「三十九——父の艇番が、息子の手の中に」
三月、ボートレース鳴門。SG『鳴門王座特区戦』、前検日――。
ピット裏の特設会場には、全国から集結した五十二名の最高峰のA1レーサーたちが一堂に会していた。
水を打ったような静寂の中、張り詰めた空間に木製の抽選器がゴロゴロと回る乾いた音だけが、不気味に響き渡っている。
鳴門の大鳴門うねりが激しく、潮の流速が寸秒ごとに変化するこの極悪水面においては、初日に引き当てるモーター(エンジン)の素性こそが、そのまま節間の勝率を決定づける絶対の数式となる。
「……ネ。俺たちの地脈を、一番深く水底へと伝えられる最高の相棒を、今ここへ引き当てるぞ」
足元でネが静かに座り込み、その黒曜石の瞳で大時計のようにガラポンの回転を見つめていた。
光たちの数人前、佐賀の大峯大輝がまたしてもアロハシャツの袖で大粒の涙を拭いながら、祈るようにレバーを回した。
「親父ぃ、力を貸してくれぇ!!」
コロン、と落ちた玉の数字は、エンジン番号『十二』。
今節の鳴門の現行機の中で、勝率・展示タイムともに完全にワーストクラスとされる、誰もが嫌がる極悪なスカ機(低出力個体)だった。
「どぎゃんしよ、一発で負ける……!」
大輝が頭を抱えてその場に泣き崩れる。
しかし次の瞬間――彼の放つ絶望の『熱泥』マブイが十二号機の鉄のシリンダーと不気味に混ざり合った刹那、会場の空気がズシンと重く、淀んだ不快な気圧へと急激に書き換わった。悪い機体の鉄のバグが、大輝の負の感情と同期したことで、出力を別のドロドロとした異質のエネルギーへと変換し始めていたのだ。
続いて、福岡の西野和正が迷いのない冷徹な手つきでガラポンを回した。
「六十四――悪くない」
出力されたデータは、誰もが喉から手が出るほど欲しがっていた、超抜の『直線伸び型』エース機。
和正の《真空》のマブイがその瞬間に六十四号機のピストンへと完璧に同期し、カウルの周囲に存在するすべての空気抵抗が、まるで最初からなかったかのようにサーモグラフィから消え去っていった。
ついに、光の番が回ってきた。
手甲の油を拭い、右手を冷たいレバーへと掛けたその瞬間――防潮壁を蹴る足の裏を通じて、大鳴門の水面がカチリと脳内の電子頭脳へとリンクした。
ここは、俺が何度も泥を啜りながら戦い抜いてきた原点の水面だ。大二郎師匠から『揺りかご』の受容を叩き込まれた、地球の断層。
光は無表情のまま、静かにレバーを回した。
「エンジン番号、三十九――ッ!!」
競技委員の声と共に、純白の玉が受け皿へと滑り落ちる。
ピットの最奥に厳重に係留されている三十九号機が、まだガソリンすら一滴も通されていないはずなのに、地鳴りのような低いハミングを響かせた気がした。
『光くん、それっ――! 特性データが出たっすよ! 低中速域の立ち上がりトルクが、全五十二基の中で一番重たい異端のハイトルク個体っす! アタシがプロペラを完璧に調律すれば、光くんの放つ超重力マブイで、大鳴門の水面を直接上からへこませて押さえつけられるっすよ!!』
音声レシーバーから飛び込んできたあかりの声は、エンジニアとしての狂喜に激しく震えていた。
「分かった」
光はヘルメットの顎紐を締め直し、冷徹に言い放った。
「最高の相棒だ。あかりさん、すぐ試運転(ログ取り)に入る」
後方では、大二郎と架純がベテランの絶対的な余裕を漂わせながら、各自が引き当てた中堅機を手際よくワークエリアへと運んでいく。
試運転用のピットへと歩みを進めながら、光はクレーンに吊り上げられた三十九号機の無骨なシリンダーを見つめた。
重い。まだセッティングを施していないというのに、金属に触れた瞬間の手応えだけで解る。地脈の周波数が心地よく共鳴している――この鉄の心臓は、俺の背負う大地の目方と、最初から全く同じ深さを向いている。
地を捨てて空へ逃げた父・速水誠は――かつて、この大鳴門の頂点に立った前検日、一体どんなエンジンを引き当て、どんな回路を組んでいたのだろうか。
その消えない問いが一瞬だけ脳裏を過り、そして静かに消えていった。
答えのログは出ない。ただ今日、俺の手元には、確かにこの『三十九号機』という圧倒的に重たい絶対の事実が存在している。
「ネ、行くぞ。新しい相棒の試運転だ」
大鳴門の巨大な渦潮が、彼ら二世代の激突を歓迎するように、いつもとまったく変わらない狂暴さで巻いていた。
光がスロットルを開けた瞬間、三十九号機の重厚な本当の心臓が、水底の岩盤を揺らすような低い咆哮を上げ始めた。




