「地獄の最深部」
――二〇五二年、四月。第六レース、運命の最終周回。
下関ルーキーの頂点を決めるあの激戦の記憶が、光の骨の最深部で、未だにドクドクと熱い地熱のように脈打っていた。
あの時、バックストレッチを切り裂き、南野杏奈の剥き出しの咆哮がバイザー越しに光の脳髄を激しく揺さぶったのだ。
「うちの炎を、二番手で甘んじるなんて――死んでも嫌なんじゃあああああ!!」
並走する二艇。劫火の余波で、コクピットは一瞬にして呼吸を拒む地獄へと変貌した。
光は奥歯を噛み砕く勢いで食いしばる。杏奈の炎は、優奈の風とは違う。すべてを無に帰す、剥き出しの純粋な暴力だった。
「光くん、地脈を苗床にするっす――その炎を重力波で強制吸収!!」
ピットから響くあかりの叫びと同時に、光は前を向いたまま吼えた。
「南野さん。あんたのその悔しさ、俺の『地』で全部引き受けてやる!!」
「ド、オォォン――ッ!!」
船底から深淵の奔流が溢れ、杏奈が放つ爆発的な熱量を強引に飲み込んでいく。
肺に吸い込む空気は熱鉄の如し。だが肉体を削る代償と引き換えに、玄武の超重エンジンは炎を喰らって獰猛に脈動を始めた。船体は焼き入れされた鋼鉄のごとく黒光りし、さらなる圧倒的な質量をまとっていく。
「そんなの……余計に悔しいわぁぁぁぁ!!」
出力を吸い尽くされた杏奈の艇が、みるみる速度を失って後退していく。
その瞬間、杏奈は気づいたのだ。自分の炎は消えたのではない。光の影の中で、まだ狂暴に気炎を上げている。玄武の船底が赤黒く滲んでいた。己の魂の色だ。それが、余計に――どうしようもなく悔しかった。
だが、本当の地獄の最深部はそこからだった。
最終ターンマークの影から、真紅の魔戦艇が堂々と現れる。岡山の絶対女王、勝元麻帆。彼女はスロットルを限界のその先まで引き絞り、関門海峡の海水を本物の溶岩の海へと変えて光を待ち受けていた。
「杏奈の火力を喰らって――ようやく来たか」
無線から聞こえる麻帆の声は、不気味なほどに静かだった。だがその静寂の底には、確かに火があった。一度は光の重力に足場を奪われかけながらも、決して消えなかった女王の執念の火だ。
「来い、雛よ。冷え固まってみせろ」
――雛。
その一言が、光の骨の最深部にある火に触れた。
かつて世界を統べた父・速水誠も、俺をそう呼んでいたか。記憶にはない。だが、安っぽい怒りなど疾うに超えた反逆の地熱が、あの日一番の咆哮を上げて胸腔で爆発した。
麻帆の絶対奥義「極熔・大炎上」が、下関の海を真紅に塗り替える。
あまりの質量に一万人の観客が声を失い、スタンドが巨大な静寂に沈む。熱風で皮膚が焼ける。だが、痛みはもう感じなかった。己の肉体が、すでに地球の岩盤と溶け合っている証拠だった。
赤き溶岩の奔流が、玄武を丸ごと飲み込もうと迫る。しかし光は、その灼熱の中に、むしろ絶対的な冷徹さを見ていた。
杏奈から奪った炎が、腹の底で黒く固まっていく。溶岩は大地を焼く。だが大地は――焼かれながら冷え、固まり、次なる新たな岩盤へと進化するのだ。
杏奈の悔しさも、麻帆の溶岩も、すべて俺が強くなるための「根」にしてやる!
「全速――ブチ開けッ!!!」
玄武の船底から、禍々しい赤黒い光が一閃した。
杏奈の炎を喰らった下関の地脈が、麻帆の溶岩を真っ向から迎え撃つ。二つの巨大な熱量が光の超重力下で衝突し、激しい音を立てて漆黒に輝く「黒曜石の結晶」へと瞬時に変質していく。
荒れ狂う溶岩の水面が焼き固められ、完璧な一本の足場となる。麻帆が敷き詰めた絶望の海が、光が勝利するためだけの滑走路へと変わっていく!
「私の溶岩が……また――ッ!?」
麻帆の声に、初めて、明確な戦慄の震えが混じった。
敗北の恐怖ではない。この男の持つ底知れない質量への、レーサーとしての純粋な敬畏だ。
二艇が、ターンマーク際で激しく交錯した。カウリングが噛み合い、凄まじい火花とマグマが夜の海峡に炸裂する。熱で視界がドロドロに溶け、衝撃で全身の骨がミキミキと鳴る。下関のスタンドのコンクリートに巨大な亀裂が走り、一万人の人間が呼吸の方法を完全に忘れた。
足の裏には、地球の地脈。骨の底には、父親への命懸けの問い。
そして腹の中には――今や完全に己の一部となった、ライバルたちの気高き炎。
ピット裏の自席で、光は静かに己の掌を見つめた。
激戦は終わり、下関の夜風が汗に濡れた身体を冷ましていく。だが、あの最終ターンマークで弾け飛んだ赤と黒の奔流の感触は、今も掌に、そして玄武の船底に、消えない焼き印として刻まれている。
「南野の火も、勝元の溶岩も、ここに確かにある……」
足元で、ネが一度だけ短く吠えた。
下関を制した。だが、これはまだ序章に過ぎない。ライバルたちの炎をその身に宿した「重力の王」は、さらに深く、暗く、世界の底へと根を伸ばし始めていた。




