表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
からくり競艇【白銀の波切り、魂のフルスロットル】  作者: 水前寺鯉太郎
第六部 イップス編

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
72/99

「一ミクロンの鉄——全員の想いが、ここにある」

 二〇五四年、六月――群馬県・ボートレース桐生、予選最終日・四日目。

 優出への絶対条件が課せられた第十二レース、予選最終日の熾烈な勝負駆け。

 光の駆る『朱雀・嶺上』は、四コースのカド位置から鋭く踏み込んだ。


 大時計の針が動く。一マークの激突の瞬間、他艇が強引に解放した不規則なマブイの引き波を、光の電子頭脳は避けるべき障害物ではなく、自らを跳躍させるための『物理的な踏み切りカタパルト』へと強制変換した。最内の僅か数センチの断層を、一ミリのブレもなく抉り抜く。


 バックストレッチ――連日の過酷な調律の結果として、あの最低最悪だったワースト一号機が、完全に他艇の超抜モーターを力任せに押し込んでいた。


「一着のA一勢にはわずかに届かない! しかし二番手――四号艇・速水光、純物理のハッキングターンで完全にバックストレッチを抜け出したぁ――ッ!!」


 二着。

 崖っぷちの絶望から、堂々たる確定のゴール板を駆け抜けた。

 深紅の朱雀を陸の上へと引き揚げると、カウル後部に描かれたまきの拙いネのイラストが、激しい水飛沫を浴びて濡れていた。光は不骨な右手でタオルを握り、その犬の絵を優しく、丁寧に拭い取った。


「……通ったな、ネ。俺たちの数式は間違っていなかった」


 足元でネが、主人の帰還を祝福するように、低く一声だけガルルと鳴いた。


 【五着・六着・三着・二着・一着・二着】。


 タブレットに明滅するこの歪な、だが美しいスタッツの並びを、光は静かに見つめていた。

 超常のチート(マブイ)をすべて全損した奈落のどん底から、離れた場所にあるあかりさんの黄金比と、己の右指の傷跡――文字通りスパナ一本の質量だけで搦め取った、血の滲むような本物の数字だ。


(父・速水誠は――かつて、その黄金の航跡の中で、このような泥塗れの数字の並びを見つめた夜があったのだろうか)


 世界を六度統べた絶対の大王。あの男が、このような這い上がるための泥臭い闘争を経験したことがあるのか。それとも――最初から敗北を知らぬ天才として、光り輝く頂点にのみ君臨し続けていたのか。


 いくら計算を回しても、親父からの確定の答えのログは出力されない。ただ今日、この桐生の難所で、ワースト機を駆って二着をもぎ取ったという厳然たる事実だけが、目の前に並んでいる。


 喧騒のピットの片隅で、他支部のレーサーたちが朱雀の異常な航跡データをモニターしながら、怯えの混ざった声音を漏らしていた。


「おい、あいつ……本当にマブイの出力が完全ゼロなのかよ……」


「あのスカスカのワースト一号機であの一マークの超精密ターン、物理的にあり得ねえだろ。一体、どんな隠された裏の魔法を使ってやがるんだ?」


彼らの脳内回路では、この物理の正解をハッキングすることはできない。

マブイという超常の盾がないからこそ、物質そのものの目方、風の粘度、水の硬さをただの『環境データ』として全神経で読み解く、ベアメタルの超感覚が生まれるのだという絶対のルールを。


その夜。深夜の静まり返った整備室で、光は一号機の吸気バルブのクリアランスを極限まで詰め直していた。

明日の準優勝戦の時間帯、桐生の気温は急激に低下する。――コンマ〇一ミリの進角調整が必要だ。光はその絶対的な機械的判断を、ノートPCのシミュレーションに頼ることなく、ただ右指の引きつる傷跡から伝わるフライホイールの金属の冷たさ(触覚)だけで冷徹に行っていた。


同じ時刻、数百キロ離れた徳島の野田ワークス・ガレージ。

あかりは、冷たい蛍光灯の下で、一人ぽつんとモニターの画面を見つめていた。

光の指先からリアルタイムで送信されてくる、一号機の吸気バルブ波形。それが、彼女の設計した理論上の最高値――完璧な数値をピキーンと示した瞬間、あかりの細い指先が、歓喜と畏怖で小さく震えた。


「あかりさん――全員の、徳島のみんなの想いが、この一ミクロンの鉄の心臓にプラグインされている」


光は誰もいない桐生の整備室で、深紅の朱雀のシリンダーに向かって、静かに、だが確かな質量を伴った声を響かせた。


「明日、いよいよ準優勝戦だ。行くぞ、ネ」


足元でネが、主人の放つ『真の大地』の目方を100%信頼する証拠として、低く、力強く一声だけガルルと鳴いた。

カクテル光線の消えた桐生の漆黒の夜が、裸の王となった速水光の次なるファイナルゲートへの激突を予感させるように、どこまでも静かに、そして強固に続いていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ