけで六冠王を取ったということは、あの父親もまた、超常の魔法に頼らず、俺と全く同じ『純物理の数式』だけで世界の神々と喧嘩を続けてきたレーサーだったのだという、驚異的な因果のハッキング。
やはり、親父からの確定の答えのログは出力されない。だが、冷酷な鉄の塊だと思っていた父の輪郭が、今夜、ほんの少しだけ正しくアジャストされた気がした。
そして迎えた五日目――鳴門第十二レース、優出の切符をかけた『準優勝戦』。
一号艇の白いカポックは、予選首位通過の速水光。すぐ隣の二号艇には、復讐の炎を滾らせる三重の怪物・三宅迅が据え置かれていた。
「速水ィィィッ!! マブイの干渉を受けないだけのただの鉄屑(泥舟)なら、物理的にカウリングごと焼き切るまでだ!! 俺の本物の《雷》の全電力を、お前のその生意気な脳天に直接叩き落としてやるわ!!」
「三宅さん。……何度計算しても、あなたの数式は間違っている」
光はヘルメットのシールドをカチリと下げ、朱雀のスロットルレバーへ右指を添えた。
「この水面の上で、ボートを本当に前へと駆動させるのは、お前たちの放つ不確実な電気じゃない。……プロペラのブレードが掴み、力任せに押し出す、本物の『海水の質量』だ」
大時計の針が激しく回転し、号砲が鳴り響く。スタート――ゼロ。極限のタイトスリット。
一マークへ突入した瞬間、三宅迅が体内の全マブイの出力を限界突破で解放した。
バチバチバチィィッ――仕様――ッ!!
鳴門の海水を青白く引き裂く凄絶な高電圧の雷撃が、水面を伝播し、一号艇・朱雀の右舷へとダイレクトに直撃した。直後、光の右指の傷跡に宿る、僅か『一』の微弱なパルスがピキーンと駆動した。
(――傷跡から、チタンフレームへ。チタンフレームから、大鳴門の広大な海水へと、三宅の全電磁エネルギーをハッキング、アース(強制放電)する)
ドゴォォォンッ!! と凄絶な物理的衝撃がカウルを叩く。
しかし、深紅の朱雀は一ミリたりとも弾かれはしなかった。三宅の放った数万ボルトの雷撃は、光の組んだ物理の回路を通じて、鳴門の広大な海水の中へとただ無様に霧散し、消え失せた。
「な……馬鹿なっ!? 俺の絶対の雷撃が……ただの海水にすべて逃がされたというのか……っ!?」
驚愕に顔を引きつらせる三宅のインコースを、光は冷徹に朱雀の機首を一マークの最速の道へと向けた。大二郎師匠があかりと共に仕上げた最強の一号機が、滑らかなチタンの咆哮を奏でてそれに応える。内を一閃。
「一号艇・速水光――ッ!! 三宅の猛烈な電撃を水面へ完全に放電アース!! 師匠の一号機と共に、大鳴門の優勝戦ファイナルゲートへ向けて堂々の一着ゴールイン――ッ!!」
一着。
ついに、最高峰の優勝戦の一号艇を強硬に搦め取った。
ピットへと帰瀧し、ハイドロから降りた光は、静かにヘルメットを脱いだ。
ポケットの中の右指の「一」の火種が、今もまだ、心地よい地熱のように温かかった。
地を捨てて空へ逃げた父・速水誠は――俺の体内にこの『一』の根が戻ってきた事実を、世界のどこかでハッキングしているのだろうか。
かつてあの男が電話越しに放った、「その地で、SGの荒波をすべて凪に変えてみせろ」という絶対の暗号。あの言葉の意味が、明日の優勝戦でついに完全証明される。
「ネ。……明日、いよいよすべての王座の奪還だ。行くぞ」
暗闇の中から歩み出てきたネが、主人の右指に宿る『真の大地』の覚醒を100%信頼する証拠として、低く、力強く、そして気高く一声だけガルルと鳴いた。
真夏の生温かい大鳴門の夜の水面が、新たなる純物理の絶対王者の、最高峰の戴冠式を待ちわびるように、どこまでも静かに、そして強固に揺れ動いていた。




