第1話:地脈、目を覚ます
第1話:地脈、目を覚ます
二〇三四年、四月。山口県、下関競艇場。
本州最西端に位置するこのレース場は、関門海峡から流れ込む複雑極まりない潮流と、絶え間なく吹きつける予測不能な海風によって、国内屈指の「難水面」として知られている。だが、この日の下関は、自然の猛威以上に、観客席を埋め尽くした一万数千人の視線という「熱い圧力」に晒されていた。
人々の視線の先にあるのは、ピットの片隅で静かに時を待つ、一艇のボート。
「六冠王・速水誠の息子、本日デビュー」。
その見出しはスポーツ紙のみならず一般ニュースまでも駆け巡った。かつて黄金の閃光と謳われ、水面を支配した父を持つ少年。しかし、期待に反して彼の属性が、競艇において最も不利とされる「地」であると報じられるや、世間の眼差しは、どこか冷ややかな「観察」へと変質していた。黄金の翼を期待された雛が、翼を持たぬ土塊であったことへの落胆。
「ネ……俺、緊張してるんかな」
光は、足元で小さく喉を鳴らす相棒、シロガネ――ネの頭を撫でた。白銀の毛並みが、光の指先を冷たく、それでいて力強く押し返す。ネは光を見上げ、深い琥珀色の瞳で短く、だが誇り高く吠えた。
その瞬間だった。
光の足の裏から、ピットのコンクリートを突き抜け、地球の奥底から届くような重低音が響いた。
ド、ン――。
それは心臓の鼓動よりも遅く、だが圧倒的に巨大な質量を持った振動。「地脈」の覚醒だ。
光の内に眠る「一五〇〇〇」という規格外の外付けマブイが、下関の地底に眠る巨龍のごときエネルギーと、完璧に同期した。父が持っていた空を裂く輝きはない。母の持つ冷徹な静寂とも違う。それは、あらゆるものを飲み込み、繋ぎ止め、決して揺らがない「世界の核」の響きだった。
光はゆっくりと立ち上がった。その双眸には、もはや迷いではなく、幾千年の時を経た地層のような静謐な落ち着きが宿っていた。
「……行くか。俺の初レースや」
展示航走への準備が進む中、光がボートへと向かおうとした時、三つの異質な気配が彼の行く手を阻むように現れた。
最初の一人は、風だった。
丸山優奈。彼女が歩くたびに周囲の重力が希釈され、銀髪のボブが水面に浮かぶ霧のように揺れる。
「速水光。あなたの『地』……どれほどの質量か、私の風で測らせてもらうわ」
その声は、鼓膜を鋭利に撫でて通り過ぎる。
次に現れたのは、爆ぜる火花。
南野杏奈。彼女が近づくにつれ、ピットの湿度が急激に奪われる。
「あんたが誠の息子? 笑わせんといて。重たいだけの泥団子なんか、うちの炎で一瞬で焼き固めたるけんな!」
光は苦笑いを浮かべ、「……燃やされんように気ぃつけるわ」とだけ返した。
そして最後の一人。
勝元麻帆。「溶岩の女帝」が踏み出す一歩ごとに、ピットの鉄板が沈み込むような錯覚を覚える。
「地属性の後輩よ。お前の地脈が本物なら……私の溶岩と混ざり合い、新たな大地となるだろう。期待している」
三人の視線を受け止め、光は静かに頷く。「俺は、俺の走りをするだけや」
ネの咆哮が下関の空を突き抜け、新しい時代の産声を告げた。
ピットアウトの合図とともに、光は「〇〇(ダブルオー)号機」に乗り込んだ。
天才技師・野田あかりが設計した、黒鉄色の重装甲。船体には太古の地層を模した紋様が刻まれ、その奥で「地脈機関」が低く、凶悪な咆哮を上げ始める。
「光くん! スタートで勝とうとしたらダメっすよ!」
駆け寄ってきたあかりが、叫ぶようにアドバイスを飛ばす。
「この船は『溜める』船っす。相手が速ければ速いほど、水面が荒れれば荒れるほど、光くんの地のマブイが水面を固める。沈んで、溜めて、最後に浮上する。それを忘れないでっす!」
「沈んで、溜める」。
光はスロットルを握り込み、地脈機関と同調した。
展示航走。一コースに優奈、二コースに杏奈、三コースに麻帆。そして、光はあえて進入を遅らせ、大外の四コースを選択した。
スタンドがざわつく。「新人が四コース?」「逃げ出したのか?」という嘲笑。だが、実況席に座る老練な解説者だけは、その異様な光景に身を乗り出していた。
「……四コース選択。これは逃げではない。マブイを溜めるための『間合い』だ。四コースは、この荒れ狂う水面を最も深く、広く『観察』できる特等席だ」
スタートラインへ向かうスリット。
優奈の風が水面を撫でて波を消し、杏奈の炎が水飛沫を蒸発させ、麻帆の溶岩が波を赤く染める。三人の天才が放つ圧倒的なエネルギーのただ中で、光の〇〇号機だけが、まるで巨大な磁石のように水面に吸い付いていた。
バウンドしない。跳ねない。
潮流すらも味方につけ、海底数メートルまで根を張ったかのような、異常なまでの安定感。
ド、ン――。
胸の奥で、三度目の鳴動。
「地は……揺るがん」
ネの遠吠えが、エンジンの轟音と重なった。
スタート表示器の針が、ゼロへと向かって加速する。光の全身を、一五〇〇〇のマブイが超高密度の血流となって駆け巡り、〇〇号機の船底から、どろりとした赤茶色の光が漏れ出した。
「全速――全、力」
スタートの号砲が鳴り響いた。
速水光。その「重すぎる一歩」が、下関の水面を大地ごと真っ二つに叩き割った。
黄金の光はもう見えない。そこにあるのは、世界を塗りつぶす、圧倒的な大地の質量だった。




