「霧の中——見えないなら、見ようとしなければいい」
二〇五四年、六月――ボートレース桐生、五日目。
午後八時、カクテル光線が水面を照らし出す中、優出の二席を賭けた死闘、『準優勝戦・第十二レース』の号砲が鳴り響こうとしていた。
「……速水光。その派手な名前や、不死鳥なんて厨二病みたいなボートに、この桐生の霧で沈む私の足元が負けるはずがないでしょう」
一号艇の山崎奏が、愛犬のチワワを膝で撫でながら冷ややかに微笑んだ。
彼女の周囲から、気圧を急激に変動させる微細な『霧』のマブイが水面へと静かに漏れ出していく。
対する三号艇の光は、無言でヘルメットのシールドをカチリと下げた。カウル後部に描かれたあのまきちゃんの拙いネのイラストが、夜のナイター照明を不気味なほど鮮やかに反射していた。
スタート――ゼロ。
全艇がスリットを通過した瞬間、山崎が解放したマブイが牙を剥いた。
夜の冷気と混ざり合い、カクテル光線が乳白色の霧の粒子に激しく乱反射する――一マーク周辺が完全なホワイトアウトに陥った。視界は、もはやゼロだ。
あまりの視界不良に、他艇が次々とスロットルレバーを緩める恐怖の気配がピットを支配する。
だが、光はレバーを放さなかった。
(見えないならば――見ようとするな。物理の法則だけを信じろ)
脳内回路が、琵琶湖で叩き込まれたあの「純物理の定理」を出力する。
光はステアリングに押し当てた右指の傷跡を、かつてないほど繊細に震わせた。プロペラが切り裂く大気の振動、ピストンが叩き出す金属の拍動、そして背骨の深層へと伝わってくる大鳴門の底からのうねりの周期。
それらを座標として合成し、ターンの入り口を数式で算出した。
あと十五メートル。……うねりが一回、二回――今だ。
光は、一ミリの迷いもなく霧の暗闇へ向けてハンドルを深く切り込んだ。
「な、何っ……!? この視界ゼロの霧の中で、なんでレバーを握ったままそんな精度で旋回できるの!?」
山崎の絶叫を背に、深紅の影が乳白色のホワイトアウトを真っ二つに突き抜けていく。
「霧の向こうから、三号艇ッ!! 速水光だぁぁぁッ!! 完璧な物理旋回、あの霧の中を最短航跡で突き抜ける『嶺上開花』のまくり差し――ッ!!」
バックストレッチへ出た時には、朱雀はすでに単独首位を独走していた。
一着。優出確定。
ピットへ戻り、揚艇機で引き揚げられた玄武の側で、ネが主人の帰還を喜ぶように低く、だが誇らしく一声だけガルルと鳴いた。
「……やったぞ、ネ。まきちゃん、あかりさん。俺の計算と、この右指の整備は、決して間違っていなかった」
深紅の翼に宿る徳島の質量を感じながら、光は静かに夜空を見上げた。
地を捨てて空へ逃げた父・速水誠は――かつて、この桐生の霧の中で、ただ一度でも同じように走ったことがあるのだろうか。
マブイという絶対の魔法を使わず、物理の数式と、自らの指先の感覚だけでこの死線を切り抜ける夜を、あの絶対王者は経験したことがあるのか。
やはり、答えのログは出力されない。
「明日、いよいよ優勝戦だ。……朱雀、準備はいいか」
ネが低く一声鳴いた。
桐生のナイターの夜が、静かに、そして深淵なる静寂の中に深まっていった。




