「師の背中——この翼で、鳴門の海を背負っていく」
二〇五四年、八月――。
鳴門競艇場の電光掲示板に刻まれたその公式文字に、全国の競艇界、そして特区の全レーサーたちが激しく震撼した。
徳島支部の絶対的守護神――香芝大二郎、現役引退。
一年前、愛弟子の無念を背負って打ち立てた『SG優勝最年長記録(六十一歳七ヶ月)』という前人未到の有終の美を飾り、巨星はその輝かしいハイドロを自ら静かに格納したのだ。
長年、大鳴門の水面を完全に支配し、すべての王政を跳ね返してきたレジェンドの《波濤》のマブイが、ゆっくりと本物の海へと還っていく。徳島支部の薄暗いガレージには、偉大な背中を失った深い寂しさと、新たなる時代の胎動を予感させる張り詰めた決意が、同時に満ち満ちていた。
大二郎は、桐生のナイター戦線から完全優勝のスタッツを引っ提げて凱旋した光の『朱雀・嶺上』と、そのオイルで真っ黒に汚れた不骨な右手を見つめ、どこまでも満足そうに、地鳴りのような声を響かせて豪快に笑った。
「がはは! わしの本物の海の波濤は、今日この瞬間を以てすべてここまでじゃ。……光。これからはお前が、その真っ赤な物理の翼で、この獰猛な鳴門の海全体を丸ごと背負って生きていけ」
光は、包帯の取れた右指の傷跡を強く握り締め、ただ一言、冷徹に頷いた。喉の奥が引き締まり、それ以上の感傷の言葉は出力されなかった。
ピットのゲートの向こう側へと去っていく、師匠のあまりにも巨大すぎた背中。光は陽炎が揺らめく水面の手前で、そのシルエットをいつまでも、じっと見つめ続けていた。
(師匠・香芝大二郎が、ついに俺の前から去った――。では、地を捨てて空へ逃げたあの父・速水誠も、かつて自らの全盛期の航跡の中で、誰かにこうして偉大な背中を見せられた夜があったのだろうか。世界を六度統べた男の背後に、進むべき足場を示した『師』は存在したのか。もしいたとすれば、あの絶対王者は、その師から一体どんな目方の理を学んだというのか)
やはり、脳内の回路に確定の答えのログは出力されない。
八月、ボートレース鳴門。
大二郎の引退を契機として、番組編成委員により『徳島支部VS全国選抜レーサー』という、特区の覇権をかけた狂暴な特別企画レースが即座に組まれた。
全国選抜の枠番には、福岡の西野和正、佐賀の大峯大輝、そして三重の三宅迅ら、かつて最高峰のSG戦線で光の前に立ち塞がった神々の二世、記念級の怪物のネームデータがずらりと冷酷に名を連ねていた。
「真夏の鳴門の極限の海水温度と、直射日光による吸気密度の低下を逆算する。クランクシャフトの軸受けクリアランスを、コンマ〇一ミリ単位であえて広げる。これで、一号機から組み替えた朱雀の心臓の『熱ダレ』を100%防げる」
真夏の悍ましい熱気が立ち込めるピット裏の片隅で、光は一人、誰の手も借りずに朱雀の全中枢パーツを冷徹に分解し、再調律を施していた。
「光くん……本当に、アタシがデータ越しに手伝う隙すら、何一つなくなっちゃったっすね……」
ワークエリアの影から、氷の入った冷たい麦茶のグラスを両手で抱えたあかりが、ひょっこりと顔をのぞかせた。
彼女の大きな瞳には、一人の誇らしい専属メカニックとしての歓喜と――そして、ほんの僅かに、アタシの手を離れて世界の深淵へと自力で歩みを進めていく王への、切ない少女としての寂しさが、静かに明滅していた。
「そんなことはないよ、あかりさん。……俺が桐生の闇の中で、一人きりでモーターと向き合えたのは。あかりさんが徳島のガレージで俺に見せてくれた、一ミクロンの狂いも妥協しない、あの世界一の整備士の背中が、データとして俺の右指の傷にプラグインされていたからだ。この朱雀の燃焼室の中には、今でもあかりさんの魂(黄金比)が、厳然たる事実として生きている」
「……! ――っ、あたりまえっすよ! 光くんが一人でここまでアジャストを回せるなら、アタシはさらにその先を行く、世界一の超物質エンジンに仕上げてみせるっすよ!」
あかりは赤くなった目元を隠すようにして麦茶をサイドテーブルに置くと、その柔らかな手のひらに、あの痛々しいスパナの赤い跡を誇らしげに蘇らせて、力強く工具を握り直した。
翌朝、前検のモーター搬入エリア。
純白のカポックを身に纏い、一号艇の枠番を背負って現れた福岡の西野和正が、ピットの遥か遠方のスリットラインから、深紅の朱雀の流線型のカウルを冷酷にハッキング見据えていた。
「……香芝大二郎の絶対の波濤は、今日この水面から完全に消え去った。速水、お前がオカルトを捨ててただの『物理』だけでこの大鳴門に挑むというのなら、俺の進化させた《真空》は、お前のその深紅の翼ごと、すべての物質の運動を停止させる『絶対零度のデッドスペース』へと叩き落として引き搾ってやる」
光は、和正の放つ極低温のマブイの圧力を、朱雀の無骨なカウルへとそっと左手を当てることで、すべて物理の重量へとアース(重力吸収)した。
「……受けて立つ。西野。大二郎師匠の遺したこの鳴門の海は――俺のこの右指のスパナと、朱雀の真っ赤な翼で、完璧にハッキングして守り抜く」
足元でネが、主人の胸の奥に灯った新たなる大地の絶対王政を肯定するように、低く、力強く一声だけガルルと鳴いた。
真夏のギラギラとした凶暴な太陽光を全面に浴びて、大鳴門の広大な青い水面が、次なる新章の巨大な大激突を祝福するように、どこまでも激しく、そして黄金色に輝き動いていた。




