「地球の目方」
スタンドの最前列に陣取る古参の骨董舟券師が、隣の男の襟元を掴み、かすれた声で耳打ちした。
「……おい。お前、潮の音が聞こえるか」
言われた男は、引きつった顔で激しく首を振る。
聞こえない。関門海峡の狂った激流のど真ん中にいるはずなのに、一切の波音が消え失せていた。まるでこの下関競艇場ごと、目に見えない神の掌に握り込まれたかのように、水面が――不気味なほどに、完全静止していた。
ピットから水面へと滑り出していく、漆黒の重装からくり艇「玄武」。
展示航走へと向かうその足取りは、異常だった。プロペラが超高速で水を噛んでいるはずなのに、水しぶきが一本たりとも上がらない。波紋すら生まれない。瀬戸内の水面は、漆黒の鏡と化したまま微動だにしない。
「あの野郎……マジで、ナニをやりやがった……!」
古参は震える手で己の頬を強かに叩いた。
三十年、この場所で修羅場を見てきた。あの偉大なる六冠王・速水誠の全盛期もこの目で見た。だが、荒れ狂う下関の水面を、その「質量」だけで完全静止させた人間など、歴史上、一人として存在しなかった。
静寂の水面下、光の全身の骨格が、凄まじいGによって軋みを上げていた。
地殻の圧倒的な質量が、毛細血管を内側から突き破らんばかりに貫いていく。骨の最深部から地球の核へとダイレクトに繋留され、網膜が一瞬、冷徹な石板のように灰色に染まった。だが、これは沈む感覚ではない。世界そのものに、深く、深く「根を張る」感覚だ。
限界に達した光が、酸素を求めて「――チルト、」と割れた唇を開いた瞬間、インカムから耳を聾するほどの熱い声が割り込んできた。
「言われなくても、マイナス限界で完全固定済みっすよ、光くん!!」
野田あかりだ。かつて父の三十九号機を世界一に導いた伝説のエンジニアは、今、狂おしいほどの情熱を込めて無線越しに叫んでいた。
「周囲が放つマブイを、すべてこっちの重力に強制変換する回路、出力最大で固定してあります! 敵の出力が上がるほど、こっちの根はさらに深く、地球の底へ突き刺さる! ――掴んでください、大地の底をっ!!」
展示航走のコース、四枠。光は迷わずそこを選んでいた。
対戦相手の天才たちが荒らし、歪め尽くした水面の「狂い」が最も深く集束する、最悪のデッドゾーン。だが今の光にとっては関係ない。波の頂点を華麗に跳ねるのではない。波が砕け散り、最大級の水圧が極まる「地獄の底」を、自らの質量で平らに舗装し、漆黒の滑走路に変えながら走るのだ。
展示発走の瞬間、ピットの端で、老犬「ネ」がその前脚で地面を一度だけ激しく掻いた。
光はその音を、水底の、圧力の流れとして確かに感じ取った。最短にして、最強の航跡が脳内で閃光を放つ。
――誰に向けた言葉でもない。己の弱点を最強の武器に変えた男が、自分の骨に言い聞かせる絶対の呪文。
「カメには、カメの這いずり方があるんだよ……っ!全速――ブチ開けッ!!!」
ドォォォォンッ!!!
衝撃は、水面からではなく、遥か足元の地面から突き上げてきた。
下関競艇場のコンクリート基礎全体が悲鳴を上げて大鳴動し、スタンドの前列にいた観客たちがその重圧で膝から崩れ落ちる。
漆黒の「玄武」が走る――いや、走るという生易しいものではなかった。
大地そのものが海峡に向かって激しく突き伸びるように、巨大な見えない根が、水底の岩盤を強烈に削り取っていく。
一コーナーを抜け、バックストレッチの直線へ。光はスロットルレバーを限界のその先まで引き絞った。しぶきは一本たりとも上がらない。ただ、惑星の地殻を真っ二つに削り取るような、凄まじい超低音の轟音だけが、関門海峡の全空間を支配していた。
展示航走が終わり、「玄武」が無音のピットへと悠然と帰還する。
その瞬間、電光掲示板が断末魔の火花を激しく散らした。
『展示タイム:六秒〇二』
『回り足評価:ERROR(測定不能)』
超最新鋭の計器が、異常な重圧に耐えかねて黒煙を噴き上げる。
スタジアム全体が、呼吸の方法を完全に忘れていた。誰も、声が出ない。通常のボートレースにおける「展示タイム」の常識を遥かに超越した、破壊的な数字だった。
その絶対的な沈黙の中で、影の奥から勝元麻帆が、ゆっくりと立ち上がった。
彼女は無言のまま、ピットの水面へと近づき――白い指の一本を、静かにその水へと浸した。次の瞬間、弾かれたように即座に引き抜く。
その指先が、目に見えるほどに、ガタガタと激しく震えていた。
水が、沸騰せんばかりの超重振動を帯びていたのだ。
丸山優奈が、その震える指を見た。そして恐怖に顔を歪めて目を逸らした。なぜなら、手すりを握る自分自身の両手もまた、止めることのできない戦慄で激しく震えていたからだ。
光は、コクピットの中でステアリングを見つめた。
傷一つない。消耗すら皆無。ただ骨の最深部に残る、ドクドクと脈打つ地脈の余熱だけが、自分が今、この地球という星そのものと繋がったことを証明していた。
「おい、準備はいいか」
声を荒げる必要など、どこにもない。大地は、決して怒鳴らない。ただそこに存在するだけで、すべてを圧倒する。
「本番で――てめえら全員に、この地球の本当の目方ってやつを、その身体に叩き込んでやる」




