「黒曜石の断層」
第一部:下関ルーキー編
第5話「黒曜石の断層」
下関ルーキー節、予選最終戦。最終周回、バックストレッチ。
二〇五二年、四月――夕闇が迫る下関の暗緑色の水面を切り裂き、赤黒い魔戦艇が音もなく背後から迫る。
二号艇・勝元麻帆がスロットルを限界まで握り締めた瞬間、関門海峡の水面が文字通り蒸気化を起こした。
超高熱のマブイ波によって海水がジュウジュウと悲鳴を上げて沸き立ち、赤黒くドロドロとした熱膜が瞬く間に水面を覆っていく。過熱による激しいキャビテーション(気泡化)で後続艇が追突を恐れて失速していく絶望的な状況の中、漆黒の「玄武」だけが、灼熱の蒸気の中を狂ったように突き進んでいた。
「光くん、ダメっす! 船底の温度センサーが計測限界を突破しました! このままじゃ駆動系ごと光くんの肉体が焼き切れるっす!!」
「黙って俺の――いや、俺たちの根を信じろ!!」
通信機からの叫びを力任せに断ち切り、光はただ前だけを向く。
超高熱に晒されたカウリングの余熱でバイザーが真っ白に曇り、凄まじい気圧の変化で目頭から血が滲んだ。
それでも、光の足の裏は確かに感知していた。下関の海底を走る、ドクドクとした地脈の脈動を。
繋がっている。まだ、俺は地球と繋がっている。
麻帆の放った狂暴な熱波が玄武の船底を焼き尽くそうとしたその瞬間、光の五感が限界を超えて駆動した。
スロットルを一瞬、絶妙な手応えで絞る。全身の二万マブイを船底の指向性安定翼へと爆発的に収束させ、襲い来る熱エネルギーに極大の超重力圧を加える――。
大気が急速に冷え、緊迫した沈黙が訪れた。
灼熱の溶岩膜が、超高圧の重力によって漆黒に輝く「黒曜石の結晶層」へと瞬時に相転移を起こし、荒れ狂う水面が頑強な滑走路へと焼き固められていく。麻帆が作り出したはずの熱波の海が、玄武が走るための絶対の足場へと変貌したのだ。
「私の溶岩を……超重圧力で相転移させ、足場にしたというのか……!?」
インカムから聞こえる麻帆の声に、初めて明確な驚愕の亀裂が入る。
光はその瞬間に生まれたわずかな隙へ、己の全重力を容赦なく叩き込んだ。
「勝元さん。あんたの最高に熱いエネルギーで、俺の勝利への道を綺麗に作らせてもらったぜ」
凄まじい砕裂音を立てて黒曜石の薄氷が弾け飛ぶ。
玄武が猛烈な加速で肉薄する。一艇身、半艇身――一騎打ちの距離で並びかける。
その時、麻帆がカウリングの向こうで、狂おしそうにフッと笑った。冷徹な女王の仮面などそこにはない。ただの一人のレーサーとしての、剥き出しの獰猛な笑みだ。
「……ずるいわね、速水光! だが――この勝元麻帆が、これで終わると思うなよ!!」
最終ターンマーク、進入時速九十キロ。
真横から、赤黒い魔戦艇が肉体ごと叩きつけられてきた。二艇の強固なカウリングが強烈な火花を散らして激しく噛み合い、周囲に夥しい熱粒子が弾け飛ぶ。
凄絶な衝撃。光の視界が歪み、全身の関節が悲鳴を上げた。一万人の観客全員が息を呑んで声を失う。
その、極限の激突の瞬間――光の足元から、唐突に地脈の「根」が途切れた。
二人の放ったあまりの熱量と物理的衝撃によって、海底岩盤との重力接続が完全に断ち切られてしまったのだ。足の裏からあれほど信じていた大地の感覚が消え去り、光は一瞬にして浮遊感の中に取り残される。
(――親父。あんたは、この絶望の中でも走れたのか。今、俺を見ているか……!)
答えなど来ない。だが、その切なすぎる問いが骨の奥で青白い炎となって燃え上がったその瞬間――。
光は覚悟を決めた。大地に頼るのではない。この関門海峡の荒れ狂う強潮そのものを、己の重力で力任せに抱き抱え、新たな根として力づくで打ち込む!
ピット裏から、老犬「ネ」の遠い咆哮が聞こえた。それだけで十分だった。
細く、しかし深く。焦げ付きながらも、光自らの意思で打ち込んだ重力の錨が、関門の海底と再びガチリと繋がった。
「おおおおおあぁぁぁぁッ!!!」
光は割れた唇から咆哮を上げ、スロットルレバーを限界のその先まで引き絞った。
最終旋回軸の底、砕け散る黒曜石の断層の上を、玄武が海峡の水を真っ二つに削り取るようにして弾丸の如く走り抜ける。
絶対的な重力ターン!
麻帆の魔戦艇がその超質量に押され、水面に激しい航跡を描きながら外側へと膨らんでいく。
熱が消え去り、砕け散った黒曜石の破片は冷たい下関の海へと還っていった。
『ゴールイン! 一着、四号艇・速水光! 予選トップ通過!』
一万人の歓声が、巨大な津波となってスタンドから押し寄せてきた。しかし光はスロットルからそっと手を離し、ただ真っ直ぐに前だけを向いていた。
勝つ局面に至っても、偉大なる父親の顔は未だに脳裏の霧の向こう側にあった。
水面から救助艇で引き揚げられた麻帆が、濡れた漆黒の髪をかき上げながら、じっと光を見つめている。その瞳にはもはや敗北の屈辱はない。ただ――一人の男を、生涯のライバルとして完全に認めた本物の熱い火だけが宿っていた。
「……まだだ。優勝戦で、決着をつける」
たったそれだけの言葉を残し、麻帆は不敵に背を向けた。光はその背中を静かに見つめていた。足元で、いつの間にか駆け寄ってきたネが低く鳴く。
風を終わらせ、溶岩の女帝を退けた。それでも光の胸の奥にある反逆の火は――明日行われる決戦に向け、さらに激しく燃え上がっていた。




