「空洞——マブイがなんだ、動く指と鋼鉄がある」
二〇五四年、春――。
B1へと転落した速水光を襲った真のバグは、成宮の激突による肉体の傷よりも遥かに深い、マブイの『空洞化』という絶望的なシステムエラーだった。
一般戦の合間、静まり返ったピット裏の測定室。
ホログラムモニターを睨みつけるあかりの横顔は、かつてないほどに青ざめていた。
「……マブイの出力、完全なゼロっす。波形データはおろか、固有振動の反応すら、何一つとして検知できないっすよ」
「マブイがない……ということは。俺の体内から、あの重力の理も、水底へ刺すための根も、もう出力されないということか」
「物理的には、そういうことになるっすよ……。今の光くんは、特殊な能力を何一つ持たない――ただの、裸のレーサーっすよ」
復帰後のB1一般戦。水面は、かつてないほどに光にとって残酷な戦場へと変貌していた。
周囲のレーサーたちは当たり前のように風を操り、紅蓮の火を吹き、冷酷な真空で引き潮を作り出す。
それらを防ぐための重力障壁(盾)を失った光の玄武は、他艇が撒き散らすマブイの暴虐な余波をそのカウリングにまともに喰らい、ただの木の葉のように無様に翻弄され続けた。
「おい、見てみろよ。あの絶対王者・速水誠の息子が、マブイを完全に枯らして、ただの水上の生ゴミみたいに浮いてるぜ」
ピット裏の薄暗い通路で、すれ違う他支部のレーサーたちの嘲笑のログが鼓膜を打つ。
かつては磔台の呪いだと思っていた「誠の息子」という名前が、マブイを失った今の光には、ただただ網膜を焼き切るほどに重く惨めな烙印としてのしかかっていた。
第五レース、予選。
第一ターンマーク。隣の艇が旋回の瞬間に放った狂暴なマブイの圧が、防壁を失った光の剥き出しの神経回路へとダイレクトに突き刺さる。恐怖とエラーにレバーを握り込めず、結果は無残な六着大敗。
ピットへと戻り、揚艇機から降ろされた玄武の前で、光はあかりと真っ真っ直ぐに向き合った。その琥珀色の双眸からは、かつての輝きが完全に消失していた。
「あかりさん。……マブイの数式が出力されないなら、超常の力を前提としない、純粋な物理的な操作精度だけで他艇の属性を圧殺できる機体を作る」
あかりは、その言葉を待っていたと言わんばかりに、油まみれのスパナを強く握り直した。
「光くん。……マブイなんていう不確定なオカルトが消え失せたなら、この冷たい鋼鉄の塊(玄武)を、お前のその研ぎ澄まされた右指の腕一本だけで、本物の『大地』に変えてみせるしかないっすよ!」
深夜のガレージ。二人は無言のまま、玄武の基本構造を根底からハッキングしていった。
からくり特区の技術を逆利用した『可動式超重量ウェイト』、そしてレーサーのミリ単位のレバーオフに連動する『特殊電子制御プロペラ』。
マブイとの同期を一切排除し、レーサーの肉体によるハンドルへの「入力速度」と「精密な舵角」にのみ機械的に100%反応する超高密度アジャスト――【玄武・改――物理特化モード】。
それは、属性バトルの時代に、ただ人間の技術だけで喧嘩を売るための、狂気の設計図だった。
「光。……頼むけぇ、そんな今にも死んだ魚みたいな目ぇ、せんでくれ」
翌朝、宿舎の狭い渡り廊下で鉢合わせた杏奈が、奥歯を噛み締め、今にも泣き出しそうな声で光の胸ぐらを掴んできた。
「……杏奈。俺にはもう、A1の『烈火の女王』になったお前のすぐ隣に立つための資格も、熱量も、何一つ残されていないんだ」
「アホ言え、このバカ!! 資格なんてなぁ……このうちが、魂ごと、あんたの横にいるって決めとるんじゃわい!!」
杏奈の痛切な叫びが、完全に空洞と化した光の脳内回路の最深部へと到達するまでには、あまりにも悲しいほどの時間が必要だった。
その夜、徳島市内の薄暗いマンションの寝室。
先住犬のネが、暗闇の中で静かにベッドへと這い上がり、光の不骨な右指の傷跡へと、その大きな鼻先をそっと押し当てた。
言葉はない。ただ、毛並みの隙間から伝わってくる、微かな、だが確かに生きている生き物の温もり。ただ、それだけだった。
光は、その暗闇の中で天井を見つめた。
(父・速水誠は――かつて、その黄金の航跡の途中で、自らのマブイを完全に失った夜があったのだろうか。あの、世界を六度統べた絶対の大王が、一度でも俺のように、中身が『空っぽ』の空洞になったことがあったのだろうか)
かつて師匠の大二郎は、「誠はあの重さに耐えかねて、空(上空特区)へ逃げた」と評した。
父は耐えかねて逃げた。俺は逃げなかった。しかし今、俺の回路は完全に空洞になっている。逃げずに踏み止まって戦い続けてもなお、このように魂を物理的に削り取られ、空っぽに擦り減ることがあるのだという、過酷な事実。
いくら計算を回しても、親父からの確定の答えのログは出力されない。
「マブイの有無が、一体なんだ」
光はネの頑丈な頭に左手を置き、暗闇の空間に向かって、初めて冷徹な拒絶の声を出力した。
「俺にはまだ、ミリ単位で正確に動くこの右指の回路と――あかりさんが叩き直してくれた、この物理特化の玄武がある」
足元でネが、主人が選んだその極限の『裸のロジック』を肯定するように、低く、深く、静かに一声だけガルルと鳴いた。
夜の静寂が、彼らの新たなる泥臭い逆襲の始まりを告げるように、どこまでも冷たく、そして強固に広がっていた。




