第0話:地脈の子
二〇三四年、四月。山口県、下関競艇場。
関門海峡特有の「逆走する潮流」が、静水面を殺意の宿る戦場へと変えていた。スタンドを埋める一万人の観客が求めているのは、勝券ではない。二年前、この水面で散った「六冠王」速水誠の、あの黄金の航跡――再現不可能な奇跡の再来だ。
その熱狂の断崖に、速水光はいた。
彼が右手に嵌めた「マブイ計」の数値は二〇〇〇〇を指している。一般レーサーの三倍近い出力。だが、針は狂ったように振れ、安定しない。
父の「黄金」でも、母の「氷」でもない。光に宿ったのは、鈍く、澱んだ――「地」の属性だった。
「おい、あれが速水の息子か。……見てみろよ、あの沈み方」
「属性が『地』じゃあな。ボートが水面を掴みすぎて、加速すらままならねえ。ありゃあただの『重石』だ」
無責任な野次が潮風に混じる。光はパーカーのフードを深く被り、自身の右拳を凝視した。
重い。
骨の髄に鉛を流し込まれたような、圧倒的な質量。属性「地」のレーサーは、自身のマブイが水面の重力を増幅させてしまう。他者が時速八〇キロで滑り出すところを、光は泥濘の中を這うような鈍重さで耐えねばならない。父のように風を切り、水面を舞うことなど、彼には許されていなかった。
足元で、銀色の毛並みを持つ一匹の犬――ネが、短く吠えた。
ネは父の相棒だった老犬の血を引いている。ネはふいに、光の脛に力強く頭を押し当てた。その刹那、光の視界が反転する。
(……なんだ、これは)
ド、ン――。
心臓の鼓動ではない。下関の底、海峡を抜ける断層のさらに深くを流れる、巨大なエネルギーの奔流。日本列島を支える大地の血管「地脈」が、光の内に燻っていた「重圧」と共鳴したのだ。
今まで彼を苦しめていた「一五〇〇〇」の余剰出力は、彼を押し潰す重石ではなかった。地脈という広大な大地と繋がるための、「アンカー(錨)」だったのだ。
「……そうか。俺は、浮かび上がる必要なんてなかったんだ」
光が顔を上げた。瞳の奥、泥色だった色が、濡れた黒曜石のような鋭い輝きに変じる。
その瞬間、周囲の空気が重く沈み込んだ。まるでその一画だけ、惑星の引力が歪んだかのように。
「あら、ようやく『芯』が見つかったみたいね」
頭上から、冷ややかな声が降る。スタンドの手すりに腰掛けた丸山優奈が、不敵な笑みを浮かべていた。彼女の周囲では風が渦巻き、銀色のアッシュボブを重力から解き放っている。
「でも、地面を這うカメが、空を飛ぶ私に触れられるかしら?」
「優奈、アンタは黙っとき!」
爆ぜるような熱量を伴って、南野杏奈が割り込む。彼女の瞳は炎のように赤く、立っているコンクリートすら熱で歪ませている。
「地べたを這いずり回るなら、うちの熱でレンガみたいに焼き固めたるわ! 覚悟しとき、光!」
二人の天才からの圧を、光はただ静かに受け止めた。
いや、彼が意識を向けていたのは、そのさらに背後だ。
スタンドの影に屹立する、溶岩のような威圧感――現役女帝、勝元麻帆。
「……面白い。その『重み』、水面で私の溶岩を食い止めてみせろ。若き地脈の主よ」
風が切り裂き、炎が焼き、溶岩が迫る。
だが、光の足は一ミリも動かない。
地脈と繋がった彼の魂は、いまやこの下関競艇場、ひいては地球そのものと一体化していた。
「……行くぞ、ネ。俺のレースを、見せてやる」
少年がピットへと歩き出す。その一歩ごとに、地鳴りのような重低音がコンクリートを震わせた。それは、新たな伝説が地上から産声を上げた合図だった。




