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からくり競艇【白銀の波切り、魂のフルスロットル】  作者: 水前寺鯉太郎
第一部 下関ルーキー編

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「重力の王、誕生」

 二周目、バックストレッチ。

 下関の暗緑色の水面は、今や限界を超えた神々の戦場と化していた。


「……来させない、速水! 私は、風の領域の絶対女王だァァッ!」


 一号艇・丸山優奈の愛機「飛燕」から全方位に放射される、超圧縮大気の衝撃波――《風の結界》。それが目に見えない絶対不可侵の鉄壁となり、四号艇・玄武を猛烈に拒絶する。


 すさまじい空気抵抗に船体がミキミキと悲鳴を上げて軋み、コクピットのマブイ計は完全にレッドゾーンを振り切っていた。


「光くん、ダメっす! 重心がわずかでも浮けば、自分の放つ超重力で自滅して肉体ごと圧砕されるっす!!」


 インカムから響くあかりの悲痛な叫びは、しかし今の光の耳には届かない。

 ピット裏に控える老犬「ネ」が、低く地鳴りのように唸る声だけが、骨の奥まで響いていた。


(浮かび上がる、だと? ならば――最初から跳ぶなどという軟弱な思想ごと、叩き潰すまでだ!)


 光は、全速で開いていたスロットルを一瞬、猛烈な力で「逆回転」させた。

 ドゴォォォッ!!

 船底の超重力安定翼から下関の地脈が逆流し、限界を突き破った出力が針の先ほどの極点へと一気に凝縮される。


 光は、優奈が展開する結界のまさに「芯」を、真下からの質量の一撃で無慈悲に穿ち抜いた。


「パリィィィィィン――――ッ!!!」


 大気が、物理的にガラスのように砕け散る。

 銀色の火花が海面をのたうち、圧倒的な質量を伴った漆黒の玄武が、優奈の視界を暴力的に塗り潰していく。


「がはっ……、あぁぁッ!!」


 凄絶な反動。光の鼻腔から鮮血が噴き出し、網膜が一瞬で深紅に染まった。内臓を真っ向から鉄槌で殴られたような衝撃。だが、スロットルを再び正回転へと叩き込みながら、光はヘルメットの奥で氷のように冷徹に言い放った。


「丸山さん。あんたの綺麗な空は、今、俺が引きずり下ろした」


 玄武の船底から溢れ出る重力の奔流が、優奈の纏っていた「風の衣」を容赦なく剥ぎ取り、猛烈に回転するプロペラへと巻き込んでいく。揚力を完全に失った「飛燕」の船体が水面に激しくバウンドし、みるみるうちに速度を失って後退していった。


 優奈は、己の愛機が引き離されていくのを感じながら――なぜか、美しく笑っていた。

 その灰色の瞳には、これまでの人生で一度も灯ることのなかった、狂おしいほどの「熱」が確かに宿っている。恐怖でも、敗北の怒りでもない。まだ名前のない強烈な感情が、彼女の胸の奥で、光への果てしない執着という名の産声を上げていた。


 最終ターンマーク。

 光は水面を巨大なすり鉢状に陥没させながら、下関の大地そのものをガチリと噛みしめるような圧倒的な大旋回を敢行する。


「ド、オォォォォン————ッ!!」


 惑星の核が咆哮を上げるような重低音。

 玄武がホームストレッチへ一閃の如く躍り出た――と同時に、光はスロットルを引き絞ったまま、ふと目を細めた。


 波が、消えている。吹き荒れていた風が、跡形もなく死んでいる。

 世界が静止したかのような無音の中、チェッカーのゴールブイが右舷を鋭く掠め去った。


「ゴ、ゴールイン!!! 四号艇・速水光! デビュー戦にして風の女王を完全圧殺ゥゥゥ! 新たな重力の王が、今、下関に誕生しましたァァァ――ッ!!」


 実況の声が興奮のあまり激しく裏返り、地鳴りのような歓声がスタンドを大地震のように揺らした。

 勝った。誰もが不可能と信じた地獄の底から、俺は這い上がって勝ったのだ。


 ヘルメットをゆっくりと脱ぎながら、光は胸に手を当てた。

 それでも――偉大なる父、速水誠の顔は、一向に脳裏に浮かんでこない。勝利の甘美な熱が体を巡るより先に、骨の最深部で静かに燃え続けるあの地熱の火が、まだそこにあった。消えるどころか、むしろさらに巨大に、狂暴に膨れ上がっている。


 光は、歓喜に沸くスタンドの最上段を真っ直ぐに見上げた。

 勝元麻帆が、そこに立っていた。

 彼女が触れている漆黒のコンクリートの手すりが、その「マブイ」の熱量によってドロドロと赤黒く変色し、陽炎を立ち上らせている。


 麻帆は傲然とこちらを見下ろしていた。その冷徹な瞳の奥に、本物の「熱」が、確かに灯る。


「見事だ、下関の地脈の主よ」


 麻帆の声は驚くほど静かだった。しかし、その言葉に込められた圧倒的な質量が、これまでとは決定的に違う。初めて、一人の強者として前のめりになった、魂の言葉だ。


「風の小細工は終わった。次は私の『溶岩』が――その泥臭い大地ごと、貴様をドロドロに焼き尽くしてやろう」


 その瞬間、光の足元で老犬「ネ」の銀色の毛並みが低く、攻撃的に逆立った。岩石のように硬質化した銀の毛が、夕闇の中で鈍く、不気味に輝く。光は麻帆の刺すような視線から、決して目を離さない。

 デビュー戦の勝利の余韻など、今の光にとっては足元に転がる一粒の砂利に過ぎなかった。胸の奥で激しく燃え続けるのは、さらなる強敵という名の熱への飢え、そして――未だに答えの出ない、偉大な父親への命懸けの問いだ。


 風の時代は、今この瞬間、完全に終わった。だが、この先に待ち受けるのは、大地の底の底に眠る、本物の灼熱の地獄だ。


「待ってろ、勝元。お前の火、俺の大地が全部吸い尽くしてやる」

 俺の本当のレースは、ここから始まる。

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