「王の目撃者」
第6話「王の目撃者」
下関の底の底から伸びた、焦げ付くほどに細く、しかしどこまでも深い新たな「根」。それが光の魂とガチリと繋がった瞬間――世界をひっくり返すための条件は、すべて満たされた。
「おおおおおあぁぁぁぁッ!!!」
光は割れた唇から咆哮を上げ、スロットルレバーを限界のその先まで引き絞る。勝元麻帆の放つ狂暴な溶岩が未だに船底を激しく舐め、カウリングを真っ赤に融解させようとも、光の足の裏は地球の最深部にある岩盤の芯を確実に掴んでいた。
超高熱で視界のすべてが歪み、滲む。鼻腔から滴る鮮血がバイザーを汚し、凄まじいGで両膝が砕け散るほどの悲鳴を上げようとも、もうこの重力は止まらない。
「勝元さん――」
真っ白に霞む視界の中、前を向いたまま、地鳴りのような声を絞り出す。
「あんたの最高に熱いエネルギーで、俺の勝利への滑走路を作らせてもらったぜ」
真横を並走する麻帆の冷徹な眼が、一瞬だけ激しい動揺に揺れた。二艇は完全にサイド・バイ・サイド。肉体を、プライドを削り合うゼロ距離のまま、運命のホームストレッチへと同時になだれ込む。
バリバリバキバキと、超重圧で結晶化していた黒曜石の水面を、玄武のプロペラが狂暴に噛み砕き、抉り取っていく。その凄まじい金属音が、一万人の観客が待つスタンドを激しく貫いた。
誰もが、言葉を失っていた。あまりの衝撃波に、丸山優奈は壊れるほどの力で手すりを握り直し、南野杏奈は肺の酸素をすべて吐き出したまま完全に息を止めている。
空間が、一瞬だけグニャリと歪んだ。コンマ数ミリ――本当に、気の遠くなるような、わずかな針の穴ほどの差。玄武の漆黒の機首が、麻帆の真紅の魔戦艇を、力任せに前へと突き放す!
「パァンッ!!!」
限界まで張り詰めた世界の糸が切れるような、乾いた強烈な号砲が、関門海峡に鳴り響いた。
一着、ゴールイン!
一拍遅れて、一万人の歓声が地鳴りのような大津波となって押し寄せる。
光はゆっくりとスロットルから手を離し、手甲で顔の血を拭うと、ヘルメットを力任せに脱ぎ捨てた。泥と血に汚れた右拳を、天に向けて高く突き上げる。その狂熱の視界の端に――光は、一人の白髪の老人の姿を捉えた。
スタンドの最上段、激しく沸き立つ群衆の中で、その老人はただ一人、微動だにせず声もなく泣いていた。大粒の涙を流しながら、ただひたすらに、光の姿だけを見つめている。
(あの目は……親父を知っている目だ)
直感的に確信した。かつての絶対王者・速水誠の「白銀の氷青」を、何年、何十年と特等席で見つめ続けてきた、伝説の目撃者の眼差し。誠の時代を生き抜いた生き証人が、今、その実の息子が放つ「すべてを圧殺する漆黒の重力」という真逆の強さに、魂の底から震わされて泣いているのだ。
勝った。あの完璧だった女王を、俺は力でねじ伏せて勝った。
それでも――やはり、偉大なる父親の顔は、未だに脳裏の霧の向こう側にあった。勝利の甘美な熱が体を巡るより先に、骨の最深部で静かに燃え続けるあの地熱の火は、消えるどころかその質量を増し、より巨大に黒く燃え上がっている。
ピットに戻った光の足元で、銀狼の老犬「ネ」が退屈そうに大きな欠伸を一つ噛み殺した。新たな神話の誕生に沸く周囲の喧騒などどこ吹く風、この銀の相棒は眠そうな顔のまま、そっと光の足首に己の重い顎を乗せて目を閉じる。
光は、その温もりを足首に感じながら、静かにスタンドの最上段へと目を戻した。白髪の老人は、もうそこにいなかった。
水面から救助艇で引き揚げられた勝元麻帆が、濡れた漆黒の髪を固く押さえながら、じっと自分の両手を見つめていた。その指先は、敗北の衝撃と戦慄で、ガタガタと激しく震えている。彼女はその震えをねじ伏せるように、静かに、しかし骨が軋むほどの力で拳を握り締めた。
二度と振り返ることなく、傲然と踵を返してピットの奥へと歩き出す。だが、その去りゆく背中は、未だにドロドロとした狂暴な溶岩の熱を孕んで、激しく燃え上がっていた。
「準備はいいか、速水光。これで勝ったと思うな。次は私のすべての熱を以て、貴様が誇るその大地の根ごと、跡形もなく焼き尽くしてやろう」
麻帆の氷の如き警告は、遠ざかりながらも、光の鼓膜へと確実に届いた。光は答えなかった。足の裏には地球の底から受け取った地脈の余熱が、未だにドクドクと残っている。骨の奥には、偉大なる父親への命懸けの問いが残っている。言葉で返す必要など、どこにもない。
「……次は、どこだ」
光が静かに呟くと、足元でネが一度だけ大きく伸びをして、また目を閉じた。
答えなど、まだどこにもない。それでいい。大地は決して、自ら怒鳴らない。己が王であると名乗りもしない。
ただ――次なる巨大な根を張るべき真の戦場を、その静かなる眼光で見据えているだけだ。
(第一部:下関ルーキー編、完)




