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からくり競艇【白銀の波切り、魂のフルスロットル】  作者: 水前寺鯉太郎
第六部 イップス編

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「物理の極致——マブイがなければ、神経をエンジンまで伸ばせ」

 二〇五四年、春――。

 地を捨てて空へ逃げた父・速水誠から、沈黙の回路を破る直接の暗号ログが届いたのは、光が文字通りB1のどん底で空洞化に塗れていた、ある日の深夜だった。


『滋賀へ行け。かつて大宮機艇教習所で数々の修羅を育て上げた元校長、上田通彦さんに今すぐ会ってこい。あの方はかつてお前と全く同じ地獄を見て、マブイを喪失しながらも、ただの肉体だけで這い上がった男だ』


 光は冷徹な手つきで通話を切断した後、液晶に表示された『速水誠』の文字をしばらくの間、無表情に見つめ続けた。


 「なぜ、あの惨劇から一年間も沈黙していたお前が、なぜ今になって動けと言うのか」という、昏い熱量を持った新しい問いの数式。やはり確定の答えは出ない。ただ、今の光には、他に拒絶する場所も、向かうべき座標も残されてはいなかった。


 光はあかりが徹底的に物理改修を施した『玄武・改』を専用トラックへと積み込み、先住犬のネを助手席に乗せ、一路、春の嵐が冷たく波立つ琵琶湖のほとりへと向かった。

 大宮機艇教習所の、完全に隔離された静まり返ったピット。


 そこには、錆びついたクレーンの下に、一人の老人がただ頑強な岩山のように佇んでいた。

 上田通彦――かつて現役時代、凄絶なターンマーク激突事故によって顔面に致命的な大怪我を負い、体内のマブイを完全に全損しながらも、ただの物理操作だけで数々の記念タイトルを搦め取り続けた伝説の怪物だ。


「……速水誠の息子か。マブイの完全に抜け落ちた、いいツラ構えをしとるな」


「……上田さん。俺はもう、マブイが出力されない。あかりさんが叩き直してくれたこのボートが、今はただの冷たい鉄屑マシンにしか感じられないんです」


「マブイがなければ、この激流の上は走れん――そうお前は先人から、あの甘ったれた鳴門の生ぬるい水面で教わってきたか? 笑わせるな、小僧。お前は教習所の最初の第一歩で、一体何を習ってきたんだ?」


 上田は不自由な右手の義手を軋ませながら、玄武・改の無骨なエンジンカウルへと、その無骨な掌を静かに置いた。


「超常の魔法チートが消え失せて、今のお前に残された本当の現実は何だ。コンマ〇一ミリの狂いもなく組み上げられたシリンダー。お前の剥き出しの指先に伝わるピストンの爆発振動。そして――成宮のあのダンプの恐怖を、技術ワザだけでねじ伏せる不屈の意志。……それだけだ。だがな、速水。それこそが競艇というモータースポーツの、本来の剥き出しの真髄ロジックだ。神々の属性に頼って波を消し去ろうとするな。波の持つ本物の物理的質量を全皮膚で感じ取り、その一瞬の隙間に、この鉄の楔を力任せに打ち込め。マブイがないなら、お前の神経系をエンジンのクランクシャフトの末端まで直結して伸ばせ。お前の骨格を、ボートのFRPフレームの一部にしろ。……それが完全にアジャストできれば、お前はかつての誠の追った地脈を超えた――地球そのものである『真の大地』になれる」


 その日から、琵琶湖を舞台にした地獄の調律訓練ブートキャンプが開始された。

 光はヘルメットのシールドを完全に黒塗りにし、視界をゼロにした『目隠し状態』で、時速百キロを超えるハイドロを疾走させた。


 視覚に頼るな。マブイを失い、成宮への恐怖で強張る右指の傷跡から伝わってくる、微細な金属摩擦のハミング(振動)だけで、三十九号機のクランクの現在の同調率をハッキングする。荒れる琵琶湖の変則的な白波を、肉体の全センサーの感覚だけで切り裂いていく。


「右手の指が恐怖で動かんか! だったら肘の関節でレバーを回せ! 肩の骨格で波の質量を感じろ! 水の冷たさを『恐怖のエラー』として弾くのではない、すべて自らを前へ進めるための『環境情報データ』として脳内に受信しろ!!」


 過酷な旋回を何百回と繰り返した、ある日の夕暮れ。

 漆黒に閉ざされた目隠しの裏側の視界に、琵琶湖の複雑な引き波の航跡が、完璧な三次元の『座標グリッド』としてパッと鮮烈に浮かび上がった気がした。


 超常のマブイという盾がないからこそ、物質そのものの目方、水の硬さ、風の抵抗という本物の物理的な『道』が、脳内の数式にハッキングされていく奇妙な感覚。


 同じ時刻、鳴門の野田ワークス・整備室。

 あかりは、冷たい蛍光灯の下で、数百キロ離れた琵琶湖からリアルタイムで送信されてくる電子ログを受信し続けていた。

 ノートPCのモニターに描かれる、光の右指のレバーワークの数値。それを見つめていた彼女の指先が、微かに歓喜で震える。


 変わり始めている。光くんの入力タイミングが、以前の重力マブイに頼っていた頃とは全く違う、純粋な物理操作としての『異常な精度』を持ち始めている。


「……完全に、回路が駆動うごいてきたっすよ、光くん」


 誰もいない無人のコンクリートガレージに向かって、あかりはぽつりと、一言だけ呟いた。

 彼女はすぐさま、次のメカニカル調整のための工具を取った。光くんがこの鳴門の地に帰還したその瞬間、玄武・改が彼の進化した肉体を受け止めるための『最高の大地』であるように、今夜もアタシがこの心臓を調律する。


 光は、ヘルメットを脱いで夕闇に染まる琵琶湖の広大な水面を見つめた。

 地を捨てて空へ逃げたあの父の言葉で訪れたこの場所で、父が推薦した伝説の怪物から、俺は今、本物の大地の目方を学んでいる。


 親父への不滅の問いは、今も消えることなく燃え続けている。「なぜ、今になって俺にこの場所を示したのか」という答えのログはまだ出ない。


 だが――今日、琵琶湖の冷たい激流を潜り抜けたこの肉体と指先は、確かに、あの慘劇のトラウマをハッキングして書き換え始めていた。


「行くぞ、ネ。明日も、この冷たい水の上を限界まで走る」


足元でネが、主人の奥底に現出し始めた『真の大地』の胎動を確信する証拠として、低く、力強く一声だけガルルと鳴いた。

近江の岸辺に吹き付ける凍てつくような夜風が、彼らの泥臭く、しかし絶対的な逆襲の号砲を祝福するように、静かに、そして強固に広がっていた。

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