第3話:風を裂く ―― 光 vs 丸山優奈
第3話:風を裂く ―― 光 vs 丸山優奈
下関競艇場、第六レース。二周目バックストレッチ。
水面上は、もはや通常のボートレースという概念を超えた、異能のマブイが衝突する戦場と化していた。一コースを死守する丸山優奈。彼女の駆るボートの周囲では大気が激しく渦を巻き、目に見えるほどの半透明な「風の衣」が船体を包み込んでいる。
「一コース丸山優奈、速い! 風属性の恩恵を最大限に受けた、空気抵抗ゼロの滑空旋回です!」
実況の声が、風を切り裂く高音の轟音に掻き消される。優奈はヘルメットの中で、背後に迫る異常な「重圧」を、肌を刺すような寒気として感じ取っていた。
速水光。
四番手という絶望的な位置から這い上がってきた、泥臭くも巨大な影。〇〇(ダブルオー)号機の黒鉄色の装甲が、彼女が意図的に作り出した複雑な引き波を、まるでものともせずに真っ向から踏み潰してくる。
(地属性……重いはずなのに。どうして、あんなに揺れないの? 私の風が、弾かれている?)
優奈の灰色の瞳に、かすかな焦燥が宿る。風属性のレーサーにとって、最も戦いづらい相手は予測不能なトリッキーな動きではない。むしろ、何があっても、どんな衝撃を受けても微動だにしない「絶対的な質量」なのだ。
彼女はスロットルを僅かに煽り、指先から青白いマブイを流し込んだ。
「なら……風で包み込み、そのまま海の底へ突き落とすだけ」
その瞬間、優奈のボートから放射状に強烈な突風が放たれた。上級技**《風の結界》**。
水面を走る微細な振動さえも風の壁で遮断し、後続艇の挙動を乱し、弾き飛ばす防御障壁。光の〇〇号機がその目に見えない「大気の断層」に接触した瞬間、強固な鉄の装甲が悲鳴を上げるように激しく軋んだ。
「……っ、これが風属性の『拒絶』か!」
光は歯を食いしばる。風の壁は、単なる空気の塊ではない。それは一五〇〇〇のマブイによって超高密度に圧縮された、強固な「流体の盾」だ。地属性の弱点――その重さゆえの「慣性の大きさ」を逆手に取り、繊細な気流の乱れによってバランスを崩された〇〇号機の機首が、わずかに浮き上がる。
(光くんのマブイは、どこまでも重いっす。だから、一度でも重心が浮いて止まってしまったら、再始動するのは至難の業っすよ!)
天才技師・野田あかりの不敵な警告が、光の脳裏を過る。
だが、光の隣には、魂の半身がいる。
ピットの喧騒の中、一頭の銀狼が天を仰いだ。
「――ウオォォォォン!」
ネの咆哮が、物理的な距離とエンジンの爆音を超え、光の胸中に直接響き渡る。
その瞬間、光の内側で重苦しく澱んでいた一五〇〇〇のマブイが、怒涛の勢いで「地脈機関」へと流れ込んだ。
ド、ン――。
「負けへん……。俺は、俺の走りをするだけや……!」
光が咆哮する。〇〇号機の船底に刻まれた太古の地層紋様が、夕焼けのような深い赤茶色に激しく発光した。白銀の冷却管からは、限界を超えた過負荷に耐える蒸気が一気に噴き出し、周囲の視界を白く染める。
地は、揺るがない。
風が揺らすなら、その風ごと大地に縫い付けるまで。
「丸山さん……風で包むなら、地で受け止めるだけや!」
光は逃げなかった。むしろ、最も風圧が激しく、他艇が敬遠する結界の「芯」に向かって、真っ直ぐに舵を切った。
一五〇〇〇の質量を一点、ボートの機首の鋭角に集中させる。それが目に見えない風の壁に接触した瞬間――。
パリィィィィン!
大気が物理的に砕ける、結晶の割れるような異様な音が湖面に響いた。
優奈が誇る風の結界が、光の放つ「地の重圧」によって文字通り粉砕されたのだ。
「風を……力技で割った……というの……?」
優奈の瞳が驚愕に見開かれる。彼女の視界に、砕け散った風の破片を火花のように散らしながら、一隻の「黒い鉄塊」が強引に食い込んでくるのが見えた。
光の横顔が、優奈のボートと並ぶ。
水飛沫と蒸気の中に現れたその表情は、かつて父・速水誠が見せた「黄金の輝き」とは別の、もっと深く、暗く、底知れない惑星の熱を帯びていた。
「丸山さん。俺は、まだ沈んでる途中や」
二周目、最終ターンマークを前にして、光はさらにスロットルを奥へと押し込んだ。
地脈の底、マグマの溜まり場から湧き上がるようなマブイが、〇〇号機のスクリューを狂ったように回転させる。
「地は、深いんや。深ければ深いほど、力は増していく」
優奈は息を呑んだ。
自分を包み、守っていたはずの風が、光の放つ圧倒的な「重力」によって、逆に光の方へと吸い寄せられ、彼の加速の糧となっているのを感じたからだ。
下関の水面が、逃げ場を失ったように地鳴りを上げて震え始める。
新星・速水光。その真の力が、ついにベールを脱ごうとしていた。
それは風を裂き、炎を呑み込み、ついには大地そのものを書き換える伝説の第一歩だった。




