「一着と二着——父も、この夜を過ごしたのか」
三月、SG『鳴門王座特区戦』、予選初日。
大鳴門の水面には、牙を剥く真冬の名残のような春の突風が激しく吹き荒れていた。
一面に獰猛な白波が立つ、最悪の難水面――しかし、漆黒の玄武のシートに深く沈み込む光の脳内回路は、この流速を完全に記憶していた。
ここは、俺が何度も泥を啜り、大二郎師匠から『揺りかご』の受容を叩き込まれた原点の水面だ。
午前中の第三レース、予選。
光の駆る玄武は三号艇、赤の勝負服。そのすぐ隣、四号艇のカド位置に、佐賀の大峯大輝が陣取っていた。
「親父ぃ、エンジン十二号機が重くて言うこと聞かんばい~っ!」
大時計の針が動く。泣きながらピット離れを敢行した大輝の撒き散らす引き波が、どろどろとした熱泥の質感を伴って、執念深く光の進路へと絡みついてきた。
スタート――ゼロ。
ダッシュ一撃、大輝の十二号機がコンマ〇九の鋭いスリットからイン勢を強硬に締め付けにくる。
だが、光は『揺りかご』の凹を水面へと正確に展開した。
大輝の放った熱泥の狂暴な引き波すらも大地の足場(根)へと強制変換し、それをそのまま前へと弾け飛ぶ推進力に変える。あかりが調律した三十九号機の無骨な低速ハイトルクが、鳴門の荒波と熱泥の包囲網を真っ向から一文字にブチ抜いた。
「三号艇・速水光、大鳴門の激流を力任せに割り込んで今節初戦、見事な一着ゴールイン!!」
まずは一着。
地を捨てて空へ逃げた父・速水誠は――かつて、初めて挑んだSGの初戦で、この水面の一着を搦め取ったのだろうか。
その消えない問いが一瞬だけ脳裏を過り、そして静かに消えていった。ただ今日、俺の航跡の後ろには、絶対的な『一着』という最初の事実だけが残されている。
引き続く、午後の第八レース、予選。
一号艇の絶好枠には、福岡の西野和正が白のカポックを締めて冷徹に佇んでいた。超抜の直線伸び型、六十四号機。
「速水、俺の《真空》は、お前のその大地の重さすらも、自らの推進力へと変換する」
ピット離れの間際、レシーバー越しに届いた和正の声音は、不気味なほどに静まり返っていた。
号砲が鳴り響く。スタートタイミングは全艇コンマ一〇前後の横一線。
光はカドのポジションから、内枠のA一勢を真っ向から叩き潰しにいった。
第一ターンマーク。
インから旋回を切った和正の周囲から、あらゆる大気とマブイが一瞬にして消滅した。
――飲まれる。
脳内の電子頭脳が、かつてない異常なエラーログを出力する。漆黒の玄武の艇体が、目に見えない強烈な斥力によって、虚無の最深部へと強引に吸い込まれていく。カウリングがギチギチと軋み音を立てて鳴き、負圧の歪みが機体をコンクリート護岸側へと引っ張り戻そうとする。
ハイドロが完全にホップし、転覆を覚悟したその刹那。
玄武のシリンダーの奥底で、三十九号機のクランクシャフトがガチリと低く鳴り響いた。
前検日の夜、グリースで顔を汚しながらあかりがミリ単位で締め上げてくれた、あの堅牢なボルトの形をした鉄の目方が、ステアリングを握る光の手のひらを通じて真っ直ぐに伝わってきた。
沈む。もっと深く、あの男の生きた時代よりもさらに深く――『揺りかご』の受容のままに。
和正の放った真空の虚無の底を、俺たちの放つ地脈の超重量で強硬に埋め立て、アースする。
傾きかけた艇体が、水面へとガチリと力任せに戻った。
「三号艇・速水光、死の真空ゾーンから奇跡の生還! 耐えてインの西野に食い下がっている――ッ!!」
二着。一着は、一枚上手だった西野和正。
ピットへ戻り、ハイドロを引き揚げると、あかりがノートPCを抱えたまま、興奮で肩を大きく揺らせて駆け寄ってきた。
『光くん……! あの西野くんの極悪な真空の渦の中で耐え切れたのは、三十九号機のクランクが、完全に大鳴門の底と『大地』として繋がってた何よりの証拠っすよ!!』
光はヘルメットを脱ぎ、煤とオイルの匂いを引き受けながら静かに頷いた。
「ああ。だが、西野のやつ、あの第一マークの旋回ではまだ本当の底を見せていない」
その夜。選手宿舎の薄暗いフローリングの上で、先住犬のネの頑丈な頭を優しく撫でながら、光はタブレットに映し出されたSG初日のリザルトを静かに見つめていた。
【一着、二着】。
神々が集う最高峰の舞台において、これ以上ない絶対的なスコア。
脳内の回路に、昏い熱量を持った問いが静かに湧き上がってくる。
かつて世界を黄金で統べたあの父も、この過酷な舞台で、これほどまでに心臓の削れる夜を過ごしていたのだろうか。
圧倒的な一着をもぎ取ったというのに、なおも視界の先には、底の知れない怪物たちが牙を剥いて待ち受けている。その果てのない夜の目方を、あの男はどう感じていたのか。
いくら数式を回しても、確定の答えのログは出力されない。
ただ、今日、俺たちがこの大鳴門の激流から搦め取ったスタッツだけが、目の前に厳然たる事実として並んでいる。
「明日も、行くぞ。ネ」
足元でネが、主人の回路の再駆動に同期するように、低く一声だけガルルと鳴いた。
窓の外の深く冷たい鳴門の夜空が、次なる準優勝戦への激突を予感させるように、どこまでも静かに、そして広大に広がっていた。




