第2話:大地、走り出す
第2話:大地、走り出す
午後一時二十分。下関競艇場、第六レース。
新人リーグの開幕戦、その予選ヒートがいよいよ始まろうとしていた。太陽は天頂にあり、関門海峡から流れ込む海水がキラキラと残酷なまでに輝いている。だが、その美しい水面は、レーサーたちにとっては牙を剥く獣も同然だった。
特にこの時間は「潮止まり」から引き潮へと変わるタイミング。潮流と風が正面からぶつかり合い、水面には不規則な「うねり」が発生する。並のレーサーなら直進することすら困難な、国内屈指の難所と化していた。
「さあ、いよいよデビュー戦! 四コースに構えるのは、伝説の息子・速水光! 四番、速水、〇〇(ダブルオー)号機。その『重厚なる初陣』に、全観衆の視線が集中しています!」
実況の声が、海風に乗ってスタンドに響き渡る。一万数千人のファンは、固唾を飲んで四号艇の黒い影を見つめていた。その黒鉄色の船体は、周囲の鮮やかなボートの中で異彩を放ち、まるで深海から浮上した古代遺物のような威圧感を放っている。
「……行くぞ、〇〇号機。お前の力、ここで証明してやる」
光はヘルメットの中で短く呟き、スロットルレバーを握る手に力を込めた。手のひらを通じて伝わってくるのは、軽快なエンジンの高音ではない。内臓を直接掴み、揺さぶるような、地鳴りに似た重低音だ。
ド、ン――。
心臓の奥で、地脈が脈動する。ボートが水面へ滑り出すと、隣り合うコースから三つの異質な「圧」が津波のように襲いかかってきた。
一コース、丸山優奈。彼女の駆るボートは水面を滑るというより、数ミリ浮上しているようにすら見える。「風」の属性を極めた彼女の周囲では摩擦係数がゼロに近づき、ボートは神速の領域へと誘われていた。
「風は、重いものほど形を変えて包み込むのよ。あなたの重さ、私の風で無力化してあげる」
灰色の瞳が、冷徹に光の横顔を射抜く。
二コース、南野杏奈。彼女のボートの周囲だけ、激しい水飛沫が瞬時に蒸発し、白い霧となって立ち上っている。「炎」を象徴する赤髪が、戦闘色となって烈火のごとく揺れた。
「光! 手加減なしや! うちの炎で、その重たい鉄屑ごと炭にしたるけんな!」
三コース、勝元麻帆。彼女のボートが通った後には、重油のようにどろりと濁った「熱のうねり」が残る。「溶岩」を操る女帝は、静かに、だが確実に光の魂を値踏みしていた。
「地属性の後輩よ……あなたの地脈がどれほど深いのか。その真髄、見せてもらうわよ」
光は彼女たちの圧力を、深い土壌が豪雨を飲み込むように、無言で受け止めた。
「……俺は、俺の走りをするだけや」
――ドン。
再び、地底から突き上げるような鳴動。それは、覚醒の合図。
「スタート、三秒前……二秒前……一秒……今、放たれました!」
号砲とともに、六艇がスリットラインを駆け抜ける。
だが、その瞬間、スタンドから悲鳴に近いどよめきが上がった。一コースの優奈が風となって飛び出し、二コースの杏奈が爆発的な瞬発力でそれに続く。しかし、四コースの速水光は、明らかに遅れていた。〇〇号機の重装甲が災いしたのか、スリット通過時点で他艇に一艇身以上の差をつけられている。
「おっと! 速水光、大きく出遅れた! これは致命的なミスか!? 伝説の息子、初陣は苦いものとなるのか!」
「やっぱりダメか」
「属性が『地』じゃ話にならねえよ」
スタンドの野次が潮風に混じる。
だが、光の視界は、かつてないほどに澄み渡っていた。一五〇〇〇の外付けマブイ。その巨大な質量が、〇〇号機の「地脈機関」を通じて船底へと、深く、深く沈み込んでいく。
「……地は、沈むもんや。沈んで、沈んで……力を蓄える」
運命の第一ターンマーク。
先頭集団が激しく旋回に入り、水面は猛烈な引き波と複雑なバウンドで「水の墓場」と化していた。優奈の風が不安定に揺れ、杏奈の炎が激しく跳ね、麻帆の溶岩ですら波に足元を掬われかける。
その混乱の極みへ、光の〇〇号機が突っ込んだ。
驚天動地の光景が、そこに現れた。
跳ねない。
荒れ狂う波の上を走っているはずなのに、〇〇号機だけがまるでアスファルトの直線を走る重戦車のように、ピタリと水面に吸い付いている。他のボートが波に叩かれて失速し、外へ流される中、光だけが波を「踏み潰して」最短距離を突き進んでいた。
「おっと!? 速水光の〇〇号機、まったくブレない! 荒れ水面を、いや、地球そのものを掴んでいるかのようだ! なんという安定感だ!」
光は旋回半径を限界まで絞り、インコースのわずかな隙間へ、巨大な鉄の杭を打ち込むように機首を向けた。
「……ここからや。溜まった地脈を、一気に吐き出す!」
ド、オォォォン――!
地脈機関が、ついに咆哮を上げた。
船底の地層紋様が真っ赤に熱を帯び、沈み込み、溜め込まれた一五〇〇〇のマブイが、爆発的な推進力へと一気に変換される。
それは加速というよりも、巨大な質量が慣性を無視して世界を押し退けるような、物理の法則を塗り替える突進だった。
二周目のバックストレッチ。先頭を走る優奈、追う杏奈と麻帆。その後方に、音もなく、しかし確実な破壊力を伴った「影」が迫る。
「速水光、伸びている! 伸びている! 差がみるみる縮まっていく! 地属性特有の『蓄積』による、後半の爆発的な伸びだぁぁ!」
スタンドの罵声は、今や大地を揺らすような驚嘆の叫びへと書き換えられていた。
「なんだあの伸びは!?」
「波が、あいつの通った後だけ凪いでるぞ!」
「速水光……本物かよ!」
光は前方を走る三人の背中を見据え、スロットルをさらに一段、押し込んだ。
「丸山さん、南野さん、勝元さん。俺は、ここから追いつく。地の底から……あんたたちのいる『空』を捕まえに行く」
遠くピットの端で、銀色の影――ネが、確信に満ちた咆哮を上げた。
地を這う怪物は、今、かつて父が見た黄金の景色とは違う、鈍色の「真実」を掴もうとしている。
地脈の疾走が、戦慄とともに加速を始めた。




