「火と風の休日」
第二部:大村戴冠編
第7話「火と風の休日」
下関ルーキー節・優勝戦を明日に控えた夕刻。
下関競艇場のピット裏には、死闘を勝ち抜いてきた熱狂の余韻が、重い湿気とともに澱んでいた。
速水光は、エンジニアの野田あかりに背中を工具の柄で小突かれ、
「玄武の予備セッティングパーツを早く見つけてくるっす!」
という無慈悲な伝令とともに、薄暗い第四資材倉庫へと足を踏み入れていた。
ひんやりとしたコンクリートの廊下を進む。
錆びた鉄扉の隙間から、周囲の大気を歪ませるほどの熱量を帯んだ気配が漏れ聞こえていた。
「角度よし……熱圧変換よし。今日の杏奈のマブイは、一番熱い……この残光、誰にも舐めさせんけんな」
光は何気なく扉を押した。
オイル缶が整然と積まれた空間の中央で、一人の少女が全身のマブイを抑え込むように姿勢を正していた。燃えるような赤髪に、気の強い琥珀の瞳。二号艇の南野杏奈だ。
ただし、その身体を包んでいたのはレーシングスーツではない。
炎属性の異常過熱を外部へ放散するための特殊高密伝導装束――漆黒のレースと真紅の布地が幾重にも重なった重厚なドレスだった。肩口の放熱セルから火花が不気味に爆ぜ、背中に縫い込まれた『火竜』の回路が、彼女の昂る心音に合わせて生き物のように脈動している。
「……南野さん」
「み、見んなやあああああ――ッ!!」
大気を震わせて炎が吹き上がった。資材倉庫のコンクリート壁が、一瞬にして熱圧でくすぶる。ドレスの裾を両手で必死に押さえつけながら、杏奈は顔面を耳の裏まで真っ赤に染め上げた。
「これは……放熱回路の調整作業じゃ! 見た目で笑うんなら、今すぐその生意気な目ん玉ごと焼き尽くしてやるけんな!!」
光は動じず、地脈を掴んで黒く焦げ付いた己の右手を静かに見つめた。
誰かが全力で、己の属性と命を懸けて向き合っている姿を見るのが、光は嫌いではなかった。
「南野さん。その装束、いい火の形だ。激しく燃えているのに――少しも散っていない」
「……ッ」
杏奈の動きがぴたりと止まった。胸の奥を射抜かれたように、固まる。
「放熱セルの密度が高い。明日の一回戦、本気で俺の重力を焼き切る気だな」
光はただ、目の前にある事実を無骨に口にした。
「武者震いがするよ」
返事がない。炎属性の強力なマブイが、行き場を失って杏奈の頬を赤く染め上げていた。
「光くん、相変わらず無防備ね」
背後の陰から、涼やかな声が滑り込んできた。
純白のシフォン素材で仕立てられた調整着を身に纏った丸山優奈が、大気圧を微調整しながら静かに立っていた。
「女子の繊細な調整時間に踏み込むなんて、六冠王の息子にしては配慮が足りないわ」
「丸山さんも――」
光はまっすぐに優奈の瞳を見た。
「風の軌道に迷いがない。昨日の敗北を、もう糧にしている」
一秒、世界からすべての音が消えるような沈沈黙があった。
「……当たり前でしょう。負けたまま終わるつもりはないわ」
優奈が微かに声を震わせて答えた。
直後、動揺によって大気制御のバランスが崩れ、優奈の体がふわりと浮き上がり、そのままオイル缶の山へと不格好に倒れ込んだ。
「……見ないで」
優奈が床にへたり込んだまま、顔を覆って呻く。
「こんな姿……あなたにだけは、見られたくなかった……」
「光くん!! 廊下まで怪しい属性の熱気が漏れてるっすよ!!」
扉を蹴り開けて乱入してきたのは、巨大なスパナを抱えたあかりだった。
光は三人の視線を受け止めながら、変わらない静かなトーンで言った。
「遊んじゃいない。俺の周りにいる奴らは全員――本物の火と風を持っている。明日が楽しみなだけだ」
倉庫の中、光の足元で老犬ネが「ふぅ」と息を吐き、静かに目を閉じた。
だが、その空気は、壊れた扉の向こうから現れた一人の影によって一瞬で引き締められた。
勝元麻帆が、腕を組みながら冷徹な視線を投げかけていた。
「茶番は終わりだ、速水」
麻帆の氷のような声が、倉庫内の熱気を一瞬で薙ぎ払う。
「明日の優勝戦、枠順が決まった。私が一号艇、貴様が二号艇だ。この下関の決着をつけ――勝者はボートレース発祥の地、大村の『戴冠戦』へと進む」
光はゆっくりと振り返り、溶岩の女帝の目を見据えた。
「――望むところだ、勝元」




