第6話:炎の逆襲 ―― 南野杏奈
丸山優奈の《風神旋回》が瓦解し、黒鉄の〇〇号機が先頭へ躍り出たその瞬間。
下関のスタンドを揺らしていた狂騒は、一転して「戦慄」に近い静寂に包まれた。
だが、その静寂は、一瞬で蒸発した。
バックストレッチ。光の背後から迫るのは、もはや風のような軽やかさではない。
水面が異常な高温で煮え立ち、真っ白な蒸気が爆発的に噴き上がる。光のヘルメット越し、首筋を直接焼くような「熱」の壁が、物理的な質量を伴って迫っていた。
「二コース、南野杏奈が来る! というより……これは、水面が燃えているのか!?」
赤い閃光が、光の視界の端を強引に切り裂いた。
南野杏奈。彼女のマブイ計の針は、すでに限界を振り切り、計器のカバーガラスに細かな亀裂を走らせている。炎属性のレーサーは、自身の感情をそのまま純粋な燃料へと変換する。
「光ぃぃぃぃ!! 優奈を抜いたくらいで、勝った気になるなよ!!」
杏奈の絶叫。二号艇のエンジンが、金属が溶ける寸前の悲鳴を上げた。
「うちは悔しいんじゃ! あんたにも、誰にも、二番手で甘んじるなんて死んでも嫌なんじゃああああ!!」
並走する二隻。至近距離から叩きつけられる杏奈の剥き出しの咆哮。
炎の余波で〇〇号機のカウリングが赤く熱を帯び、光のコックピット内は瞬時にサウナのような熱気に包まれる。レーシングスーツの下で、皮膚がヒリついた。
「……っ、この熱……本気か……!」
光は意識が遠のきそうになるのを、奥歯を噛みしめて食い止めた。
優奈の風が隙間を突く「刃」なら、杏奈の炎はすべてを焼き尽くす「劫火」だ。地属性の重厚な装甲が、鍛造される鉄のように赤く変色していく。
(光くん! マブイを回しすぎるなっす! そのままじゃ焼き切れる……逆転させるっす! 地脈を『苗床』に変えるっすよ!)
通信機から響くあかりの叫び。光は覚悟を決めた。
「南野さん……。その熱、俺が全部『地』で引き受ける!」
ド、ン――!!
〇〇号機の船底から、深い「闇」のような漆黒の輝きが溢れ出した。地属性の上級特性、《地殻吸収》。
杏奈が放つ爆発的な熱を、乾いた大地が雨を吸い込むように、〇〇号機が自身のマブイへと変換し始めたのだ。
「……っ、あ、熱い……!」
光の口から、呻きが漏れる。吸収した熱は、光の肉体をも通過する。視界が真っ赤に染まり、肺に吸い込む空気すらも熱い。だが、機体は、死に体だった〇〇号機のエンジンは、その熱を喰らって不気味に、より力強く脈動し始めた。
「……なんで!? うちの炎が……吸い込まれていく……!?」
杏奈の瞳に、初めて狼狽の色が走る。
マブイを吸い取られた彼女のボートが、一時的に出力を失い、水面に沈み込む。
「南野さん。炎は地に沈んで、いつかマグマになるんだ。あんたの熱が、俺を……先へ進ませる」
光の声は掠れていたが、その響きは地底の鳴動のように重かった。
「……そんなの……そんなの、余計に悔しいわぁぁぁぁ!!」
杏奈の瞳から、悔し涙が火の粉となって散る。
だが、彼女が燃えれば燃えるほど、光の「地」はその膨大なエネルギーを喰らい、より強固に、より速く、下関の水面へと深く根を伸ばしていく。
二つの魂が溶け合い、火花と蒸気が舞う。
そして、その狂乱の先。
最終ターンマークの「影」の中で、不気味に静まり返った赤い瞳が、二人を待っていた。
勝元麻帆。
彼女が通った後の水面は、もはや海水ではない。煮え繰りかえる油のように、どろりと赤く蠢いている。
「光。杏奈の火力を喰らって、ようやく私の土俵に上がってきたか……」
本当の地獄。
下関の海が、本格的に「溶け」始めた。
「……来い、二世。お前の『地』が本物なら、私の溶岩の中で、冷え固まってみせろ」
勝元麻帆が、ゆっくりとハンドルを切る。
それは、世界を沈黙させる、終焉の旋回への序曲だった。




