「物理が勝った——スパナ一本で、桐生の頂へ」
二〇五四年、六月――群馬県・ボートレース桐生、最終日。
カクテル光線が漆黒の水面を獰猛に照らし出す中、聖地の夜空に最終第十二レース『優勝戦』のファンファーレが厳かに鳴り響いた。
電光掲示板に並ぶのは、全国から集結した属性持ちの最高峰たち。
一枠:三宅 迅(福井・A1)雷
二枠:速水 光(徳島・B1)物理特化
三枠:北津留 翼(福岡・A1)閃光
四枠:山崎 奏(群馬・B1)霧
五枠:大滝 豊(群馬・A1)炎
六枠:桐崎 煉(群馬・A2)地
「……速水光。マブイの出力を完全に全損した空っぽの分際で、よくぞ泥水を啜ってここまで上がってきた。だがな、俺の本物の《雷》の加速の前では、お前のその深紅のボートも、ただ水上に浮いた無様な避雷針に過ぎんわ!」
前検ピットの暗がりのスリットライン、一号艇の三宅迅が狂暴な電磁波を周囲にパチパチと放ちながら、冷酷な嘲笑を投げかけてくる。
光はその圧倒的な熱圧の前に、一瞬だけ足を止め、琥珀色の双眸を静かに向けた。
――かつて、まだ地脈の理に甘んじていた頃、大村のあの広大な水面で真っ向から激突した宿命の男が、今、裸となった俺の目の前に立っている。
「……お久しぶりです、三宅さん。あなたの出力データ、すでにアジャスト済みです」
光は感情の消えた声のままそれだけを告げると、ヘルメットのシールドをカチリと下げ、朱雀・嶺上のコクピットへと深く深く滑り込んだ。カウル後部に描かれたまきちゃんの拙いネのイラストが、桐生の眩いナイター照明を美しく、誇らしげに反射している。
大時計の針が激しく回り、号砲が轟く。
スタート――ゼロ。スリットタイミングは三宅コンマ〇六、光コンマ〇五。極限のタイトスリット。
全艇が時速百キロを超えるトップスピードで第一ターンマークへと突入した、まさにその刹那。
三枠・北津留の放った《閃光》と、四枠・山崎の撒き散らす《霧》のマブイが水面の上で不気味に融合同調した。カクテル光線が超高密度の粒子に乱反射し、一マーク周辺が完全なホワイトアウトとサイキック・ジャミングの地獄絵図へと書き換わる。さらにそこへ、インから旋回を切った三宅の凶猛な雷撃(電磁波)が容赦なく伝播していった。
並の精神のレーサーであれば、脳内の三半規管を一瞬にして破壊され、ハイドロの制御を完全に失って転覆を余儀なくされる絶望的な空間。
しかし――二号艇の速水光の電子頭脳には、その超常の暴虐が、一ミクロンも、一ワットも効いてはいなかった。
(マブイという超常のオカルトが完全なゼロだからこそ――神々の属性の干渉を、最初から一切受信しない)
伝説の怪物・上田通彦から琵琶湖の地獄で学び取った、ベアメタルの絶対の真理。
光はステアリングに押し当てた右指の引きつる傷跡を、かつてないほどに深く、機械的に震わせた。視覚データなど最初から破棄している。ただ自身の骨格と背骨を通じて脳内に受信される、水の確かな物理的質量、風の硬さ、そして一号機のピストンが叩き出す金属の拍動。
それらの純物理のグリッドデータだけで、三宅の放った雷撃の引き波の、僅か数センチの完璧な『死角』を冷徹にハッキングし、割り出した。
光は、一ミリのブレもなくハイドロの重心を重量移動させ、スロットルレバーを驚異的な精度で落として、ハンドルを深く切り込んだ。
「な、何だと……っ!? 馬鹿な、この雷と霧の絶対結界の中で、なんで内の最短座標を正確に突き上がってこれるんだ……っ!?」
インを完璧にハッキングされ、愕然とする三宅の視界の真横を、深紅の鳳凰が音を置き去りにしてブチ抜いていく。
「霧も、閃光も、三宅の猛烈な雷撃も、あの裸の王には何一つとして通じない――ッ!! 二号艇・速水光、一号艇・三宅を二マークの手前で完全に捕らえた!! 魔法なき朱雀の、圧巻の純物理まくり差し炸裂――ッ!!」
バックストレッチ、直線コースでの立ち上がり。
一マークで遅れを取った三宅の《雷》のチートな異常加速が、背後から猛烈な目方で朱雀を圧殺しにかかる。
だが――光がこの数日間、深夜の整備室で一人きりで指先を血に染めながら組み上げ、コンマ〇一ミリ単位で希薄燃焼アジャストを施し続けたあのワースト『一号機』のシリンダーが、今、限界を超えた最高熱効率の領域へと完全に駆動した。
キィィィィィン―ッ!!
高く澄み渡ったチタンの高周波音が桐生の夜空を引き裂き、三宅の雷の出力を、物理の直線スピードだけで力任せに置き去りにして突き放していく。
「二号艇・速水光、最低最悪の一号機から神の熱効率を叩き出し、今悠々とトップでホームストレッチへ折り返す! B1の奈落の底からの一大逆襲、ボートレース桐生・見事な優勝ゴールイン――ッ!!」
一着。
魔法を失った裸の王が、ただの鉄の質量と人間の技術だけで、最高峰の神々を完全に駆逐してみせたのだ。
ピット裏へと戻り、ハイドロを揚艇機で引き揚げた光は、静かにヘルメットを脱いだ。
煤とオイルの匂い。
地を捨てて空へ逃げた父・速水誠は――今、この俺の、オカルトをすべて過去のものにした物理の戴冠を、一体世界のどこで見つめているのだろうか。
あの日、絶望の俺に「滋賀へ行け」と電話越しに冷徹な声を出力した日から、すでに一年以上の空白のログが経過していた。あの男は今、一体どこで何をハッキングしているのか。やはり、不滅の父への確定の答えのログは出力されない。
「朱雀。……最高の相棒だ。よくやった」
光は誰もいないコクピットに向かって、静かに、だが確かな質量を伴った声を響かせた。
カウル後部に描かれたまきちゃんの拙い絵――激しい水飛沫を浴びてなお、誇らしげに煌めくネのイラストを、光は不骨な右手で優しく、丁寧に撫で上げた。
「あかりさん。……上田さん。……俺たちの、一ミクロンの狂いもない物理の数式が、今ここで超常のすべてに勝ったぞ」
足元でネが、主人の完全なる大逆襲の幕開けを確信する証拠として、低く、力強く、そして気高く一声だけガルルと鳴いた。
カクテル光線の煌めく桐生の静まり返った夜の水面が、新たなる純物理の絶対王者の進撃を祝福するように、どこまでも静かに、そして強固に揺れ動いていた。




