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からくり競艇【白銀の波切り、魂のフルスロットル】  作者: 水前寺鯉太郎
第六部 イップス編

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「鉄の重さ——魔法がなくても、大地は大地だ」

 二〇五四年、六月――。

 舞台は、世界遺産・厳島神社の巨大な大鳥居を遥か前方に望む、安芸の宮島。

 瀬戸内海特有の強烈な干満差と、防波堤を越えて押し寄せる不規則な三角うねりが、牙を剥いてレーサーたちを待ち受ける極悪の難水面だ。


 B1へと降格し、固有マブイを完全に全損した速水光。

 その復帰二戦目となる宮島一般戦の出走表を見た瞬間、ピット裏の空気は不気味に凍りついた。そこには、あの鳴門の惨劇で光のすべてを粉砕した男――成宮涼の名前が冷酷に刻まれていたのだ。成宮もまた、悪質な妨害失格ペナルティの結果として、A2からB1へと無様に陥落していた。


一枠:成宮 涼(大阪・B1)砕鉄

二枠:速水 光(徳島・B1)物理特化


「……おいおい。自慢のマブイを完全に枯らした元・天才君が、まだ未練たらしくボートにしがみついてやがったか。てっきりあの怪我で、恐怖のあまり失禁して引退したかと思っとったぞ」


前検ピットの暗がりの通路で、成宮が歪んだ嘲笑を投げかけてくる。


「……成宮さん。お久しぶりです」


 振り返った光の声音には、怒りも、怯えも、一切の熱量が宿っていなかった。

 低く、平坦で、極限まで調整された精密機械がただ無機質な電子音を出力するようなハッキング・トーン。リハビリによって余分な脂肪を完全に削ぎ落とした、一六三センチのコンパクトな肉体。前髪の隙間からのぞくあの激突の傷跡が、宮島の強い西日に照らされて鈍く白く光る。


「マブイの出力すらできん空っぽの泥舟で、この宮島の極悪なうねりに勝てると思ってんのか? 今日もあの鳴門と同じように、ハイドロごと海の藻屑にしてやるよ」


 成宮の挑発を、光の電子頭脳は完全に無視スルーしていた。

 彼の視線はただ、玄武・改の船底に据え付けられたプロペラのブレードだけに向いている。潮の粘度、風の抵抗、シリンダーのピストン回転数――マブイを失った今の光にとって、この世界のすべては「数式と物理のスタッツ(数値)」に過ぎない。


 宮島の海水が急激に満ち始め、巨大なうねりが発走ピットを激しく揺らす夕刻。

 大時計の針が回り、号砲が鳴る。スタート――全艇コンマ一〇前後のゼロ一線。

 第一ターンマーク。

 インコースから強引に先陣を切った成宮が、一年前と全く同じ狂気の軌道で、光の右舷目掛けて殺意のダンプを仕掛けてきた。彼の艇体から放たれる《砕鉄》のマブイが、光のハイドロを今度こそ粉砕せんと牙を剥く。


 だが――光は、ステアリングハンドルを右へ一ミリも回さなかった。

 三十九号機のクランクシャフトの爆発振動が、琵琶湖で肉体に叩き込んだ特定の周波数データに達したその刹那。

 成宮への恐怖で強張っていたはずの右指の傷跡が、レバーの角度をコンマ数ミリだけ機械的に、正確に戻した。あかりの組み上げた可動式超重量ウェイトがハイドロの内側を滑走し、艇の全質量を、宮島の押し寄せるうねりの最も硬い『頂点コア』へと完璧にプラグインさせる。


 物理的な、激突の瞬間。

 しかし――派手に弾き飛ばされたのは、超常のマブイを纏っていたはずの、成宮の側だった。


「な……!? 何やこれ……!? なんでお前の泥舟が、一ミリも弾かれへんのや!!」


「成宮さん」


 激流の隙間に一本の鉄の楔を打ち込み、最短の航跡をブチ抜いた光は、バックストレッチを直進しながら、通信レシーバーの向こうの宿敵へ冷徹に言い放った。


「超常の魔法チートがなくても――本物の鉄の質量は、十分に重いぞ」


「二号艇・速水光、属性持ちの成宮のダンプを物理の質量だけで完全圧殺ゥゥッ!! 奈落の底からの完全なる復活の一着ゴールイン――ッ!!」


 一着。

 一年前の因縁を、ただの純粋な人間の技術ワザだけで完全にハッキングしてみせた。

 ピットへと帰瀧し、揚艇機で引き揚げられた玄武の元へ、あかりがノートPCを抱えて駆け寄ってきた。その大きな瞳からは、大粒の涙が溢れ落ちていた。


『光くん……! マブイなんか出力されなくても、お前は……アタシたちの玄武は、やっぱり本物のビクともしない大地っすよ……ッ!!』


 あかりは涙を拭おうともせず、光の右指の入力ログを確認しながら「琵琶湖でのあの地獄の修行の成果が、一滴残らず全部このデータに出てるっすよ!」と声を弾ませた。


 光はハイドロから静かに降り、自らの右手の指先に深く刻まれた、あの痛々しい激突の傷跡をじっと見つめた。

 地を捨てて空へ逃げた父・速水誠の指示で、俺は滋賀へ行った。父が指定したあの伝説の怪物から、真の物理の目方を学んだ。あの男の介入がなければ、俺は今頃、イップスのバグに囚われたまま水上から消え去っていたかもしれない。


 脳内の回路に、昏い熱量を持った父への問いが静かに湧き上がってくる。


 「なぜ、今になって俺を救うようなログを動かしたのか」という答えのデータは、やはりまだ出力されない。だが、あの絶対王者が確かに動き、俺の足場(地脈)を繋ぎ止めたということだけは、厳然たる事実としてここに存在している。


「あかりさん。玄武・改の物理特化モード、最高のアジャストだった。……次、行きましょう。俺たちの本当の戦場へ」


「――はいっす!!」


あかりは手のひらのスパナの跡を誇らしげに握り締め、満面の笑顔で応えた。

足元でネが、主人の完全なる覚醒のスタッツを保証するように、低く、力強く一声だけガルルと鳴いた。

宮島の広大な水面が、新たなる裸の王の進撃を祝福するように、夜の帳の中で、どこまでも静かに、そして強固に揺れ動いていた。

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