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からくり競艇【白銀の波切り、魂のフルスロットル】  作者: 水前寺鯉太郎
第一部 下関ルーキー編

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「地球の目方」

第2話「地球の目方」

 スタンドの最前列に陣取る古参の骨董舟券師が、隣の男の襟元を掴み、かすれた声で耳打ちした。

「……おい。お前、潮の音が聞こえるか」

 言われた男は、引きつった顔で何度も首を振る。

 聞こえない。関門海峡の狂った激流のど真ん中にいるはずなのに、一切の波音が消え失せていた。まるでこの下関競艇場ごと、目に見えない神の掌に握り込まれたかのように、水面が――不気味なほどに、完全静止していた。

 ピットから水面へと滑り出していく、漆黒の重装からくり艇「玄武」。

 展示航走へと向かうその足取りは、異常だった。プロペラが超高速で水を噛んでいるはずなのに、水しぶきが一本たりとも上がらない。波紋すら生まれない。早鞆ノ瀬戸の逆巻く濁流は、漆黒の鏡と化したまま微動だにしなかった。

「あの野郎……マジで、ナニをやりやがった……!」

 古参は震える手で己の頬を強かに叩いた。

 三十年、この場所で修羅場を見てきた。あの偉大なる六冠王・速水誠の全盛期もこの目で見た。だが、荒れ狂う下関の水面を、その「質量」だけで完全静止させた人間など、歴史上、一人として存在しなかった。

 静寂の水面下、光の全身の骨格が、凄まじい重力によって軋みを上げていた。

 地殻の圧倒的な質量が、毛細血管を内側から突き破らんばかりに貫いていく。骨の最深部から地球の核へとダイレクトに繋留され、網膜が一瞬、冷徹な石板のように灰色に染まった。だが、これは沈む感覚ではない。世界そのものに、深く、深く「根を張る」感覚だ。

 限界に達した光が、酸素を求めて割れた唇を開く。

「……チルト、」

 言い終わる前に、インカムから耳を聾するほどの熱い声が割り込んでできた。

「言われなくても、マイナス限界・減圧フィン完全固定済みっすよ、光くん!!」

 ピットのモニター室で、野田あかりは狂おしいほどの情熱を込めてマイクを握りしめていた。かつて父の三十九号機を世界一に導いた伝説のエンジニアの瞳に、歓喜の涙が滲む。

「周囲の過剰マブイを、全部こっちの重力に強制変換する回路は出力最大です! 艇を水面に叩きつけ、海峡ごと大地に密着させる! 敵が吠えるほど、こっちの根は深く地球の底へ突き刺さる! ――掴んでください、大地の底をっ!!」

 展示航走のコース、四枠。光は迷わずそこを選んでいた。

 対戦相手の天才たちが荒らし、歪め尽くした水面の「狂い」が最も深く集束する、最悪のデッドゾーン。だが今の光にとっては関係ない。波の頂点を華麗に跳ねるのではない。波が砕け散り、最大級の水圧が極まる「地獄の底」を、自らの質量で平らに押しつぶし、漆黒の滑走路に変えながら走るのだ。

 展示発走の瞬間、ピットの端で、老犬「ネ」が前脚で地面を一度だけ力強く叩いた。

 光はその振動を、水底の圧力の流れとして確かに感じ取った。最短にして、最強の航跡が脳内で閃光を放つ。

 ――誰に向けた言葉でもない。己の持つ泥の重さを、絶対の力に変えた男が、自らの骨に言い聞かせる呪文。

「地底を這う者には……地底の削り取り方があるんだよ……っ! 全速――ブチ開けッ!!!」

 ドォォォォンッ!!!

 衝撃は、水面からではなく、遥か足元の地盤から突き上げてきた。

 下関競艇場のコンクリート基礎全体が悲鳴を上げて大鳴動し、スタンドの前列にいた観客たちがその重圧で膝から崩れ落ちる。

 漆黒の「玄武」が走る――いや、走るという生易しいものではなかった。

 大地そのものが海峡に向かって突進するように、巨大な見えない根が、水底の岩盤を強力に削り取っていく。

 一コーナーを抜け、バックストレッチの直線へ。光はスロットルレバーを限界のその先まで引き絞った。水しぶきは一本たりとも上がらない。ただ、惑星の地殻を真っ二つに断ち切るような、凄まじい超低音の轟音だけが、関門海峡の全空間を支配していた。

 展示航走が終わり、「玄武」が無音のピットへと悠然と帰還する。

 その瞬間、電光掲示板が断末魔の火花を散らした。

『展示タイム:六・〇二』

『回り足評価:ERROR(測定不能)』

 最新鋭の計器が、異常な重圧に耐えかねて黒煙を噴き上げる。

 スタジアム全体が、呼吸の方法を完全に忘れていた。通常のボートレースにおける展示タイムの常識を遥かに超越した、破壊的な数字だった。

 その絶対的な沈黙の中で、影の奥から勝元麻帆が、ゆっくりと立ち上がった。

 彼女は無言のまま、ピットの水面へと近づき――白い指の一本を、静かにその水へと浸した。次の瞬間、弾かれたように即座に引き抜く。

 その指先が、目に見えるほどガタガタと打ち震えていた。

 水が、沸騰せんばかりの超重振動を帯びていたのだ。

 丸山優奈が、その震える指を見た。そして恐怖に顔を歪めて目を逸らした。なぜなら、手すりを握る自分自身の両手もまた、止めることのできない戦慄に支配されていたからだ。

 光は、コクピットの中でステアリングを見つめた。

 傷一つない。消耗すら皆無。ただ骨の最深部に残る、ドクドクと脈打つ地脈の余熱だけが、自分が今、この地球という星そのものと繋がったことを証明していた。

「おい、準備はいいか」

 声を荒げる必要など、どこにもない。大地は、決して怒鳴らない。ただそこに存在するだけで、すべてを圧倒する。

「本番で――てめえら全員に、この地球の本当の目方ってやつを、その身体に叩き込んでやる」

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