「反逆の地熱」
第3話「反逆の地熱」
満潮から干潮へと潮が急激に引き変わる、魔の転換期。下関・関門海峡は「スクリュー殺し」と恐れられる逆流の荒波を逆立て、獰猛な牙を剥き出していた。
「さあ、全競艇ファン注目の怪物ルーキー、仕切り直しの本番! 第七レース、予選! ダッシュの四コース、四号艇・速水光、漆黒の『玄武』――今スリットラインへとアプローチ――ッ!!」
割れんばかりの実況は、すでにヘルメットの外の雑音に過ぎなかった。
光の耳に届いているのは人間の声ではない。下関の海底をのたうつ幾万本もの脈流が一点へと収束していく、地の底からの凄まじい大鳴動だ。
電光掲示板の巨大な大時計。その白い針が、運命の頂点へと向かって躍り出る。
――十二秒前。各艇が一斉にスロットルを握り込み、水面を滑り出した。
号砲。
内枠の艇が一斉に白い爆煙を上げてスリットラインへと弾け飛ぶ。だが、四号艇・玄武だけが、信じられないことにその場へ深く深く沈み込んでいた。
「あいつ、加速してねぇぞ!」
「やっぱり口だけの漬物石だ!」
スタンドからの容赦のない罵声。だが光の目には、大時計の針しか映っていない。
コンマ五〇、コンマ七〇、コンマ九〇――。
返還欠場・出遅れ失格のデッドライン。その極限の、消え入るような寸前。
「……応えろ、下関ィッ!!」
コンマ九五秒。
光が、水底の岩盤に突き立てていた「重力の錨」をパージし、クラッチを全力で繋いだ瞬間。全身の細胞を焼き尽くさんばかりに猛り狂う二万のマブイが、マグマとなって爆発した。
出遅れたのではない。極限まで圧縮された地球の質量を解放し、海峡の重力場を利用した絶対的なスリングショット。荒れ狂う水面を力任せに押し潰し、最悪のゼロスタートから一瞬にして異次元のトップスピードへと叩き込んだのだ!
一コースを駆る丸山優奈が、目に見えるほどの「風の結界」を纏いながら、超高速でインから先行していく。第一ターンマークの旋回を前に、その美しい艇体が微かに浮いた。光はその戦術の意味を鋭く看破する。
(――大気を床にする気だ。水面を捨てて、跳ぶ気だな)
いい顔だ、丸山。お前は本物の天才だよ。だが、俺の戦場に逃げ込める空など存在しねえ。
優奈が風の力で大気層のクッションを作り出し、水の崖を優雅に滑空しようとするまさにその瞬間。玄武の放つ超重量が、第一ターンマーク周辺の海面を一瞬にして「完全な平地」へと押し潰した。
「正気か四号艇!? 減速なし、あのスピードで旋回できるわけが――ッ!!」
実況の悲鳴。常識ならば艇は水面を滑って外へ吹っ飛ぶ。だが、限界を超えた玄武は、絶対に滑らない。
光は二万のマブイの出力を船底の減圧フィンへと集中させ、水面をアスファルトのごとき極大の摩擦路面へと圧成する。浮くのではない。力任せに抉り抜く。大地と完全に繋がった凄絶な「超重力・まくり差し」!
「ズウウウウウン――――ッ!!!」
地鳴りのような爆音。直径十メートルに及ぶ海面が、ボウル状に深く陥没した。
優奈の展開していた無重力結界が、玄武の放つ超重圧に引きずり込まれ、ガラスのように粉々に砕け散る。人生で初めて「本物の恐怖」に染まった灰色の瞳が、最内をえぐり抜ける漆黒の艇を見送った。
「させるかぁぁぁ、激流の生贄がァッ!!」
バックストレッチへ抜けた瞬間、後方から灼熱の赤黒い炎が、猛烈な勢いで迫ってきた。二コースから差し遅れ、後退しかけていた南野杏奈だ。
「丸山、その風もらいな! 大地なんか、ウチらの旋風で焼き尽くすよ!!」
杏奈の放つ狂暴な炎が、優奈の削り残した風の乱気流を巻き込み、巨大な火炎旋風となって玄武の背後に迫る。二大属性の複合連携。光の〈地〉の質量を、この水面上に永遠に封じ込めようとする牙だ。
光の目が、獣のようにギラリと光った。
「バ、オォォォォン――――ッ!!」
玄武から放たれた圧倒的な重力波が、火炎旋風を大気ごと上空から圧し潰し、一瞬で無残に鎮火させる。
「がはっ……!? んあぁぁぁっ!!」
だが、二つの属性を同時に力でねじ伏せた代償はあまりにも大きかった。
光の胸腔の奥で、何かがバチンと焼き切れる凄絶な感触がした。視界が急速に白く滲んでいく。内臓がひっくり返るほどの強烈なGが、肉体を内側から破壊しにかかる。
それでも、光の眼光は死ななかった。ただひたすらに、前だけを向いていた。
「ここからが……俺の、地獄の底だァッ!!」
スロットルを床まで引き絞る。玄武の機首が完全に単独首位へと躍り出る――その一瞬、光の脳裏に浮かんだのは、かつて父が遺した最後の言葉だった。
(勝利を追うな、光。お前自身が『絶対の不変』になれ)
二マークを目前にして、漆黒の「玄武」は後続を完全に引き離した。
追撃する優奈と杏奈の艇は、玄武が引きずっていく巨大な重力波の「引き波」に飲み込まれ、まるで泥沼にハマったかのように失速していく。
『一着、四号艇・速水光!!』
ゴールラインを駆け抜けた瞬間、下関のスタンドを支配したのは、歓声ではなかった。
あまりの圧倒的な「破壊」を目の当たりにした、死のような沈黙と、地鳴りのような戦慄のざわめきだった。




