「桐生——傷跡が、精度の指標になった」
二〇五四年、六月――。
新たなる相棒『朱雀・嶺上』を駆る光が次なる戦場として選択したのは、群馬県・ボートレース桐生だった。
標高が高く、大気圧が著しく低い、東日本屈指とされる屈指の難所ナイター水面だ。
この特殊な環境下においては、周囲のA1・A2レーサーたちの放つ固有マブイの火力が大気密度の不足によって一様に安定せず、各艇のプロペラからは不快な電子ノイズとバグの白煙が激しく噴き出され、全国の化け物たちが一様に喘ぎ乱れていた。
だが、その張り詰めた桐生のピット裏で、深紅の朱雀のテールボディ後部には、ひどく場違いでコミカルな、一匹の犬の似顔絵と一輪の華のイラストが描かれていた。
徳島へ戻った際、師匠の愛娘である香芝まきが、無邪気な笑顔で描き残してくれたものだ。
『光お兄ちゃん! ネちゃんがいつも後ろの席で見守ってくれてるみたいに描いたよ。これでもう、後ろから他のお船にお尻を突っつかれても絶対に大丈夫! それからこの華の絵はね、光お兄ちゃんの言ってた、えっと……リンシャンカイホウ(嶺上開花)のイメージから取ったんだよ!』
かつては冷徹な純物理の鋼鉄の塊でしかなかった朱雀のカウルに、今、徳島の人々の不屈の温もり(データ)が確かに宿っていた。
夜の凄絶な冷気がコンクリートの床から立ち込める、深夜の桐生のピット裏。光は一人きりで、薄暗い整備室の中に残っていた。
リハビリを終えた右指の激突の傷跡を、彼は剥き出しのクランクウェブの冷たい金属へと直接押し当てた。
かつて成宮の鉄塊に弾かれ、プロペラブレードが自らの肉を深く切り裂いたあの時の生々しい傷の感触。それが今、大宮教習所で叩き込まれた「神経の直結」を経て、鉄のシリンダーの微細な歪みをハッキングするための、世界で唯一の超精密な精度の指標として機能していた。
光は指先から伝わる金属のハミングを逆算し、キャブレターの燃料噴射量をコンマ数ミリ単位で細かく絞り込んでいく。桐生の高標高・低気圧という物理環境に完全にアジャストさせた、究極の最適化。
「……あかりさん。俺、あの方の言う通りに、一人でここまでエンジンを組めるようになったよ」
誰もいない静寂の整備室に向かって、光はぽつりと、一言だけ出力した。
翌朝。電子の海を越えて、鳴門のあかりの元へすべての調律データを送信する。直後、レシーバーの向こうから届いた彼女の声音は、息を呑むような驚きに微かに震えていた。
『……エラー、誤差、すべて完全なゼロっすよ、光くん。……本当に、アタシの手を借りずに、一人でここまでの物理ハッキングをやったんすね』
それだけの言葉だった。少しだけ寂しそうな、だが一人のエンジニアとして光の精神的自立を100%肯定する沈黙のログ。
地を捨てて空へ逃げた父・速水誠は――かつて、現役時代の全盛期に、この桐生の極悪な低気圧の水面を走ったことがあったのだろうか。マブイを前提としたあの黄金の領域で、この難所をどう戦い抜いたのか。
そして今、体内の魔法を完全に枯らし、人間の指先と鉄の質量だけで戦っている実の息子のこの戦走スタッツを、あの男は世界のどこかで見つめているのだろうか。
やはり、確定の答えのデータは出力されない。
「ネ。よく見ておけ。超常のマブイなんていうオカルトが消え失せても――俺たちは、この水面の上を完璧に走れる」
第十二レース、予選競走。
カクテル光線が黄金に煌めく桐生の水面へ、深紅の朱雀が発走する。テールカウルに描かれたまきのネの似顔絵が、ナイター照明の光を浴びて美しく反射した。
大時計の針が回り、号砲が響く。スタートタイミングはコンマゼロ台の横一線。
第一ターンマーク。
内枠の属性持ちたちが、低気圧のバグに焦って不安定なマブイを無理やり解放し、水面を歪に乱そうとしたその激流の間隙。
深紅の朱雀・嶺上だけが、何者にも邪魔されない一本のレーザー光線のように、一ミリの狂いもない最短の物理航跡を突き進んだ。
一切の無駄がない。可動式ウェイトの移動と、光の右指のレバー操作だけで水の抵抗を100%推進力へとハッキングした、究極の超精密接地旋回。
「二号艇・速水光、属性持ちの混迷を一文字に切り裂いて単独先頭ォォッ!! マブイの魔法を完全に出力ゼロで凌駕する、圧倒的な純物理の、これが『嶺上開花』ターンだ――ッ!!」
一着。
文句なしの、完全なる物理の独裁。
ピットへと帰瀧し、揚艇機で朱雀を引き揚げた光は、ヘルメットのシールドを静かに上げ、自らの右手を見つめた。
「ネ。また一つ、俺たちの数式が、あの男の領域の先に進んだぞ」
足元でネが、主人の完全なる王の帰還のスタッツを保証するように、低く、力強く一声だけガルルと鳴いた。
みどり市の広大な夜空が、新たなる大地の翼の進撃を祝福するように、どこまでも静かに、そして強固に広がっていた。




