「三人分の手の跡——三十九号機に、入っている」
三月、SG『鳴門王座特区戦』、予選二日目。
大鳴門の海面を切り裂くように、朝一番の予選第一レースのファンファーレが鳴り響いた。
番組表に並んだのは、あまりにも残酷な身内同士の激突。
一枠:香芝 大二郎(徳島・A1)波濤
二枠:岩崎 架純(徳島・A1)静謐
三枠:西野 和正(福岡・A1)真空
四枠:速水 光(徳島・A2)地脈
大二郎の撒き散らす圧倒的な《波濤》、それを滑らかに受け流す架純の《静謐》、そしてすべてを吸い尽くさんとする和正の《真空》。三者三様の狂暴な属性が交差する大鳴門の一マークにおいて、光はチルト〇・五度の低重心から、完璧な『揺りかご』の形状で水底へ根を張ろうと試みた。
しかし、師匠の放った本物の海の質量はあまりにも重く、和正の真空が光の根の目方を上空へと激しく引き搾る。
耐えて、三着。一着は大二郎、二着は和正。
「光、お前のあの差しハンドル、回路の選択自体は決して悪くなかった。……だがな、わしの本物の波濤を越えて前に出るには、お前のその大地は、まだ絶対的な質量が足りんな」
ピット裏、カポックを脱ぎながら大二郎が放ったその地鳴りのような言葉が、光の骨の最深部へと冷酷に刻み込まれた。
そして運命の午後、第七レース。
光の駆る玄武は二号艇、黒の勝負服。
スリットタイミングはコンマ〇八の極限。最短航跡で一マークの最内を鋭く突こうとした、まさにその刹那――外枠から強引に絞り込んできた他艇のまくりが、大鳴門の不規則なうねりを拾って完全に制御を失い、逃げ場のない玄武のサイドカウルへと真っ向から直撃した。
「ガシャアァン――ッ! 仕様――ッ!!」
激しい金属音とFRPの破壊音がピット裏まで木霊する。
三十九号機のサイドカウルが完全に大破した。その凄絶な衝撃の余波が、クランクシャフトの最深部にまで到達し、鉄の軸を歪ませたという致命的な感触が、ステアリングを握る光の手のひらを通じてダイレクトに伝わってきた。
万事休す、最悪の六着大敗。
フラフラになりながらピットへと帰瀧し、揚艇機で引き揚げられた玄武の元へ、あかりが顔を真っ白にして駆け寄ってきた。
『光くん! 大丈夫っすか……!? 身体は動くっすか!?』
「俺は平気だ、あかりさん。それよりも、三十九号機が――」
あかりはすぐさまハッチを開け、工具を差し込んで三十九号機の心臓部を検証した。
その瞬間、彼女の細い指先が、見たこともないほどに激しく刻み震え始めた。
『クランクの同調が……完全に狂ってるっす……。これじゃ、明日からのレースで、光くんの放つ地脈の伝達がハイドロに一ミリも伝わらないっすよ……』
あかりの大きな瞳が、悔しさと絶望で一気に赤く潤んでいく。
深夜の整備室。作業灯の冷たい蛍光灯だけが、大破した玄武の機体を青白く照らし出していた。
光は何も言わず、あかりのそのすぐ真横に立ち、自ら不骨な工具を手に取った。
A2のレーサーが、専属メカニックの領域にまで文字通り身を挺して踏み込んだのだ。光は感情の消えた声のまま、あかりの弾き出す指示の通りに冷徹に肉体を動かした。
二人で、ただ無言のまま、朝一番の試運転に間に合わせるために夜を徹してボルトを締め直していく。
コンクリートの窓の外が、じわりと青白い朝焼けに染まり始めた夜明け前。
「……できたっすよ、光くん」
あかりがぽつりと、掠れた声音で呟いた。
光は組み直された三十九号機の無骨な鉄の肌に、そっと掌で触れた。
重さが、あの地球のコアと同じ絶対の質量が、金属の奥底へと完璧に戻っていた。
いや、昨日までのデータとは少し違う。あかりの指先、光の手のひら、そして大二郎から受け継いだあの重い目方――まるで『三人分の手の跡』が、この鉄のシリンダーの最深部にまでガチリと溶接されているかのような、かつてない強固な一体感がそこには確かに存在していた。
足元で、夜明けの清冽な陽光を浴びたネが、主人の回路の再駆動を肯定するように、低く一声だけガルルと鳴いた。
光はヘルメットのシールドを静かに下げ、再び前を見据えた。
大破の奈落の底で、俺たちの地脈は、今度こそ誰にも壊せない本物の盾へと生まれ変わったのだ。




