「最後のマブイ——師匠と整備士の結晶が、手の中にある」
ドリーム戦が終わり、夜の帳が下りた鳴門のピット裏。
三宅の雷撃マブイが蛍光灯をバチバチと明滅させ、西野の真空がオイルの匂いを吸い寄せてピットの空気を凍りつかせていた。誰もが「朱雀」を引きずり下ろすため、必死にエンジンを研ぎ澄ましていた。
光も一号機を整備台へと据えた。いつものようにスパナを当てようとした。
——その瞬間、手が止まった。
右指の傷跡から、シリンダーの金属粒子の配列が伝わってきた。金属の歪み、ゼロ。クランクの軸ブレ、ゼロ。プロペラが真夏の鳴門の高温多湿と渦潮を切り裂くための三次元曲線を完璧に描いている。
「……整備の手を加える必要が、一分一厘もない。最初から、完璧に仕上がってる」
「気づいたっすか、光くん」
あかりが背後に立っていた。一号機を見て、目がじんわりと潤んでいた。
「その一号機はね……香芝さんが、最後の最後までピットにこもって、私と一緒に一ミクロンずつ叩き上げたモーターなんっすよ。「わしの波濤を、いつかあいつが引き継ぐときのために、最高の土台を作っておく」って。香芝さんのこれまでのレーサー人生の経験と、私の整備のすべてを注ぎ込んだ——香芝大二郎の、最後のマブイの結晶っす」
光は胸が熱くなるのを抑えられなかった。
マブイを失った弟子が、鳴門で全国の化け物たちに囲まれることを見越して、物理の出力だけで世界をねじ伏せられる「無敵の心臓」を遺してくれた。
師匠は「一号機という大地」を遺してくれた——という事実が来た。父は——俺に何かを遺してくれることがあるのか。という問いが来た。答えは出ない。ただ、今夜この手の中に、師匠の全てがある。
光はスパナを工具箱に戻した。ウエスを手に取った。感謝を込めて、一号機を丁寧に磨き上げ始めた。
隣の整備台から西野和正が凝視していた。
「……速水の奴、エース機を前にして、整備すら必要ないというのか……」
マブイがないはずの光の後ろ姿が、今は鳴門の巨大な岩盤のように大きく見えた。
「師匠、あかりさん。この一号機の心臓は一ミリも汚させない」
光はガレージを出た。
「ネ、明日も行くぞ」
ネが低く一声鳴いた。夏の鳴門の夜が、静かに深まっていた。




