「地の底からの咆哮」
第一部:下関ルーキー編
第1話「地の底からの咆哮」
二〇五二年、四月。
関門海峡特設水面が、地の底から飢えた獣のように低く鳴いていた。
海面を取り囲むスタンドでは、一万人の観客が、速水光の二度目の失墜を舌なめずりしながら待っている。
――“六冠王”速水誠の息子。
それが、光の背中にべっとりと貼りつけられた、唯一にして最悪の焼き印だった。偉大な父の名は栄光の勲章などではない。若きレーサーを縛りつける、冷酷な磔台に過ぎなかった。
昨年の四月、光はこの同じ呪われた海峡で、発走わずか三秒後に艇ごと水底へ沈んだ。引き揚げられた泥まみれの体に降り注いだのは、割れんばかりの拍手ではない。容赦のない哄笑と、罵声だ。今日もスタンドは、全く同じ醜い顔で光を見下ろしている。
「おい、〈地〉の漬物石! 今日も関門の藻屑になるか!?」
「親父の顔にいつまで泥を塗り続ける気だ、大道芸人が!」
誰もが、無様な道化が再び下関の底へ沈む瞬間を渇望していた。速水誠という伝説を、その息子が自らの手で汚す様を見物することこそが、彼らにとって最高の娯楽なのだ。光は、その視線を全身に浴びながら、ただ黙々と愛機の調整を続けていた。
ピットに据え置かれた愛機のマブイ計が、警告音を鳴らして狂ったように跳ね上がる。表示された数値は、二万の大台を叩き出した。
搭乗者の精神出力が、機体設計の許容限界を遙かに超えた証拠だ。だが、行き場を失った余剰のマブイは、光の毛細血管を内側から尖った砂利で擦り上げるような激痛となって肉体を襲う。骨の髄まで鉛を詰め込まれたような凄まじい質量が、五体を容赦なく押しつぶしていった。
水面へ出よう、浮き上がろうとするたびに、呪われた体ごと地球の核へと引き戻される感覚。それこそが〈地〉の属性。己の持つ絶対的な質量こそが、最大の敵になるという残酷な証明だった。
奥歯が粉々に砕けるほどの力で噛みしめ、光は血の混じった唾を吐き捨てる。
(わかってる。全部、わかってるんだよ……! それでも俺は、逃げずにここへ来たんだ!)
ピットの張り詰めた静寂の隅で、白銀の老犬「ネ」が、低く地鳴りのような声で唸った。かつて父・誠の相棒だった老犬スーの血を引く、この海峡生まれの神霊犬。今や光にとって、唯一の伴走者だ。
光はその深く昏い目を見据える。大地の芯、マグマの熱をそのまま映し込んでいるような底知れぬ眼光。言葉などいらなかった。その視線が一本の巨大な杭となり、光の胸の真ん中へ深く打ち込まれた瞬間――脳裏で、かつて忌み嫌った父の言葉が、稲妻のように炸裂した。
『――根を張れ、光。根が深ければ深いほど、木は高く、天へと伸びる』
ずっと、自分を縛る呪いだと思っていた。〈地〉の属性しか持たない自分への、親父からの慰めにも似た嘲笑だと。父の記憶ごと海峡の泥に塗りつぶしてやりたいとさえ、何度も願った。だが、今は違う。
「ゴ、ウン————ッ!!」
気がつけば、光の拳がピットのコンクリートを全力で殴りつけていた。
(――ああ、そうか。そういうことだったのか、親父……!)
床に無数のひび割れが走る。光の足元から亀裂が蜘蛛の巣状に広がり、ピット全体が悲鳴を上げて軋んだ。この下関の地底、遥か深奥を走る巨大な断層が、マブイ二万の咆哮に応えて共鳴し、目覚めたのだ。
俺はずっと間違っていた。父の幻影を追って、浮こうと、軽くなろうとしていた。〈地〉の宿命を持ちながら、浅ましくも〈水〉の真似事をして、存在もしない浮力を探していたのだ。だから、自らの足元にある最強の根を、己の手で断ち切っていた。
浮かなくていい。滑らなくていい。繋ぐのだ。
この艇を、水面の下、遥か海底の岩盤、関門海峡を貫く大地の芯へ。そこに魂の錨を下ろし、この惑星の持つ圧倒的な重さのすべてを、スロットルへと変換してぶち込む!
その瞬間、周囲の空気が、音もなく死んだ。
スタンドの前列から順に波紋が広がるように、観客たちが言葉を失っていく。膝が抜ける者、胸を圧迫されて息が詰まる者、叫ぼうとして声がかすれ、音にならない者。大気中の酸素ごと、光の放つ異常な重力に搾り取られていた。
「……嘘、なに、これ……何が起きてるの……!?」
手すりを白くなるほど強く握りしめた丸山優奈が、戦慄に唇を震わせる。南野杏奈は崩れそうな身体を支えるように柵にすがりついたまま、石のように硬直していた。
そして――鉄格子の影の奥、次戦の宿敵である勝元麻帆の目が、一瞬だけ驚愕に見開かれた。次の瞬間、いつもの冷徹な細目に戻り、麻帆は唇を歪めて獰猛に笑う。
「……面白い。その底なしの重さで、私のすべてを焼き尽くす溶岩を止めてみせるというなら、特等席で見届けよう、速水の小倅」
光は一歩一歩が地響きを立てるような足取りで、愛機のコクピットへと向かった。背中で敵の視線を受け止めながら、振り返ることもせず、ただ一言だけ吠えた。
「止めない。お前の溶岩ごと、俺の大地で丸ごと飲み込んでまる」
シートに身体を叩き込み、スターターロープを全力で引き絞る。
波音が、消えた。鴎の声が、消えた。潮騒が、完全に消えた。一万人の観客の息が――止まった。
凄まじい超重駆動音を響かせ、プロペラが回転を始める。だが、それは水を切るためではない。水面そのものを、圧倒的な質量で引き寄せ、圧着するための駆動だ。
ピット周囲の波が無機質な鏡へと変わり、海面が巨大な神の掌に押さえつけられたように、中央から深く窪んでいく。上空を飛んでいた鴎が一羽、その重力場に耐えかねて力なく海面へと墜落した。
「潮が……関門の激流が、完全に止まった……!?」
掠れた誰かの悲鳴が、完全なる沈黙の中に溶けていく。
大地を錨に。海峡を掌中に。
速水光は――偉大なる伝説の息子としてではなく、己の手で新たな伝説を書き直す絶対の破壊者として。誰も見たことのない、極大の重力の航跡を水面に刻むべく、狂気的な爆音とともにピットを蹴り出した。




