「反逆の地熱」
二〇五二年、四月。午後一時二十分。
満潮から干潮へと潮が急激に引き変わる、魔の転換期。下関・関門海峡は「スクリュー殺し」と恐れられる逆流の荒波を逆立て、獰猛な牙を剥き出していた。
「さあ、全競艇ファン注目の怪物ルーキー、仕切り直しの本番! 第七レース、予選特賞! 四号艇・速水光、漆黒の『玄武』、今ホーム水面へと進入――ッ!!」
割れんばかりの実況は、すでにヘルメットの外の雑音に過ぎなかった。
光の耳に届いているのは人間の声ではない。下関の海底をのたうつ幾万本もの脈流が一点へと収束していく、地の底からの凄まじい大鳴動だ。
電光掲示板の巨大な大時計。その白い針が、運命の頂点へと向かって躍り出る。
――十二秒前。各艇が一斉にスロットルを握り込み、水面を滑り出した。
号砲。
五艇が一斉に白い爆煙を上げてスリットラインへと弾け飛ぶ。だが、四号艇・玄武だけが、信じられないことにその場へ深く深く沈み込んでいた。
「あいつ、加速してねぇぞ!」
「やっぱり口だけの漬物石だ!」
スタンドからの容赦のない罵声。だが光の目には、大時計のデジタル表示しか映っていない。
コンマ五〇、コンマ七〇、コンマ九〇――。
出遅れ失格のデッドライン。その極限の、消え入るような寸前。
「……応えろ、下関ィッ!!」
コンマ九五秒。
光がクラッチを無理矢理に繋いだ瞬間、全身の細胞を焼き尽くさんばかりに猛り狂う二万のマブイが、マグマとなって爆発した。
沈んでいたのではない。この圧倒的な地球の質量を以て、荒れ狂う水面そのものを力任せに地獄の底へと押し潰し、最悪の低速から一気にトップギアへと叩き込んだのだ。
一コースを駆る丸山優奈が、目に見えるほどの「風の結界」を纏いながら、超高速でスリットを先行していく。第一ターンマークの旋回を前に、その美しい艇体が微かに浮いた。光はその戦術の意味を鋭く看破する。
(――大気を床にする気だ。水面を捨てて、跳ぶ気だな)
いい顔だ、丸山。お前は本物の天才だよ。だが、俺の戦場に逃げ込める空など存在しねえ。
目の前に、逆流が作り出した巨大な水の崖が立ちはだかる。優奈が風の力で大気層のクッションを作り出し、その上を優雅に滑空しようとするまさにその瞬間――玄武は、逃げるどころか正面からその水の塊へと、超重量の質量で突っ込んだ。
「正気か四号艇!? 減速なし、あの角度で突っ込めば粉砕されるぞォォッ!!」
実況の悲鳴。常識ならばそうだ。だが、限界を超えた玄武は、絶対に跳ねない。
光は二万のマブイの出力を船底の一点へと集中させ、激流の水を強固な鋼鉄の装甲へと一瞬で圧成した。浮くのではない。力任せに貫く。最短最速のインコースを、暴力的な重力で強引に穿ち開く!
「ズウウウウウン――――ッ!!!」
地鳴りのような爆音。直径十メートルに及ぶ海面が、ボウル状に深く陥没した。
魂の奥底で問いかけが燃え盛った瞬間、優奈の展開していた無重力結界が、玄武の放つ超重圧に耐えかねてガラスのように粉々に砕け散る。人生で初めて「本物の恐怖」に染まった灰色の瞳が、光の漆黒の艇を見送った。
優奈の白い艇が重力場に吸い寄せられるように激しく流れ、一瞬横転しかける。必死の操舵で体勢を立て直す優奈。だが、その僅かな間に、玄武は彼女の背中を完全に置き去りにしていた。
「させるかぁぁぁ、激流の生贄がァッ!!」
バックストレッチへ抜けた瞬間、視界の右側から灼熱の赤黒い炎が、真横を猛烈に薙ぎ払った。二コースから異常なスピードでインを差してきた、南野杏奈だ。
「丸山、受け取りな! 大地なんか、ウチらのコンビで焼き尽くすよ!!」
杏奈の放つ狂暴な炎が、前走する優奈の艇を包み込むように追い風となって駆け抜け、光の追撃を遮る巨大な火の壁となって立ちはだかる。二大属性の複合連携。光の〈地〉の質量を、この水面上に永遠に封じ込めようとする牙だ。
光の目が、獣のようにギラリと光った。
「バ、オォォォォン――――ッ!!」
上空からの圧倒的な重力波によって、杏奈の猛烈な火の壁が無残に圧し潰され、一瞬で鎮火して霧散する。
「がはっ……!? んあぁぁぁっ!!」
だが、二つの属性を同時に力でねじ伏せた代償はあまりにも大きかった。
光の胸腔の奥で、何かがバチンと焼き切れる凄絶な感触がした。視界が急速に白く滲んでいく。内臓がひっくり返るほどのGが、肉体を内側から破壊しにかかる。
それでも、光の眼光は死ななかった。ただひたすらに、前だけを向いていた。
「ここからが……俺の、地獄の底だァッ!!」
スロットルを床まで引き絞る。玄武の機首が確実にライバルたちの前へと突き出る――その一瞬、光の脳裏に、かつて世界を統べた絶対王者、速水誠の冷徹な横顔が鮮烈によぎった。
――なぜ、俺を見なかった。
これだけの力がある。これだけの地脈と繋がれる素質があった。それなのに父は、光の方をただの一度も振り向こうとしなかった。試合が終わった後も、血の滲むような練習の最中も。「よくやった」という、たった四文字の言葉を、ただの一度もくれなかった。
その問いは、安っぽい怒りではない。一瞬で消える炎でもない。骨の最深部でドクドクと燃え続ける、一生消えることのない地熱という名の、静かな反逆の火だ。
(――だから、俺は勝つ。あんたをブチ抜いて、証明するんだ!)
六冠王の哀れな息子としてではない。この地球という星の重さを、誰よりも遠くまで運ぶために。
「ドゴゴゴゴゴゴッ!!」
漆黒の「玄武」が、関門海峡の水底の岩盤ごと激しく削り取りながら、水面を爆走していく。
その航跡は血と重力によって鮮烈に刻まれ、誰も見たことのない伝説の形を、今まさに描き始めていた。




