「硬直——不動とは、恐怖に立ち止まることではない」
二〇五四年、春――。
大鳴門のあの凄絶な惨劇から、激動の一年が経過していた。
出走回数の不足と大敗の連続により、速水光の公式等級は、かつての最高峰から『B1級』へと完全に転落していた。
成宮のダンプによって粉砕されかけた右指は、精密なリハビリを経て再びミリ単位で動くようになっていた。顔面に深く刻まれたあの裂傷も、今では前髪の隙間に薄く残るのみだ。
しかし――肉体の順調な再生とは裏腹に、光の司る固有マブイ《地脈》の回路は、地球の最深部よりもさらに深い底で、不気味に、冷たく硬直したまま動かなくなっていた。
一般戦の、何の変哲もない予選レース。
艇体に据え付けられたエンジンの始動音がピット裏に響き渡るたびに、脳内の電子頭脳があの瞬間のエラーログを勝手に強制参照してしまう。プロペラが空を切る悲鳴。粉砕されたヘルメットの衝撃。大鳴門のあの、骨身に染みる冷たい水の目方。
第一ターンマーク。他艇のカウルが視界の端に僅かに接近した――ただそれだけのシグナルで、光の右手の指先は、己の意志を無視して無意識にスロットルレバーを完全に放していた。
「光くん……今の一マーク。データの波形、明らかに旋回の直前でレバーを放したっすよ」
帰瀧し、揚艇機で引き揚げられた玄武のピット裏。
あかりが差し出してきたタブレットの画面には、冷酷な電子波形が、恐怖に負けてスロットルを緩めた瞬間を完璧に映し出していた。
「分かっている、あかりさん。……でも、脳の数式が、身体が――勝手に『ここから逃げろ』って、回路の底から叫ぶんだ」
あかりはそのグラフデータを見つめたまま、しばらくの間、何も言葉を発しなかった。
ただ、自らの手のひらに残るあの痛々しいスパナの赤い跡を隠すようにタブレットを胸に抱くと、無理に作ったエンジニアの笑顔を光へと向けてみせた。
「……光くん。そんなに焦らなくて、一歩ずつでいいっすよ。アタシは……どこにもいかないっすから。ここで、ずっと待ってるっすよ」
それだけを静かに告げると、彼女はワークエリアへと戻っていった。
『光ッ!! あんた今の一マーク、一体何をしよんじゃこのボケェッ!! 今の進入角度なら、内の二艇を丸ごと綺麗に差しきれたじゃろうが!!』
選手宿舎のモニターから通信回線を越えて響いてくるのは、杏奈の凄絶な怒号だった。
光が重傷を負って戦線を長期離脱している間に、南野杏奈というレーサーの才能は、全国の舞台で一気に爆発的な開花を遂げていた。ペナルティの闇を完全に焼き尽くした彼女は、今や堂々たる最高峰のA1レーサー――全国にその名を轟かせる『烈火の女王』という絶対の称号を我が物にしていた。
「……杏奈は、本当に凄いな。俺とはもう……走っている世界も、見据えている目方も違いすぎる」
『何弱気なこと寝惚けて言いよんじゃバカ! うちがあの時、あんたを水面の上でずっと待っとるって言ったじゃろうが!!』
画面越しに激しく叱咤されるたびに、光はますます自らの暗い殻の底へと引き籠もっていった。
かつては、自分がその地の質量で彼女の炎を「守る側」だった。だが今は、A1の女王となった彼女の熱圧に、B1の自分が惨めに支えられている。
徳島市内のアパートの部屋。
先住犬のネは、最近あまり無駄吠えをしなくなっていた。
ただ静かに、ベッドの上の光の元へ歩み寄ると、その大きな鼻先を包帯の取れた光の右指へとそっと寄せ、主人が再び立ち上がるその時を、何時間でもじっと待ち続けている。
光は、頼りない自らの右指の傷跡を見つめた。
(俺の地脈の数式は――もう、本当にすべて終わってしまったのか)
その絶望の問いが脳裏の回路を過った直後、もう一つの昏い熱量を持ったデータが点滅した。
地を捨てて空へ逃げた父・速水誠は――この俺の空白の一年間、一体どこで何をしていたのだろうか。
実の息子の致命的な負傷失格を知ったあの男は、かつてのように直接電話をかけてきたのか。それとも、ただ冷徹に、電子の海の向こう側から見放すように黙って見ていたのか。
いくら計算を回しても、確定の答えのログは出力されない。
ただ――「不動の精神とは、襲いかかる恐怖に立ち止まることではない」という絶対の真理が、骨の最深部から、地鳴りのような響きを伴って湧き上がってきた。
それは師匠の大二郎から授かった言葉ではない。光自身の体内に宿る、地球の《地脈》そのものが告げている絶対のルールだ。
どれだけ狂暴な嵐が吹き荒れようとも、どれだけ不条理な激突に身を砕かれようとも、己の存在の座標を、居場所を頑強に貫き通すこと。それこそが『地』の属性の本質だ。
その最も重要な目方を、今の俺は、恐怖というバグによって完全に失ってしまっている。
ネが、光の右指に刻まれたあの痛々しい激突の傷跡を、優しく、静かに舐めた。
ネの舌の熱は、どこまでも温かかった。ただ、それだけだった。
光はその相棒の黒曜石の瞳を、真っ直ぐに見つめ返した。
「……待っていろ、杏奈。……あかりさん」
光は、誰もいない薄暗いリビングの空間に向かって、初めて確かな質量を伴った声を出力した。それは誰かへの安易な宣言ではない。己の回路へと叩き込むための、絶対の確認ログだ。
「俺の地球の根は――まだ、一ミリも引き剥がされちゃいない。ここにある」
足元でネが、主人の最深部の再起動の予兆を感知したように、低く、力強く一声だけガルルと鳴いた。




