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からくり競艇【白銀の波切り、魂のフルスロットル】  作者: 水前寺鯉太郎
第六部 イップス編

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「朱雀——地を這う時代は過ぎた」

 二〇五四年、六月――深夜。

 今夜の速水光の電子頭脳は、あきらかに普段とは違う異常な熱量の波形バイオリズムを弾き出していた。

 朝から野田ワークスの設計室に一人で閉じこもり、ミリ単位の狂いもない不気味な設計図ロジックを書き殴り続けていたのだ。そして日付が変わった深夜、徳島支部のガレージ。


 室内には、激しいスプレー塗料の噴射音と、金属を削る荒い研磨剤の匂いが全域に充満していた。光は一人、一年間の傷跡に塗れてボロボロになっていた『玄武』の艇体の前に静かに立っていた。

 強力な剥離剤によって、漆黒の塗装がどろどろと溶け落ちていく。

 かつて黒銀の超重量装甲を纏い、下関を破壊し、大村を制し、大鳴門の底を這い回った伝説のからくり魔戦艇が、今、無機質な純白の素地ベアメタルへと書き換えられていく。


 光は自ら書き上げた新たな設計図を元に、かつて成宮のダンプによって激しく歪んだ破損箇所を、カーボンフレームで強硬に補強し、徹底的な空力アジャスト(手を加える作業)を施していった。


「……玄武」


 光は、掌を純白のハイドロに置き、一言だけ静かに呟いた。

 あかりさんと夜通し叩き直したあのクランクのボルト。大村での衝撃の一着。戸田のウィンターカップでの奇跡の初優勝。そして――あの大鳴門の水面での絶望の転覆。


 すべての栄光と奈落のスタッツを、俺はこの艇(相棒)と全く同じ目方で共有してきた。


「今までありがとう。……俺たちの『地脈』のフェーズは、今日この瞬間を以てすべて終わりだ」


 光は不骨なエアブラシを力強く握り締めた。成宮の鉄塊に砕かれた右手の指先が、今もまだ僅かに引きつるような拒絶反応エラーを魅せる。

 しかし光は冷徹に、パレットの上で鮮烈な『紅』と誠の領域である『黄金』の塗料を混ぜ合わせ、唯一無二の深紅の色彩を調合した。それを、真っ白なカウルへと一気に吹き付けていく。


 彼が指先一本の物理精度だけで描き出しているのは、巨大な二枚の『翼』だった。

 一度は物理的に切り刻まれ、マブイを喪失して奈落の底へと堕ちた肉体が、焦熱の炎の中から不屈の力で這い上がる宿命の象徴――不死鳥。


「光くん……まだ、こんな時間まで一人でやってるんすか……」


 ガレージの物陰から、心配そうにあかりがひょっこりと顔を覗かせた。

 作業灯の下でエアブラシを動かす光の背中を、彼女は息を呑んでじっと見つめる。現在の彼の体内マブイのログは、今も変わらず完全な『出力ゼロ』だ。だが――あかりの目には、光のその華奢な背中のシルエットが、以前の重力に縛られていた頃とは決定的に違う、未知の王の形状かたちへと書き換わっている気がしてならなかった。


「あかりさん。……俺たちの玄武は、今日、今ここで終わりだ」


 光の手首がコンマ数ミリのブレもなく駆動し、カウルの最前線へと、最後の仕上げとなる新たな機体名ログを冷徹に刻み込んだ。


 ――『朱雀・嶺上スザク・リンシャン』。


「水底の地を這い、相手の圧をただ受け止めるだけの亀の時代はもう過ぎた。これからは、天の激流を焼き尽くし、行く手を阻む最悪の向かい風さえもすべて自らの翼の推進力へとハッキングして翔ぶ――これが、俺たちの新しい相棒だ」


光がガレージの全光束のメタルハライドライトを、全開でパチリと点灯させた。

眩い閃光の中に現出したのは、血の滲むような深紅のボディ。可動式超重量ウェイトの滑走を極限まで計算し尽くした、流線型の見事な不死鳥の翼が、カウル全域に誇らしげに描かれていた。


  あかりはノートPCの画面を開き、自らが設計した電子制御ウェイトの内部可動軌道と、光が手作業で描き上げた翼のグラフィックの合致度(シンクロ率)をハッキング計測した。直後、彼女の大きな瞳が感嘆に丸くなる。


「……一分一厘の狂いもないっすよ、光くん。完璧な物理調律っす」


彼女は感情を押し殺し、一人の至高の技術者エンジニアとしての確信だけを告げた。それ以上の言葉は不要だった。

あかりがペラ室へと戻った後、光は一人で冷たいガレージの中に残り、深紅の朱雀を見つめた。


(地を捨てて空へ逃げた父・速水誠――あの男が、現役時代に世界の水面を統べたあの艇の名前を、俺は未だに知らない。父は一体どんな形状の艇を駆り、どんな目方で水面をハッキングしていたのだろうか。俺が下関で玄武を選び、今夜ここで朱雀を生み出したように、あの絶対の王も、自らのマシンに魂の名前を授けていたのだろうか)


いくら数式を回しても、親父の残した確定の答えのログは出力されない。


「行くぞ、ネ。俺たちの本当の開幕戦だ」


暗闇の中から歩み出てきたネが、主人の放った新たなる『天駆ける物理の数式』を肯定するように、低く、気高く一声だけガルルと鳴いた。


翌朝。大鳴門の試運転ピットに現れたその鮮烈な深紅の『朱雀・嶺上』のビジュアルを目撃した瞬間、居合わせた全国のトップレーサーたちは、一斉に息を呑んで硬直した。


 それは超常のマブイによる異常加速ではない。極限まで計算し尽くされた純物理の重量移動ハイドロ・アジャストと、琵琶湖の地獄で掴み取った一ミリの狂いもない超精密ハンドリング。


  朱雀が水面を叩き、ステップを刻むたびに、劈くような凄絶な物理の風切音ソニックブームが大鳴門の防潮壁に木霊する。

「速水光、B1。――ここからが、俺というレーサーの本当のグランドオープニングだ」

顔面に刻まれたあの成宮の惨劇の傷跡を、夕日に堂々と晒しながら、光はヘルメットのシールドをカチリと下げ、朱雀の新型スロットルを限界まで力強く握り込んだ。

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