「転覆——壊れたままにはさせないっすよ」
三月、ボートレース鳴門。SG『鳴門王座特区戦』、準優勝戦――第十一レース。
純白の一号艇、白のカポック。
予選得点率トップの玉座をその手にもぎ取った光は、大鳴門の絶対のインコースを死守すべく、冷徹にピットを離れた。
一枠:速水 光(徳島・A2)地脈
二枠:西野 和正(福岡・A1)真空
三枠:大峯 大輝(佐賀・A1)感涙
四枠:成宮 涼(大阪・A1)鉄塊
大時計の針が激しく回り、全艇がコンマ数秒の閃光に向けて突入していく。
スタート――ゼロ。
インコースから完璧なスリットラインを刻んだ光は、そのまま大鳴門の波をハッキングし、一気に逃げの体勢へと入った。
第一ターンマーク――チルト〇・五度の低重心から、大地の根を張ろうとしたまさにその旋回の刹那。
四コースから発走した成宮の駆る艇が、常軌を逸したトップスピードのまま、一マークを完全に無視した最短の直線航跡で突っ込んできた。
「大地ごと、水底へ沈めぇぇぇ速水光――ッ!!」
怨念に満ちた成宮の鉄塊が、逃げ切りを計る玄武の右舷へと、全速のまま真っ向から直撃した。
凄絶な衝撃波と共に、漆黒の玄武が宙へと高く浮き上がった。
視界が不気味に反転し、網膜の裏側へと大鳴門の冷酷な海面が迫り来る。次の瞬間――ハイドロは完全にクラッシュし、激しく転覆した。
冷たかった。
大鳴門の激流が、一瞬にして光の身体のすべてを深く、深く包み込んでいく。だが、それだけでは終わらない。水面に叩きつけられた顔面と両手へと、鉄の塊の破片が凄絶な目方で直撃した。ヘルメットの強固なシェルが、内側から粉々に砕け散る絶望的な音が鼓膜の奥で響いた。
『一号艇・速水光、一マークの凄絶な激突により完全転覆――ッ!!』
場内に、すべてを無に帰す悲痛なサイレンが鳴り響く。
即座に救助艇が急行し、光の身体は水底からピットへと引き揚げられた。
カポックを脱がされた光の右手と顔面には、あの凄惨な衝突の生々しい痕が深く深く刻み残されていた。肉が完全に裂け、隙間から鮮血が止めどなく溢れ出している。
救護班の大人たちが、ピット裏の騒然とする空気の中で、パニック気味に声音を交わしていた。その絶望のログが、遠のきかける光の聴覚へと冷酷に届いてくる。
「おい、速水の顔は一体どうなっとぉ……!?」
「だめだ、裂傷が酷すぎる。顔の皮膚が完全に切れてめくれとる」
「場合によっては、このままレーサーとして再起不能……強制引退かもしれんぞ」
「これが、鼻の断層かな……」
「これが瞼かな……」
「いや、こいが鼻たい」
「うんにゃ、違う。こいが瞼じゃ」
周囲の生々しい絶望の声を骨の底で聞きながら、光は血に染まった唇を僅かに開き、掠れた声を無理やり出力した。
「……スタートの、データは……どうなりましたか。……俺は、まだ……走れますか」
救護員が慌てて、光の血に濡れた口元をタオル越しに強硬に押さえた。
「喋ったらいけん、静かにしろ! 生きとるのが奇跡なんよ! 普通なら今ここで死んでてもおかしくないレベルの衝撃なんじゃ!!」
光は、静かに重い目を閉じた。
地を捨てて空へ逃げた父・速水誠は――かつて、その黄金の航跡の中で、このような絶望の夜を過ごしたことがあったのだろうか。全身に致命的な重傷を負って、周囲から引退の宣告を突きつけられ、それでもなお、ただあの冷酷な水面の上を走りたいと、骨の底から狂気のように願った夜の目方を。
やはり、確定の答えのログは出力されなかった。
光の電子頭脳の意識はそのままゆっくりと深い闇へと遠のき、ストレッチャーに乗せられたまま、救急車のサイレンと共に病院へと搬送されていった。
一号艇、速水光・転覆。
四号艇・成宮涼は、極めて悪質な妨害失格(即刻退郷)のペナルティにより、SG戦線から永久追放処分となった。
深夜、静まり返った鳴門の整備室。
作業灯の冷たい青白い蛍光灯の下で、あかりは、ただ一人で大破した三十九号機の前に立ち尽くしていた。
ハッチを開け、損傷のデータを一つずつハッキングしていく。
成宮のダンプの衝撃により、昨日から「チ、チ――」と鳴いていたクランクシャフトの金属疲労の亀裂は、修復不能な断層にまで深く進行していた。プロペラのブレードも、哀れなほどに歪にひしゃげ返っている。
機体も、レーサーも、すべてが物理的に崩壊していた。
それでも――あかりは、その白くなった指先で、不骨な工具を力強く手に取った。
アタシに何ができるか。この絶望的なスタッツの中で、一体どの回路をアジャストすればいいのか。彼女は涙を流すことすら忘れ、一ミリずつ、鉄の心臓のパーツの生存を確認し始める。
「光くん」
誰もいない、静寂に包まれたコンクリートの整備室に向かって、あかりはぽつりと、魂を込めて一言だけ呟いた。
「アタシたちの玄武を……壊されたままには、絶対にさせないっすよ」
それだけの言葉だった。
彼女は手のひらに刻まれたあの赤いスパナの跡を、鉄の温度と同調させるように、冷徹に、そして狂おしいほどの執念を以て、再び工具をカチャリと動かし始めた。




