「黄金比——あかりさんの背中が、この右指にある」
二〇五四年、六月――群馬県・ボートレース桐生、予選三日目・夜。
第四レースでの劇的な逆転一着により、ピット裏は降格からの復活を遂げつつある元・天才のスタッツに大いに沸き立っていた。
しかし、光は歓声に回路を狂わせることなど一切なかった。ゴールラインを駆け抜けた直後には、即座にハイドロからワースト『一号機』を取り外し、冷たい照明が灯る深夜の整備室へと一人で直行していた。
「勝ったからといって、ここで思考を止め、手を休めてしまったら――」
ふと作業灯の下で重い目を閉じた瞬間、光の脳内回路に、あの徳島のガレージで黙々とスパナを握っていたあかりの背中が鮮烈に浮き上がってきた。
黒いグリースで細い指先を汚しながら、シリンダーの壁面を一ミクロンの狂いも容赦せず磨き上げていた、あの絶対的な技術者のシルエット。
「……あかりさんに、データ越しに烈火の如く怒られるな」
光は無表情のまま、包帯の取れた右指の引きつる傷跡を、朱雀のプロペラブレードの鋭い刃先へとそっと当てた。
あの日、成宮の暴走ダンプによって肉を深く切り裂かれたあの最悪のトラウマの感触が、今や桐生の薄い低気圧が金属の刃に与える「ミクロン単位の歪み」を正確に読み取る、至高の触覚センサーとして機能している。
光は指先から伝わる金属のハミングを逆算し、ブレードのピッチ(捻り角度)をコンマ数ミリ単位で冷徹に微調整していった。
超常のマブイ(魔法)など、今の光にはもう何一つ出力されない。
だが、その代わりに積み上げてきたこの「皮膚の記憶」と「物理の計算式」こそが、裸の王となった今の彼の、誰にもハッキングできない絶対の武器だった。
引き続く第九レース、予選競走。
低気圧でマブイを暴発させるA1勢の引き波を完璧にハッキングし、結果は手堅く三着。続く後半の走走でも冷徹に二着をもぎ取る。最低最悪だったはずのワースト一号機が、光の肉体と同期することで、完全に上位級のスタッツを叩き出し始めていた。
深夜、選手宿舎の薄暗いペットスペースの毛布の上。
主人の帰還を待っていたネが、歩み寄ってきた光の膝元へ、その大きな鼻先を熱っぽくすり寄せてきた。
「ネ、無事に帰ってきたぞ。……三着と、二着だ。予選通過の確率はさらに跳ね上がった」
光はヘルメットの痕が残る顔を僅かに緩め、相棒の頑丈な耳の後ろを優しく左手で掻き上げた。
「あかりさんの、あの世界一精密な整備の背中が……今、俺のこの右指の傷跡の中に、確かにデータとして残っているんだ」
翌朝。光から他支部回線を越えて送信されてきた最新のプロペラ修正ログを見たあかりから、徳島経由でメッセージが返ってきた。
だが――液晶画面に文字列が明滅するまでには、かつてない奇妙な沈黙が存在していた。それから、ただ一行だけ、以下のログが出力された。
『――ブレードのピッチ波形、アタシの設計データ上の『黄金比』に、限りなく近づいてるっすよ、光くん』
光が、自分が一人で完璧にモーターを調律できるようになっていく現実を、あの専属メカニックは、一体どう受け止めているのか。一人の技術者として純粋に喜んでいるのか、それとも――その目方の裏側に、アタシの手を離れて遠くへ行ってしまう王への、言葉にできない別の何かが混ざり合っているのか。今の光の電子頭脳では、その感情の数式だけはまだ正解が出せなかった。
さらに、脳内の暗い地平から、もう一つの昏い熱量を持った父への問いが湧き上がってくる。
あかりさんの背中は、確かにこの右指の傷に刻まれている。……では、地を捨てて空へ逃げた父・速水誠の「手の感触」は、一体俺の肉体のどこに残されているというのか。あの絶対の王から教わった真の技術は、本当に俺の回路の中に存在しているのだろうか。
どん底の俺に直接電話をかけてきて、滋賀の地獄(上田の元)へと送り込んだのは、間違いなくあの父親だ。
だが――俺は生まれてから一度たりとも、あの男の「本物の手の温もり」を、水上で感じたことなどただの一度もありはしない。
いくら計算を回しても、親父からの確定の答えのログは出力されない。
「明日、いよいよ予選最終日――勝負駆けのラストステージだ。行くぞ、ネ」
足元でネが、主人の孤独な闘争回路を100%肯定するように、低く、力強く一声だけガルルと鳴いた。
カクテル光線の消えた桐生の漆黒の夜が、新たなる大地の王の完全なる復権を静かに見守るように、どこまでも静かに、そして広大に深まっていった。




