「希薄燃焼——ワーストのままでも、空は飛べるわ」
二〇五四年、六月――東日本屈指のナイター難所、ボートレース桐生。
前検日のガラポン抽選において、速水光の右指が引き当ててしまったのは、現行の桐生モーターの中で勝率・展示タイムともに完全に最低最悪とされる、魔のワースト個体『一号機』だった。
予選初日。
シリンダー内部の圧縮圧力がスカスカに抜けたポンコツ機は、桐生のただでさえ標高が高く薄い空気の中で、悲鳴のような情けないノイズを上げて喘いだ。
第七レース、予選。第一ターンマークの旋回際、他艇が撒き散らす狂暴なマブイの引き波をまともに喰らった一号機は、深刻な酸素不足(酸欠)を起こして激しくバタつき、挙動のバランスを完全に崩した。結果は無残極まる五着、六着。予選突破の計算式が一瞬にして瓦解する、最悪の滑り出しだった。
初日の夜。カクテル光線が消灯した静まり返ったピット裏の整備室に、光はただ一人で残っていた。
今回の節間、俺は徳島のあかりさんを絶対に頼らない――電子頭脳の回路は、すでにそのストイックな決断を出力していた。琵琶湖のほとりで、あの伝説の怪物・上田通彦から叩き込まれた「骨をフレームにし、神経をクランクに直結させる」という純物理のベアメタル思想を、今度は俺自身のこの両手だけで完全に実践してみせる。
光は包帯の取れた右指の引きつる傷跡を、高速回転するフライホイールのセンサーへと直接押し当てた。
プロペラに肉を切り裂かれたあの惨劇の記憶が、金属の微細な熱膨張とクランクの歪みを逆算する超精密オシロスコープとして駆動を始める。
点火タイミングをコンマ数ミリ単位で進角させ、燃料の混合比を極限まで絞り込んでいく。――《希薄燃焼》。桐生の極悪な低気圧に合わせた、一号機のポテンシャルを強引にハッキングする物理の最適化。
「……あかりさん。離れた場所から見てるか。……超常のマブイなんかなくても、この最悪のワースト機のままでも、俺たちの朱雀は……完璧に空を飛べるわ」
誰もいない無人の整備室の闇に向かって、光はぽつりと、空を見上げるように一言だけ声を放った。
二日目、第八レース。
水面に解き放たれた朱雀のエンジン音は、昨日の重苦しいバグに塗れた唸りから、高く澄み渡った一本の金属音へと劇的に変化を遂げていた。耐えて、三着。深紅の朱雀の流線型の翼が、僅かに桐生の重い風の質量を掴み始める。
そして三日目、第四レース。
カウルの後部で、大二郎師匠の愛娘・まきが描いてくれたあの拙い犬の似顔絵が、カクテル光線を浴びて誇らしげに光を反射していた。
大時計の針が回り、号砲が鳴る。スタート――ゼロ。コンマ〇八。極限のスリット一閃。
第一ターンマーク、光は他艇の属性攻撃をハッキングするように、一ミリの狂いもない最短の物理座標へ朱雀の機首を冷徹にねじ込んだ。
続く第二ターンマークの旋回際、極限まで絞り込まれたワースト一号機の燃焼室が、ついに計算上の『完全燃焼』の領域へと到達した。
キィィィィィン―ッ!!
歪んだ一号機のピストンが、肉体と同期した瞬間に奏でた凄絶なチタンの高周波音が、桐生のナイターの夜空を真っ二つに穿ち、突き刺さった。
「二号艇・速水光、一マークの絶望的な出力不足をハッキングしてバックで猛追! 誰も回せなかったあの最悪の一号機からチタンの咆哮を引き出し、二マーク大逆転の一着ゴールイン――ッ!!」
一着。
ワーストエンジンを引きずり回し、純粋な人間の技術だけで、A一の怪物たちを二マークでねじ伏せてみせたのだ。
ピット裏へと戻り、ハイドロを引き揚げた光は、オイルと油まみれになった顔のまま、カウルに描かれたまきの似顔絵をそっと掌で叩いた。
地を捨てて空へ逃げた父・速水誠は――かつて、現役時代の絶対王政の時代に、このような最悪のワーストエンジンを引き当てた夜、一体どのような回路を組んでいたのだろうか。
世界を六度統べたあの絶対の王も、一人で深夜の整備室に残り、指先を血に染めながら鉄のシリンダーと対話していたのだろうか。それとも――。
いくら数式を回しても、親父からの確定のログは出力されない。
翌朝。光から他支部を越えて送信されてきた一号機の熱効率データ(ログ)を見たあかりから、徳島経由で、震える短いメッセージが返ってきた。
『……一号機のスカスカのシリンダーから、この異常な熱効率の数値……光くん、これ本当に、アタシの遠隔データなしで、一人だけで叩き出したんすか』
「ああ。すべて俺と、この朱雀の物理計算だ」
少しの間。通信回線の向こう側で、あかりが深く息を呑む気配が伝わってきた。
『……すごいっすよ、光くん。お前はもう……アタシの想像を遥かに超えた、本物のレーサーっすよ』
液晶に表示された文字は、それだけだった。だが、その短い文字列の目方の裏側に、彼女のエンジニアとしての至高の誇りと信頼が確かに宿っているのを光はハッキングしていた。
【五着、六着、三着、一着】。
スタッツの急激なアジャストにより、光の予選得点率は、崖っぷちから堂々の準優勝戦進出圏内へと強硬に滑り込んでいた。
「明日、いよいよ予選最終日――勝負駆けだ。行くぞ、ネ」
足元でネが、主人の指先から放たれる『真の大地』の質量を完全に信頼する証拠として、低く、力強く一声だけガルルと鳴いた。
桐生の漆黒の夜の水面が、新たなる裸の王の完全なる逆襲劇の続きを待ちわびるように、どこまでも静かに、そして強固に揺れ動いていた。




