「一網打尽——お前らの魔法がどれだけ派手でも、水の抵抗は変わらない」
真夏の太陽が狂暴に照りつける、鳴門競艇場――予選最終日のラリー。
迎えた【予選第六レース】。
一号艇の白いカポックを身に纏った南野杏奈は、他艇を文字通り一歩も寄せ付けない圧倒的な《炎神》の出力で豪快なイン逃げを完全制覇した。今節、これで堂々の三勝目。
揚艇機へと戻るや否や、杏奈はヘルメットのシールドを跳ね上げ、ピットの奥で朱雀を磨く光へと力強く叫んだ。
「光ッ! 次の第十レースは、ついにあんたとの今節二度目の直接対決じゃ! 福岡の西野も一緒の番組じゃし、うちはもう、一ミリも一ミリも手加減せんどぉ!!」
「分かっている。南野さん。……俺も、俺たちの物理(数式)のすべてを以て、全力で君の炎をハッキングする」
そして――鳴門の空が燃えるような夕日に染まり、カクテル光線が灯り始めた【予選第十レース:海王勝負駆け】。
電光掲示板に明滅する枠番データは、番組編成委員が仕掛けた、今節最大の頂上決戦のレイアウトだった。
一枠:西野 和正(福岡・A1)真空
二枠:速水 光(徳島・B1)物理特化
三枠:南野 杏奈(徳島・A1)烈火
「……南野の狂暴な炎も、速水のその中身が空っぽの深紅のボートも。酸素が完全に遮断された俺の真空のデッドスペースの中では、ただの冷たい物質に過ぎない。まとめて水底で窒息させる」
一号艇の西野和正が、蛇のような冷徹な声音のログを出力する。
大時計の針が激しく回転し、全艇がコンマ数秒の閃光へと突入した。
スタート――ゼロ。光のスリットタイミングはコンマ〇五。全艇が極限のタッチスタート。
第一ターンマーク。
インから先手を握った西野の《絶対零度・真空旋回》が、凄絶な負圧となって二号艇・光の出足を物理的に奪わんと大鳴門の水面を急激にハッキング吸い寄せにかかる。
だがまさにその瞬間、三コースの絶好のカド位置から発走した杏奈の《炎神》マブイが、西野の展開した真空結界を外側から力任せに焼き破らんと、紅蓮のプラズマとなって急襲した。
「真空」と「業火」。特区最高峰の二大属性が、一マークの極小空間で真っ向から激突する。一瞬にして気圧の数式が乱高下し、沸騰した海水が凄絶な水蒸気大爆発を起こして周囲の視界を真っ白に爆破した。
しかし――その属性の暴虐の最深部に飛び込んだ速水光の肉体には、何一つとしてその衝撃は届いてはいなかった。
(お前たちの放つ魔法のインフレが、どれだけ水面を派手に歪めようとも……水の持つ本来の物理的抵抗と、この一号機のピストン回転数の真実だけは、一ミクロンも変わりはしない。そここそが、俺の朱雀がブチ抜くべき、唯一の正解の道だ)
西野の真空と杏奈の炎がぶつかり合い、その反動で西野の負圧の障壁がわずかに破綻した、コンマ数秒の刹那。
光は右指の引きつる傷跡から伝わる振動だけで、水蒸気の奥にある、海水の密度が最も劇的に薄くなった完璧な『物理の隙間』を正確に読み解いた。
ステアリングハンドルをミリ単位の狂いもなく固定し、大二郎師匠の遺した一号機の圧倒的なハイトルクを点火する。深紅の朱雀の機首が、白煙を上げる一マークの断層へと狂おしいほどの精度で突き刺さった。
「二号艇・速水光――ッ!! 西野の絶対の真空と、南野の烈火の嵐が作り出した僅かな大気の死角を、純物理の差しだけで完璧に一網打尽――ッ!! 深紅の朱雀、今悠々とトップへ抜け出たぁ仕様――ッ!!」
バックストレッチへと抜け出た時には、朱雀はすでに他艇を引き離して単独の完全独走態勢を築いていた。
カウル後部に描かれたまきちゃんの拙いネのイラストが、大鳴門の美しい夕日を浴びて、誇らしげにキラキラと輝いている。
後方では、杏奈の凄絶な二の足の火力が、西野の真空を力任せに競り落として二番手へと滑り込んでいた。――徳島支部、至高のワンツーフィニッシュ。
「くっそー――っ!! やっぱり大二郎師匠の遺したその一号機、まともに水上でやりおうたら質量が重たすぎるわい! ……でも、本当にナイスレースじゃ、光!!」
「……南野さん。君が外から西野の真空の壁を強硬に潰してくれたから、内の最短ラインが開いたんだ。……ありがとう」
ピットへと帰瀧し、ハイドロから降りた光の言葉に、杏奈は顔を林檎のように真っ赤に染めながらも、嬉しそうに白い歯を見せて笑った。
そこへ、ワークエリアからノートPCを抱えたあかりが、弾むような満面の笑顔で駆け寄ってきた。
「光くん、杏奈ちゃん! データの集計が出たっすよ! 二人の予選一位・二位通過が、これでほぼ100%確実に確定したっすよ!!」
あかりの手のひらに残る、あの痛々しいスパナの赤い跡が、二人の快挙を祝福するように誇らしげに赤く充満していた。
その夜。選手宿舎の静まり返った自室の暗闇の中で、光は一人、天井を見つめていた。
予選一位通過。
いよいよ明日は準優勝戦、そして優勝戦のゲートが開く。だが、今の光の電子頭脳の回路が検知しているのは、自らの勝利のデータだけではなかった。
今夜、必ずあの人に聞こう。
地を捨てて空へ逃げた父・速水誠と、俺にこの最高の一号機という大地を遺してくれた師匠・香芝大二郎が、かつてこの全く同じ大鳴門の荒波の上を、共に並び立って疾走していた若き時代の歴史を。
俺はまだ、自分の居場所(徳島)の本当の過去を、誰の口からも直接ハッキングしてはいないのだ。
父への不滅の問いの数式が、夜の静寂の中で、昏く、激しく明滅していた。
「ネ。明日も、俺たちの完璧な王政復古の続きだ。行くぞ」
ベッドの傍らで丸くなっていたネが、主人の最深部の決意を100%肯定するように、低く、力強く一声だけガルルと鳴いた。
真夏の生温かい鳴門の夜風が、新たなる大地の土地神の完全なる逆襲劇のクライマックスを予感させるように、どこまでも深く、そして強固に深まっていった。




